冬の烏と夏の朱鷺――おとき柳助物語

三章企画

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屋根の上の烏(その4)

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 どれくらい待ったか……。
 柳助が戻ってきたのは、七つ(午後四時)を大分回った頃だったが、藤助の顔を見るなり、渋い顔になった。藤助には先が思いやられ、つい愚痴た。
「ごあいさつだな」
「今日はなんの用でございましょう」
 柳助は渋面を崩さず、挨拶もせず、それとなく探りを入れた。
 ようよう陽も温んできたとは言え、月変わりしたばかりの三月の吹きさらしの戸外で、藤助が長い時間自分を待ったいたことは見て取れた。それは、直接会って話さねばならないほどの大事な、しかも緊急な用があるということだ、と柳助は頭を巡らせている。
 何にせよ、難しい注文はなしを持ってきたようだ、と。
「芸州屋さん。俺も帰ってきたばかりで、茶も満足に出せねえが入るかい」
「ああ。なんなら、うちの者に酒肴を買いに行かせてもいい」
 柳助は笑い出した。
「芸州屋さん。そいつは止めといてもらいましょう。分別のいる難しい話に酒は御法度だ。間違いがあっちゃいけねえ。そうでしょう」
「そうだな。話が決まってから席を別に設ける方が、お前も旨い酒が飲めるだろう」
「どうだか。で、話って言うのはどんなことで」
「それだが、お前。西に向かって菓子食いに行く気はないか」
「そりゃ、どういうことです」
 さすがに柳助も聞き咎めた。藤助は構わず続けた。
「三州、尾州、京、大坂、備州、石州、筑前、崎陽、肥後……。ことば通り、菓子を食って回るだけだ。むろん条件はある。食った菓子の色形味、材料製法に至るまで、私に逐一報告すること。それと、行き帰りに芸州様に立ち寄って、何か目新しいものを作ってくれればそれでいい。とうぜん費用は私が持つ」
「豪勢な話だが、それは、できねえ相談だ」
「何か、子細が?」
「いえね。製法秘伝をおいそれと教える馬鹿はいねえ。そういうことです。盗むとなると時間がかかりすぎる。西国の菓子全部となると、寿命の短え人の身じゃできゃしませんね」
 行かないとは言わないのだな、と藤助は思った。しかも、西国全部の菓子を食うつもりでいる。これは、話が早いかも知れない。
「だが、柳助。お前なら、一度喰えば何を使ったか、どう使ったかわかるんだろう。同じ物を再現できると聞いたが」
「いや、芸州屋さん。それは、理繰りがふたつ違う。一度どころじゃねえ。俺はわかるまでで何十でも何百でも喰ってる。それに、そっくり同じ物が作れるわけじゃねえ。あくまでも真似たもので、製法を盗んだんでも身に覚えさせたんでもねえから、それは別な物だ」
「わかった。なら、見聞録でよい。それに、お前が推測する材料や製法を添えてくれれば有難い。それならどうだ。できるのではないか」
 芸州様に、と柳助は薄く笑いながら言った。
「何か目新しい菓子を献上致さなくてもいいんなら、こっちから頼みたいくらいだ」
 一瞬、藤助の眉が曇った。
 やはり見透かされていたか。しかし、それが一番重要なのこと。芸州で、浅野斉賢様の前で、お前が菓子を披露すると言うことが一番重要なのだ。それは外せない。だが……。
「お前に行く気があるのなら、候には無理に献上せぬでもかまわぬ」
 藤助のことばに、今度は柳助が思惑が外れた気がした。候への新しい菓子の献上こそ無理強いされると思っていたのだ。そこへ藤助が、人ごとのようにつぶやいた。
「せめて、お目通りだけでもしてもらえると、私の面目も立つのだが。――私は芸州へは行かぬから、好きにされてもわからぬと言えばわからぬがな」
「……」
「そうだ、柳助。行けば長旅になるし、一人旅もきぶっせいだろう。だれか連れ立つ者はいないのか。菓子のこともわかる気心の知れた者。なんなら、女でも構わん。引かせたい者があれば、このさい請け出せばよい。何も西国まで連れて行かずとも、帰りを待たせておいても構わぬだろうし、なんなら芸州屋で預かってもよい。再三、お前の菓子に知恵をくれたという者がいたな。あれなぞ、よほどいい気もするが、今どうしている……」
 藤助の口調は、柳助が西国へ行くと決めつけ、さらに柳助に身請けしたい女がいると思い込んでいるように聞こえる。
 おときのことだな。
 と柳助は考えていた。藤助は、以前にもおときの身請けのことを持ち出したことがあった。柳助も考えないでもなかった。おときといると、何故かどん詰まった考えの霧がぽかりと晴れることがある。事実いくども、おときのことばや出したものに助けてもらっていた。この女といると、俺の感性はどこまでも伸びやかに拡がっていく気がする。どこまででも行け、何でも出来そうな気がする。そう思う一方で、おときに頼り切って、どこまでものめり込んで、駄目になりそうな自分が恐ろしくもあった。
 だから、柳助は踏み込めなかった。柳助はことさら皮肉めかして言った。
「で、芸州屋さん。その引かせたくなるような、知恵をくれるいい女ってのは、どこの誰のことです」 
 藤助は笑った。
「柳助。お前さんが今思い浮かべた、その女だ。それなら、誰でどこにいるか、お前の方がよく知っているだろう」 
 そうとぼけながら眼は柳助を見据えている。その眼が、柳助の一瞬の戸惑いを捕まえると、ふ、と眦が緩んだ。
「なあ、柳助。おときを身請けして連れて行く気なはいか。あれはお前の助けに……」
 いや、と柳助が藤助のことばを遮った。即答だった。
「そいつはできません」
 今度は藤助が慌てた。
「それは。連れて行くことか。まさか身請けのことではないだろう」
「いえ。両方で。だいたい、俺が菓子を見に行くのと、おときのこととは何の関係もないはずです。助けになる。確かに、あいつには眼を開かせてもらったこともあります。だけど、そいつに頼っている、頼っていると思われているようじゃ、俺も知れたもんです。連れて行くなんざ、できやしません」
「……」
「それに、あれには借金なんか残ってねえはずです。だから、あれが出たいと思えば、思いたったときにひたちやを出ていける。身請けする必要なんざねえんですよ」
「おときに沿いたい男がいれば、身ひとつで走り込める。ということか」
「あぁ。そういうことです」
 一瞬柳助の表情が歪んだ。この馬鹿が……と藤助は危うく口にしかけたが、
「なら、おときは行きたければ、京でも崎陽でもどこでも行けるし、万が一にもないでしょうが、お前に着いていきたければ、それもできるわけだ」
 いや、それはないでしょう、とむきになって柳助は言った。
「あれは、箱根から西には化け物が出るって言われると、本気で信じちまうような女ですから、端《はな》から行きゃしません。だいたい、女を連れて西方諸国への道行きなんざ、悪洒落が過ぎます」
「わかった、わかった。行くと決まれば早いに越したことはないが、準備ができ次第すぐに知らせを寄越せ。話はそれだけだ」
 藤助はそれだけ言い置いて、返事も聞かずに柳助の店を出た。柳助の性分で、はっきりと断らなかったところからすると、乗り気になっているか、そのつもりで迷っているかだろう。手応えがあったと見て良かった。ここは押さずに引く方がいい。
 藤助は、広小路まで出ると長い息を吐いた。同時に、
 あの馬鹿ふたりに挟まれていたのでは、藤四郎という主人もなかなか難儀だろう。首尾よくいって、安芸に留まるならそれもよし。江戸に戻ってくるならそれもよし。様子を見て、ふたりにけじめを付けさせる段取りも考えねばならんな。
 などと考えていた。

