埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第五章(その2) りんとでこ

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 六月二日、午後六時過ぎ。
 戸田は天文館の電車通りに面した書店の二階にいた。
 あれ以降日高秀子からの連絡はない。
 戸田から二度ほどかけたが出ない。
 だが、GPSによる所在地確認は続けられている。
 捜査員の配備はないものの事実上の監視下にある。
 この二日ほどは登校はしていないが自宅にいた。
 ひとまずは安心だと言えた。
 ぼんやりと日高秀子にもう一度連絡を取らねば、と考えている戸田の傍らに新納涼子がすり寄ってきた。
 戸田は涼子に気付くと、知らず目をそらして、歩き出した。
「豆腐でも食おう」
 頷いた涼子は、腕でも組みかねない近さで戸田に付いてきた。
 電車通りに面した商工会議所ビルの最上階八階に、戸田の言う豆腐を食わせる店があった。その時刻には最上階まで直通になっているエレベーターが動いている、ほんのわずかな時間を戸田は持てあました。十一人乗りの空間は、ふたりで乗るには決して狭くはないが、戸田には狭すぎた。
 涼子がどう思っていたかは知る由もないが、彼女はぎちぎちに詰めないと乗り切れないかのように戸田にくっついている。
 エレベーターが、【菜卓なたく】への、その店への扉を開けたとき、戸田は開放感を感じほっとした。同時に相反する思いが去来したのは、矛盾と言えなくもなかったが。
 ふたりが案内されたのは、菜卓の窓際の一番奥の席で、他の席からは見えない造作になっている。予約した時の戸田のしどろもどろさに店側が気を利かせてくれたのかもしれなかった。
 戸田は、運ばれてきた冷酒を何も言わず注いだ。
 涼子も何も言わず注ぎ返し、ふたりゆっくりと飲み干した。
 ふたりは、話し出すきっかけをつかめぬまま杯を重ね、料理に箸を付けた。
 沈黙は重かったが、心地の良いものだった。
『ならば、これでいい』
 そう戸田は思った。  
『しゃべらなければ余計な希望は……』
 ぼんやりと新納涼子の、りんの顔を見つめていた戸田の携帯が鳴った。
 日高秀子からだった。

――やっとかける気になった、と彼女はぽつりと言った。  
「戸田さん、今から会えるかな」
 戸田は一瞬詰まった。
 そのわずか一瞬の沈黙が、秀子の気持ちを硬化させていく様子が戸田に痛いほど伝わってくる。
 繋がりかけた信頼の糸を今ここで切るわけにいかない。
 戸田はりんに背を向け声を潜めた。
「すまない。今惚れ抜いた女と、やっと一緒にいる」
 はい? 
 微かに漏れた小さな乾いた笑い声が、すぐに電話の向こう側で弾けた。
「うそ。章ちゃん、やるねえ。じゃあ、しかたないか」
 いや。それは私情だ……。
 と戸田は声音を戻して続けた。
「今どこにいる。すぐに行く」
 秀子の含み笑いが聞こえてくる。
「いいよ。もう。大事なんでしょう、その人。明日のさ、夕方にもう一度かけるから」
 通話は切れた。
 二度、三度とかけ直したが出る気配がない。
 戸田は諦めなかった。
 信頼はこちらが腹を割るところからしか生まれない。
 言わずとも構わないことだったが、言ったことで細い糸は繋がった。
 それだけは確信できた。だからこそ、ここでもう一押しが必要になる。
 六度目。
 繋がった。
 あーあ、
 と向こう側であきれ返った声が響いている。
「その人ほっぽいて、ほんとに来るの」  
「ああ、そうだ。ちょっと無理した食事代を稼がなくちゃならんからな」
「ふーん。じゃあいいや。来なくてもいいよ。こっちから邪魔しに行くから。どこ?」
 秀子は含み笑いをしている。戸田は笑った。
「おう。直ぐに来い。高校の先生と刑事と一緒でよければ、デザート準備させとく」
 げっ、と大げさな声を上げて秀子は笑い出した。
「いいよ、いいよ。今夜は遠慮しとく」
「そうか。じゃあ、明日の、昼からでも話が出来ないかな」
「んー。無理」
「じゃあ、明後日の月曜日は?」
「お昼、なんか奢ってくれる?」
「ああ。何でも。あんパンと牛乳でも。カツ丼でもいいぞ」
 秀子は笑っている。戸田は、学校はいいのか、とは言わない。
「じゃあ、月曜のお昼に……」
 と言いかけた戸田のことばを、県庁で、と秀子が遮った。
「展望レストランに行ってみたい」
 じゃ、決まりだ。待っている。
 と戸田は言った。
『これで、一歩進むかもしれない』
 戸田は安堵のため息をもらした。

