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第五章(その4) 最初から 警部補戸田章三(3)

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 戸田の重苦しい沈黙のせいもあろうが、さしたる進展もないまま研究会はほどなく終会した。
 刑事課の戸田の机の上は、席を外していたわずかの時間に載せられた捜査資料で埋まっている。戸田は、電源を入れたパソコンの液晶の明かりで照らすようにしながら資料に目を通し、色変わりのボールペンで書き込んでいく。
「最初からうまくいくはずがない。最初のどこかでミスをしている。慣れてきてもどこかでミスをしている。方針が変われば、手法が変わればどこかでミスをしている。全てうまくいったとしても、どこかに何かを落としている」
 戸田は呟いている。
「被害者が自分で動けない限り、被害者の場所には必ず犯人がいる。痕跡は必ず残る。俺が見つけられないだけだ」
 資料への書き込みが黒から赤へ、そして青へ変わるころには、書き込んだ戸田以外に判別がつかなくなっていった。
 戸田は、当たり障りのない文書を裏返して、思いつくままのことばを書き込み始めた。
 ミートソウ。福岡。牧場。閉鎖。財産処分。処分業者。所在不明。車両販売。引き受け。沖縄。ブローカー。車検。継続審査。代理納入。自動車税。鹿児島。販売業者。廃車。ナンバープレート。盗難車両。移動。放置。ライトバン。電源……。

 最新の捜査報告では、頭部切断に使用されたミートカッターの同型種のうち、福岡の牧場に納入された一台は牧場の閉鎖とともに所在不明になっている。
 牧場の資産は大半が同県内の同業者に売却されていたが、三台の車両が沖縄の個人ブローカーを経由して鹿児島の車両販売会社に買い取られていた。二台は一端廃車後再整備され新しいナンバーをつけて再販されており、残る一台は牧場主の個人名義のまま、自動車税を代理納入しながら二回ほど車検の継続審査を受けていた。
 牧場主はすでに所在不明で、個人ブローカーが車に家財や骨董品・工具・電化製品を詰め込めるだけ詰め込んで買い取ったことまでわかっていた。
 未だに連絡の付かない個人ブローカーの連絡先は、二重三重に何色もの色で丸く囲ってあって、受話器に手をかけた戸田の目の前にある。
「たぶん、ここのミートソウでしょうね」
 瀬ノ尾が口を挟み、
「北海道でも二台ほど所在が不明だそうだ。可能性は同じだろう」
 と戸田が素っ気なく答えた。
「そのものがあると言うこと。何で運んだか。どういうルートでそいつが運ばれたかの証拠がなければ、特定はできない」
「はいはい。見る人の眼が違えば同じ物でも違って見えるそうですから、戸田さんには同じ証拠が違う証拠に見えるんでしょ。そこまで言うんなら、あれです、戸田さん。戸田って印鑑べたべた押した包装紙で包んじゃえば、中身が瀬ノ尾だって戸田になるって……」
 瀬ノ尾が皮肉を込めて散々愚痴りかけたが、戸田は最後まで言わせなかった。
「黙れ、ちょっと黙ってろ」
「……」
「そうか。それだ、瀬ノ尾。そういうことだ。その車そのものが動かなくても、その車は動かせる。白バンが道路を移動していても、白バンには見えないんだ」
 戸田は、メモのライトバンと盗難車両をそれぞれ赤く囲って一本の線で結び、【大型免許の可能性あり】と書き込んだ。
 瀬ノ尾が怪訝な顔をして覗き込むと、戸田は顔中に笑みを浮かべた。
「いいか、瀬ノ尾。例の白バンは、盗まれた修理工場と発見されたスクラップ工場までのどのルートでも目撃情報がなかった。直に走ってなきゃ目撃もされないはずだ。白バンは別な判子の包みに包まれてた。つまり実際動いていたのが車両運搬車だとすれば、荷台に載ってる白バンまで答える人間はまずいない。そういうことさ」
 それに、と戸田は付け加えた。
「他の車と一緒に運べば、白昼でも不自然じゃない。注意が分散するってもんだ」
 戸田は時計を見た。すでに午後十時半を回っている。西署への連絡は明朝の方がいいかもしれない。戸田はメモをポケットに押し込んだ。
「おれは、新屋敷のアルファードに寄って、例のアンケート回収してから帰る。瀬ノ尾は好きにしろ」
「行きますよ。ぼくより戸田さんの方が寄り道でしょうに……」

