冬の烏と夏の朱鷺――おとき柳助物語

三章企画

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屋根の上の烏(その5)

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   (その5)

 翌三月三日、ひたちやを訪れた芸州屋藤助は、
「相済まぬ事に、逃げられたようで……」
 とひとことだけ切り出した。
 藤助にしてみれば、兎も角も柳助が西国へ芸州へ向けて旅立ったのだから、まずは一仕事片づいたはずである。が、柳助に見事はぐらかされた想いが拭いきれない。その無念さが、逃げられた、のひとことに滲み出たのだろう。
「逃げられましたか」
 と、ひたちや藤四郎は無表情に相づちを打った。ええ、と藤助は大げさにため息を付きおときの様子を窺った。おときは、あいかわらず大きな眼を丸くして瞬きもせず、まじまじと藤助を見つめている。
 実はこれこれで、と藤助は柳助との経緯いきさつを話し出した。
「というわけだったが、おときさんはどうするね」
 おときは答えず深く俯いた。
――あの人は、連れて行くとも、付いて来いとも言わなかった。好きにしろと言ったきりで飛び出したのだ。藤助は、逃げられた、と言った。でも、あたしは、置いていかれたんだ……。
 藤四郎が呟いた。
「念を押すようですが、柳助さんは、おときが願えば、思い立ったときに身ひとつで出ていける、走り込める。――そう言いましたか」
「ああ。この三月の半ば過ぎにうちの店の者が国元に向かうから、おときさんにその気があれば、一緒に行けるよう手配できる。旅慣れた連中だから、余計な心配はいらない」
 いえ、とおときが顔を上げた。おずおずと、
「それは、あの人が、柳さんが、来るなって。たぶん、邪魔になるって。だから」
 残りのことばは、また俯いて呑み込むように言った。だから、だれの耳にも届かなかったが、行けないと言ったように聞こえていた。藤四郎が、淡々と呟いた。
「芸州屋さん。そういうことでございます。この馬鹿は、ひたちやの屋根の上で首を長くして待っていることしか考えつかないんでございます。ほんのそこまでの、たった一飛びができない。屋根から動けない、阿呆烏なんで」
「おときさん、あんた、それで……」
 言いかけた藤助に、おときが、へへへ、と笑った。
 藤助にはもう何も言えなかった。
 その夜、江戸の空を西南から東北に向かって天火(流星)が駆けた。
 