「けっ、なっちゃねえな」
 柳助は大声を上げてひっくり返った。眼を閉じるとおときとの道行き姿が浮かんで来た。眼を開けても消えない。すぐに起きあがって、甕の水を飲んだ。柄杓ふたつ一気に飲み、三つ目で手が止まった。柄杓の中におときの姿が揺らいでいる。
「芸州屋の馬鹿が……」
 柳助は、滅法やたらに腹が立ってきた。
 おときに沿いたい男がいれば、身ひとつで走り込める。そういうことか。
 芸州屋のことばが胸の底から喉元まで、嫌な熱を持って沸き上がって来た。気が付くと、おときが誰か見知らぬ男と旅をしている姿が眼の前で跳ね回っている。
 気に入らなかった。
 出たいと思えば、思いたったときにひたちやを出ていける。
 そう言ってしまった自分のことばも、ひどく楽しそうな旅姿のおときも……。
「くそっ」
 柳助は柄杓を投げつけた。
 壁に当たって嫌な音がした。
 同時に柄がもげ、落ちた頭が転がってきた。
 柳助は柄杓の頭を蹴り飛ばした。
 普段なら、こんなときはひたちやに飛び込むのだが、それはできなかった。行けば必ず口にする。
 おとき、菓子食いに行かねえか。
「くそ、おもしろくねえ」
 こうなりゃ、湯でも浴びるか、酒でも飲むか、
 柳助の頭の中であれやこれやが駆けめぐっている。
「ええ、ままよ」
 柳助は外へ出た。どこへ行くと決めたわけでもなかったが、自然足は横町を出て、常在寺へ向かう北ではなく、背を向ける南に向かって歩いていた。そのまま下谷仲御徒町筋から練塀小路へ抜け和泉橋に出た。和泉橋を渡りきって……。柳原通りではたと考え込んだが、足は勝手に動いている。石町の鐘の音だと気付いたときには小網町にいた。暮れ六ツの鐘の音が響くと同時に、辺りは夜の闇に落ちていく。
 柳助は大きく息を吐いた。
 おときが傍にいる気がした。おときはひどく楽しそうな息づかいをして、そこにいる。だが、柳助ではない誰かとどこかへ出かけるような、そんな姿をしている。
「……」
 柳助は走り出していた。どこをどう通ってきたのかわからない。気が付くと、赤坂新町の芸州屋の店先にいた。汗みずくの荒い息を弾ませ、ただ呆然と立ち竦んでいた。
 翌日の午前、急ぎの旅支度を調えてもらった柳助は、赤坂新町の芸州屋を後にした。
 徳大寺裏の店の後の始末のことは、芸州屋に事細かに頼んだが、それ以外のことは何ひとつ口にしないままだった。
 
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