 アルファードは、新屋敷町の北東から南西に向かって伸びるパース通りに面した雑居ビル一階に古着商の看板を掲げている。パース通りは、鹿箭島市とオーストラリアのパース市との姉妹都市協約成立を記念して名付けられたものだ。そのゆかりもあって、市営動物園にコアラが登場するのも早かった。
 話がそれた。アルファードは確かに古着商には違いないが、商品はコスプレとアダルトグッズ、いわゆるブルセラショップであり、各種テレクラ・出会い系サイトのプリペイドカードの販売や派遣型風俗店の受付も兼ねていた。
 今回の事件で最重要視されている店のひとつでもあり、顧客名簿、防犯ビデオ、事情聴取、張り込みと、捜査と名の付くものは一通り受け、現在も継続している。
 オーナーの朝倉は、戸田を見るなりわざとらしいため息をついて、視線を泳がせた。視線の先の路地には中央署の若い捜査員が張り付いている。
「忙しいところすまんが、この前のアンケートを回収に来た」
 戸田は誰もいない店内を見渡して、にやりと笑った。
「商品が、ずいぶん大人しくなってるじゃないか」
 十坪ほどの店内には、サンプル用の夥しい写真と数点の衣装、ふたつの小振りなガラスケースにはいったアダルトグッズが、奇妙な整然さで並んでいた。その中にぼんやりと立っている朝倉は三十代前半のやせ形で中柄の部類である。細面の青白い顔に、時折光る切れ長の吊り目と薄い唇が酷薄な印象を垣間見せている。
「あれ以降のお客さんの好みですから」
 朝倉は何故か霧氷時の見える営業用の薄い笑みを浮かべながら、カウンターの引き出しからアンケート用紙を取り出して戸田に渡した。
「他でも当たってみましたが、うちのや知り合いの店に勤めてるにはいないようです」
「だろうな……」
 戸田が用紙をめくりながら気のない返事を返すと、お役に立てませんで、と朝倉は続けた。
「そう言えば昼過ぎから、鹿箭島高の制服を買ってくれって電話やメールが増えましたよ。買いたいって話はありませんから、全部お断りしてますが」
「だろうな……。相変わらずの受注販売か」
「ええ。ご存じのように、注文受けてから泥縄でOGに泣きついて買ってますけどね」
 戸田は笑った。
「それしか言えんだろうが……」
 朝倉の顔に苦笑いが浮かび、表情が動いた。
「なあ朝倉。買い付けの際に、何か話は聞かないか」
「何かある子は、暴力を受易い子は、それが当たり前だと思ってますから……。かえって見つけにくいもんですよ、戸田さん」
「そうか、すまなかったな」
 アルファードを出てパース通り横切ろうとした戸田に、北東からの強風が吹き付けてきた。風上、北東側に延びる道路の先には桜島がそびえているはずだが、夜のことで桜島の陰しか見えない。しかも、昼過ぎから降り積もった火山灰が風に巻き上げられて、眼に飛び込んでくる。戸田は痛みで瞼を閉じた。
『噴煙たなびく桜島、日に五度変わる五彩に涙し、眼にごとっと入る降灰に涙す……か』
 思わず苦笑いしながら涙をこぼす戸田の隣で、これまた眼に飛び込んだ灰の痛さに瀬ノ尾が素っ頓狂な悲鳴を上げていた。

 六月五日。午前七時半。戸田の姿はすでに西署にあった。
 戸田が、西署の強行犯係長打越に車両運搬車の件を告げると、いきなり肩を叩いてきた。
「そいつだ。田上って辞めた運転手が胡乱だったんだ。引っ張れるぞ。すまんな戸田」
 定例会議では、R解体センターの元従業員田上義直(五十一)を重要参考人として再び事情聴取をする方針を固めた。間接的だが、近づきつつある。それが会議に出席した捜査員の共通した思いだったろう。
 また、判明した限りではあるが、ペットシップ石和田で販売された水質調整剤の購買者リストが報告された。並んでいる人名を追っていた戸田の眼が、木塚悟の欄で止まり、すぐに隣の席の瀬ノ尾が指先で木塚の名前を叩いてみせるのがひどくゆっくりと飛び込んできた。
 見上げた戸田の目に、勝ち誇った瀬ノ尾の表情が写った。
 耳には下川畑西署鑑識課長の間延びした声が響いている。
「日高秀子の眼球から桜島の降灰と思われる微物が発見されました。一考を要します」
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