 翌三月四日朝、藤四郎は所用で神田佐久間町まで出向いた。晴れてはいたが、ひどく風が強い日で、埃が立ちこめ陽の色が黄ばんで見えた。所用がすんだのは四つ前(午前十時前)だったが、相変わらず烈《はげ》しい南西の風が吹いている。風上のはるか遠くに火事の煙が高々と上がっていた。
――だいぶんに遠くだが、この風じゃあ大事《おおごと》になるかもしれない。
 大路を行く人々が妙に慌ただしく動き、ざわめいている。見ると、大路に灰が落ち始めていた。はるか風上の火事で焼けた灰が飛んできているのだ。灰に混じって火の粉も飛んでこないとも限らない。行き交う人々と同じように、藤四郎も思わず口に出していた。
「こいつはただごとじゃない。ひょっとすると、ひょっとする……」
 藤四郎は、慌ててひたちやに戻った。
 神田佐久間町で見た限り、火の手が上がっているのは、河向こうのはるか南の、たぶん京橋か芝口のようにも思えた。いくら風が烈しいとは言え、神田川を越えて下谷あたりまで火の手が拡がるとは思えなかったが、まさか、ということはいくらでもある。現に、おときが柳助と一緒になり、芸州家御用菓子司の内儀になれる。――などいう話は、まさかも過ぎた話だった。が、現実に起きた。藤四郎は首を振った。
「いくらなんでも、神田川を越えてここまで火の手が来ることは。――それはない」
 藤四郎は、店を閉めさせた。一方で、いつ誰が飛び込んできてもいいように、握り飯と湯茶水の準備をさせた。後《のち》には、それを持ってそこここの火事見舞いに行くことにもなる。
 藤四郎は手配を済ませると、様子を見に出かけた。日本橋室町まで出ると、芝車町から出た火が飛び火して芝増上寺山内まで焼けた、と聞いた。すでに京橋方面の空も黒煙と灰燼で黒く覆われている。藤四郎には、吹き付ける烈風の熱気が予想外に熱く感じられた。
――これは増上寺辺りの騒ぎではないかもしれない。
 案の定、槙町まで出ると、飛び火が新橋を越えすでに中通りまで燃えているという。そう聞くと、確かに空を覆い尽くす煙の下端に火柱の頭や火の粉が覗く気がした。既に八つ前になっていたが、一向に風の収まる気配はない。藤四郎は踵を返した。降り注ぐ灰燼の中には細かな火の粉が混じっていて、時折手拭いかぶりからはみ出た髪を焦がした。
――これは、日本橋辺りまで焼き尽くすかも知れない。
 藤四郎は、ひたちやに戻ると、じりじりとしながら火が風が止むのを待っていた。
 が、風は止むどころか烈しさを増し、ひたちやに居てさえ熱を孕んでいるように思えた。空を覆う火事の煙も急速に広がり、見え隠れしていた炎も徐々に赤みを増して、一気に近づいてくるのが見てとれた。何より、低く押し殺した無数の人の叫び声が、大地を揺るがすようにして響いてくる。
 七つ過ぎ、たまりかねて様子を見にやらせた治平が飛んで帰ってきた。
「旦那。もう、旅籠町から先へは行けませんぜ。人の波で道が消えてまさぁ。なにしろ、日本橋を越えて室町、常盤橋から龍閑橋辺りにも火の手が上がってるって話で、みなこっち側に逃げ込んでるそうで。言われりゃ、御成道からでも火の手が見えるような気がする塩梅で。――こりゃ、ことによりますぜ」
 治平は一気にしゃべり、おそろしげに空を見上げた。六つ過ぎだというのに、火事の黒煙と灰燼のせいか、既に辺りは薄闇から夜の闇へと変わりつつある。
 半鐘の音が一気に近づいて来た。
 それも、広小路を寛永寺に逃げ込む人々の叫び声で聞こえ難くなったが、代わりに夜空に赤々と上がる火の手が見えた。河向こうとは思えない近さだ。ちょうどひたちやから南、向柳原の辺りか佐久間町近辺。
―――じじつ火の手は神田川を越えて迫っていた。しかも、吹き荒んでいる南西の風は、ちょうど筋にあたる。
 藤四郎は女たちに支度させ、寛永寺の境内に逃げるようにと命じた。
「逃げやすいよう、下働きしやすいような格好で。
――それと化粧は薄くでよいから、きちんとしておくように」
 訝しげな表情を浮かべた女たちに、藤四郎は笑って言った。
「このような大変事だからこそ、緊張をとく者がいる。お前たちは、飯を配り、水を飲ませ、笑みをこぼして、その役を果たさなくてはな」
「銭にはならないが、愛想ふりまくくらいの商売っ気は出せって、か」
 年増のおはつの声がした。
「ちょっとおはつさん。そんなんじゃないから」 
 おときが遠慮がちに止めている。
「いや。おはつの言うとおりだ。せいぜい愛想をふりまいてくれ。難儀の時こそ、張りのある威勢のいい声と笑顔が、苦しい者には何よりの支えになる。頼んだよ」
 そう言って女たちや下働きの者を送り出した藤四郎は、ひとりひたちやに残った。南向きの障子を開けると、眼の前の御徒町に立ち並ぶ武家屋敷の数限りない屋根が見えている。その向こう側には、燃え上がった炎の頭が赤々と揺れ、ゆっくり近づいて来るように見えた。