 りんが視界に戻ると同時に、さっきの話が聞こえていなければいいが、と戸田は思った。だが、まさか聞くわけにもいくまい。
 戸田は観念して涼《りん》を見つめた。
 察した全てを飲み込んで、なお柔らかな笑みを浮かべた涼が、静かに尋ねた。
「残りの食事をするだけの時間はありますか」
「ええ、もう一軒呑みに行くぐらいの時間も」
 戸田はそう答えて笑った。
「大したことじゃないんですけど、言い辛くて」
 と涼はほんの少し言い淀み、
「私、新納から香山に戻ることになりました。この春には決まってたんですけど、そこまでが長かった」
 寂しそうに笑った。
 戸田にことばない。
 正確に言えば、刑事としての戸田章三なら、即座に気の利いた慰めのことばが、いくらでもかけられたはずだが、ただの戸田章三では、曖昧に頷き目の前の杯を煽るしか手がなかった。
 涼は、そんなただの戸田を静かに見つめていた。

 翌六月三日早朝。
 昨夜から狐の嫁入りのような雨が降ったり止んだりを繰り返していたが、雨のせいではなく、戸田はいつもの早朝巡回をしなかった。
 午後三時過ぎになると雨が止み、戸田は涼を中央駅に送っていった。
 「未だに中央駅には馴染まん」
 戸田は、かつての【西駅一番街】をひとりで歩きながら呟いている。
 かつての一番街を抜けると都通に出る。
 左に向かえば、県立鹿箭島高へ。
 右へ向かえば柳田通りから唐湊方面へ向かうことになる。
 戸田は左に折れた。
 鹿箭島校前を通過して左折し、F大付属高校前を経由して甲突橋を渡り左折、左岸緑地公園内の歩道をそのまま下っていく。

 散見したネット上では、稲村事件に触発された犯人が、より洗練された手法で日本の娼婦狩りを行ってみせた。という説が主流で、ネット上のことばを借りると、単にロリオタの模倣犯説とほぼ二分していた。その中に手がかりでもあれば。
 ぼんやりと考えながら歩いていた戸田は、公園の中に誰かを捜していることに気付いた。
「木塚悟か。ねえな」
 戸田は自嘲した。
 夕方、日高秀子に連絡を入れたが繋がらない。
 留守電を入れておく。
――明日、大丈夫かな? 明日になったら、また連絡を入れる。今度はちゃんと出るんだよ、でこちゃん……。
 
 
 六月四日、午前六時前。やっと登った朝日には、薄曇りの中、うっすらと日光冠がかかっている。一日にも上がった桜島の噴煙は、鹿箭島市内に降ることもなく、降ったとしても、多少ではあるが二日夜半からと三日の雨ですっかり流されていた。
 戸田は、鹿箭島高手前でバイクのエンジンを停めると、押しながら鹿箭島高前を通り過ぎようとした。
 この時間にもかかわらず、校門前に数人の人だかりが出来ていて、声高に何かしゃべっている。
 戸田は、嫌な予感にかられてバイクを放り出すと走り出した。
 閉め切られた校門前には、女性と思わしき頭部が置かれていた。
「県警の者です。通報は? まだ? 最初の発見者は? あなた? 申し訳ないのですが、警察官が来るまで全員ここにいて下さい。それから、少し離れてください」
 戸田は手短に聞き、手短に指示し、通報した。
「司令センター。こちら県警捜査一係戸田。○六時○七分、上之園町鹿箭島高校南門前で女性と見られる頭部確認。至急要員を急行されたし。繰り返す。上之園町鹿箭島高校南門前で女性と見られる頭部確認」
 戸田は通話状態のまま胸ポケットに携帯電話を押し込んだ。
 戸田は、発見者それぞれに、氏名・住所・職業、発見したときの時間・状況を尋ね、復唱した。その音声はそのまま司令センターに流れている。その合間を縫って、置かれた頭部の状況を詳細に報告していた。
「発見された遺体は、若い女性と見られる頸部で切断された頭部。切断面は鋭利。他に損傷なし。頭部並び周囲に血痕なし。口をガムテープで塞がれている。髪は肩までのうす茶色。装飾品なし。周辺5メートル内外に被害者、ならびに犯人のものと思われる遺留品は、現在確認できず……。ただし、被害女性に心当たりあり」
 そう戸田は報告した。
「市内小川町○○、日高秀子十七才。と思われる……」 
 戸田は天を仰ぎ、唇を噛んだ。
 冠がかかった太陽が薄雲の向こうで鈍く輝いていた。
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