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第七章(その3) 失態

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 六月九日の正午前の時点で、判明したことはさして多くなかった。
 これまでと同様の扼殺による窒息死、その後ミートソウと同種の刃物を用いての頸部切断。口をガムテープで塞いでいた。両瞼が鋭利な刃物で切り取られていることと、口腔内に被害者の血液の入ったコンドームではなく、切り取られた他者の舌が入れられていたこと。剥き出しではなく、木細片を詰め込んだ紙製の段ボール箱に入れられていたこと。など多少異なる点も見受けられた。
 口腔内にあった他者の舌は、DNA鑑定を待たなければ確定できないが、切断面の形状並びに血液型から、まず日高秀子のもので間違いないと推定された。
 今回の被害者は、十代後半から四十才代の女性。血液型はA型。肩までの髪を薄茶色に染め、パーマネントウェーブをかけており、ウェーブの落ち具合からこの一、二週間の間にかけたものと推定されている。既に似顔絵が作成され、正午前のニュース番組から流されていた。

 戸田が、昼食用の調理パンを囓りながらそれだけの情報に目を通している間に、吉野町のリサイクルセンターの報告の一部が上がってきた。
 血液反応がもう一カ所から発見され、二カ所の木細片の山から採取された血液型は、両方ともA型。DNA鑑定を待つ形になるが、日高秀子の眼球からチップセンター周辺のものと目される火山灰と微細木片が発見されていることから、彼女の血痕である可能性が期待されていた。
「(DNA鑑定の)結論が出るのは三日後ですね」
 瀬ノ尾が、戸田に二杯目のお茶を注ぎながら言い、戸田はそのお茶を口に含みながら曖昧に頷いた。戸田、と渡辺係長が呼んだ。
「お前、よく見つけられたな。鑑識を寄越せと連絡があったときは、一ヶ月始末書を書かせるつもりだったが……」
 渡辺係長のことばは、相変わらず嫌みだが、かなりに機嫌がいいらしい。
 確かに、以前チップセンターに鑑識を入れるように頼んだとき、すげなく断りはしたが、実際は警察犬を使う手配まで段取りしていた。
 結果的に出来なかったが、今回の独断専行でも板挟みになりながら、段取ってくれたのは確かだ。機嫌の良さは板挟みの圧力の強さの裏返しだが、素直に喜べないところで大きく損をしている。
「能吏が、東京ドームのどこかに撒かれたバケツ一杯の水を見つけだしたというわけだ」 
 戸田はゆっくりと首を振った。
「いや。グランドがどれだけ広くても、とりあえずバッターボックス周辺なら必ず人が通る。それがあたっただけのことです」
「なるほど、動線上のあれやか」
 表面上はうまくいったが、実際は木塚の手助けがなければ失敗していたろう。
 戸田は複雑な思いで渡辺係長の駄洒落をスルーした。
 当然瀬ノ尾も倣ってスルーする。
「戸田さん。あそこで切断されたと確定するとして、その道具のミートソウの所在、今日の捜査会議にも上がって来なかったんですかね。そろそろ上がってもいいような気もしますが」
 ああ、それはだ、と係長が口を開いた。
「帳簿に電動ノコギリと記載してあったのを、電動丸ノコの書き間違いだと思いこんで、ごていねいに書き直した者がいたそうだ。で、帳簿上消えた。現物自体は、一昨年の秋に有島殖産が開催した中古品・アウトレット市の際、たまたま見に来た個人に売却したそうだ。やっとのことで、獲ったイノシシだか鹿だかを捌くのにどうとか言ってたのを思い出してくれたんでな。猟銃の所有者や食堂・宿泊施設の関係者に当たるように手配してある」
「売った相手を覚えてないんですか」
 渡辺係長は何も言わず、否定の意味で手だけを振った。
「それじゃあ、いま現在の所有者がまず犯人なわけなんで、購入者から追跡していくとどっかで盗品になってましたってオチでしょうかね」
 皮肉気に瀬ノ尾が聞き返した。
「ライトバンにしても、結果的に盗難車でしたし……」
 渡辺係長の反応はない。