――ここが焼ければ、私はまた一文無しか。ついでに女たちの年季証文しゃっきんも燃えてなくなれば、みな自分の行きたいところへ行けるようになるというものだ。おときも、おはつもおたかも、おさきもみなも……。
 藤四郎は静かに笑った。
「それもいいだろうさ」 
 夕方、神田川を越えて飛び火した佐久間町福井町の町屋は瞬く間に燃え広がったが、三味線堀を東西に挟んだ大名武家町に入ると、火勢は衰えこそしないものの、燃え拡がる早さが幾分落ちてきた。それでも、夜を徹してじわじわと燃え広がり、明け方には安倍川町、寺町通り、仲御徒町辺りまで焼き尽くしていた。
 なおも炎は北東に向かって燃え続けている。
 まんじりともせず一夜を明かした藤四郎が陽の光の中に見たものは、ひたちやに迫ってくる炎と、炎の向こう側の焼き尽くされた何もない焼け野原だった。
 不忍池から三味線堀に注ぐ忍川の南側はほとんど焼け落ち、ひたちやの目の前、山下から忍川までの中御徒町一体はからくも焼け残っていたが、通御徒町の御先手組組屋敷がある辺りからは、火の手があがっている。
 その炎が徐々に迫りつつあったのである。
「旦那さん。旦那さんはいなさるかい」
 治助が藤助を呼ぶ声がした。こっちだ、と返事をすると、
「おときさん、こっちに来てませんか。朝から姿が見えねえんで」
「いや、来ていないようだが、どうした」
「いえね、今朝方早く、何かの拍子に、忍川まで燃えちまってるてえ話を聞いた途端、飛び出しちまったらしいんで。――なにしろ、安倍川町も駄目で、寺町筋まで燃えてる。このまんまじゃ東本願寺も危ねえ。下手すりゃあ、上野のお山も安心できねえってんで、みな浮き足立っちまって……。これからどうするかって話になったときに、いなくなったことを知ったんで」
 わかった、と藤四郎は言った。
「心当たりがある。私が探しに行ってみるから、お前はみなのところへ戻ってくれ。みなには心配するな、とな。たぶん、おときは徳大寺裏に行ったはずだ」
「なるほど、考えることはみな同じだ」と治助は呟くそばから寛永寺へ戻っていった。
 藤四郎もその足で、徳大寺裏に向かった。
 さほど距離は変わらないが、日頃通る中御徒町筋から三昧橋を渡る道筋は、さすがに火の手に巻かれることが心配になり、不忍池側の寛橋《ゆるぎばし》筋を辿る。
 忍川の川下は火の手が上がっているが、この辺りまでは届いていない。心なしか火勢も風も弱まった気がする。
 忍川向こうが焼けていると聞いていたが、徳大寺の辺りは無事に見えた。
――これなら、おときも無事でいてくれる…… 
 藤四郎は、小走りに三枚橋横町入り口を抜け、徳大寺摩利支天横町へと入っていった。徳大寺門前まで来てみると、火の手は意外に遠く小さく見えた。裏手に回ると、すぐに柳助の店が見えた。
 入り口を固く閉めた店先に、裸足のおときがぼんやりと立っている。
「おとき、こんなところで何をしているんだ」
 藤四郎が怒鳴ったが、おときの耳には届かない。藤四郎は、おときの両肩を掴まえて烈しく揺さぶった。おときの頭がぐらぐら揺れて、半開きした口の中で、歯がかちかちと鳴った。
「おとき、しっかりしろ、おとき」
 口の中が切れたのだろう。おときの唇の端に血が滲んできた。
「旦那さん、痛い」
 おときが小さな声で言った。藤四郎はすぐに手を離した。
「すまない。大丈夫か、おとき」
 おときは、ぼんやりと頷いて、小さな声で喘ぐように呟いた。
「柳さん、いない……」 
「ああ」
「旦那さん。――柳さん、いませんよ」 
「ああ。今日あたりは箱根を越えるかどうかだ」
 えへへ、そうでしたね、とおときが泣きそうな顔で笑った。
「馬鹿だな、あたし……」
「ああ」
 藤四郎は店をこじ開け、古草履を見つけてきた。
「こんなものでもないよりはましだ。おとき、履いておくがいい。こんなありさまだ。裸足のままだと、何を踏み抜くとも限らないからね」
 おときは曖昧に頷いて、泥に汚れ傷ついた裸足に草履をつっかけようとして止めた。不意にしゃがみ込んで古草履を手にとって抱きしめた。
 藤四郎は眼を背けた。
 気が付くと、勢いの落ち始めていた風が止み、空を覆っていた煙と灰燼がいつしか雨雲に変わっている。空気の、からからと焼けて焦げ付くような乾いた匂いも、少しずつ薄れ、雨の気配が漂ってきている。見渡すと、先ほどまで上がっていた火の手がまばらになってきている。そして――。
 ごう、と音を立てて大雨が落ちてきた。
 おときが何か言ったが藤四郎には聞こえなかった。ただ、化粧が流れるほどの雨に打たれた、顔をくしゃくしゃに歪めた、唇を噛みしめていた、おときの姿が見えるばかりだった。
――いっそ、ひたちやが灰になってしまえば、おときも、こんなところじゃない、西の空に飛び出して行けたんだろうが、ひたちやは焼け残ってしまった……。
 藤四郎もおときも身じろぎもせず、灰燼の混じった黒く苦い雨に打たれ続けていた
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