 代わりに、ああ、と戸田が反応した。
「それだ。リサイクルセンターから盗難されて、事件に使用されるまでのざっと一月のタイムラグ。その間にどこにあったか……。瀬ノ尾の考える通り、そこで清掃されたのかもしれんな」
「R解体センターの田上が、白バンを持ち込んだのが、三月十六日……」
 瀬ノ尾が、机の山積みされた資料の中から自分用に作ったメモを引っ張り出して、眺めている。
「その後、三月十九日、三月二十五日、四月四日にはリサイクルセンターにあったことが確認されていますが、四月二十八日に出水市のショッピングセンター・オオセで津田純子を乗せたところを目撃されるまで所在が確認されていません」
「その白バンが、大泊敬吾の証言を受けての四月十日の捜査と、さらに稲村直彦の供述を受けた四月十三日の現場検証の際に、小山田の○○建設の資材倉庫の写真に写り込んでいる気がしたわけだ」
 ええ。瀬ノ尾は大きく頷いた。
「確かにそれらしい車体は確認できました。ですが、四月二十日の実況見分の時の写真にはありませんでした。○○建設の資材を引き取った有島殖産の話だと、引き受けた分の車両の処分は全部終了していて、小山田の倉庫には車両はないはずだそうで。津田純子絡みの白バンではないにせよ、内情に詳しい誰かが、何かの目的でこの時期に持ち込み、再度持ち出したのは確かです」
「その車と、白バンをイコールにするのはかなり厳しそうだな」
「でも戸田さん。もちろん車内からは出てませんが、ボンネットの裏、ラジエーター回りと比較的新しい指紋があったじゃないですか」
 戸田は大きく手を振った。
「乗ったとはっきりしている田上の指紋じゃなかった。車両窃盗の前科の指紋とも照合したんだろう」
「ええ。直近の前科、容疑者、現場ともに該当する者は、登録されていませんでした」
 まあ、と戸田が瀬ノ尾の肩を軽く叩いて言った。
「地道に周辺の目撃情報を拾い出すのが、結局は一番の近道ということだ。だがおそらく、白バンの目撃情報は出ない。包装紙の車両運搬車を探す方が近道だと思う」
 瀬ノ尾は不満げな表情を浮かべたまま、机上のマウスを動かしている。カチカチというマウスのクリック音が、当てつけがましく指紋の再照合する瀬ノ尾の苛立ちそのままのように聞こえ、
――ねえよ、と戸田は思わず鼻で笑った。
 事件現場の指紋がデータベースに照合され、事件関係者の指紋《やつ》と照合され、最後には被害者及び確定した犯人の指紋《もの》だけをデータベースに登録《のこ》していく。繊細だがひどく簡単な流れ作業で、間違いは起きない。無登録車《無関係な者》は公道《データベース》に載らないんだよ、瀬ノ尾。幸運にもここ一二週間で登録された指紋の中に合致するものがあれば別だが、それはないに等しい……
 あ、というくぐもった声と同時に瀬ノ尾の動きが止まる。
 呼吸三つほどの沈黙の後、
「嘘だろ」
 瀬ノ尾の乾いた悲鳴じみた声に、戸田は思わず瀬ノ尾のパソコンの画面を覗き込んだ。
「戸田さん。白バンの指紋、この指紋と合致してます。それも、この指紋は稲村のものです。今頃になってなんで。稲村が送検された段階でデータベースに登録されているはずなのに、なんでヒットしなかったのか……」
「うん? 稲村? 稲村直彦か。なんで」
 戸田は瀬ノ尾と顔を見合わせた。
――確かに稲村は、四月八日に死体切断用のエンジンカッターを手に入れるために資材倉庫にいた。白バンがその場にあったとしたら、目立つ自分のアリストではなく逃走用に白バンを使うことも考えるかもしれない。だが、今になって照合できたとなると、システムのエラーか、それとも……。
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