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屋根の上の烏(その6)
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芝車町から出た火は、北東へ二里半の距離を幅七町ほどの広さを焼き尽くした。
神田川からこちらも、佐久間町中御徒町はもちろん、寺町通り広徳寺の辺りまで焼いたが、さいわい下谷、山下までは火が届かなかった。ひたちやも、主のいない柳助の店も無事だった。
ひと月もしないうち市中は落ち着きを取り戻し、普請の職人や人足たちが江戸の近郷から大量に入り込むようになった。景気の良い人が増えれば、ひたちやのような商売も繁盛する。その忙しさに目を回しているうちに半年が過ぎていた。
その間おときは、しばしば合間を見ては店を抜け、外へ出るようになった。柳助の店へ掃除に行くのである。柳助は店の始末を頼んで江戸を出たのだが、この火事で頼まれた者が自分の身の始末で手が回らなくなった。放っておくのも何だから、とおときから言い出した。藤四郎は何も言わなかった。
おときが、ひとりぽつねんと掃除をしていると、胸の奥底から嫌な熱の塊が沸々とたぎりながら込み上げてくることがある。
――いっそ、こんな店なんか焼けてしまえばよかったのに。そしたら、こんなことしないでもよかったのに……。
おときは、ひたちやに帰っても障子を開けてぼんやりと不忍池を眺めることが多くなった。
芸州屋の一件を小耳に挟んでいる朋輩たちは、柳助が帰ってきたらおときは身請けされる。ことによったら芸州から迎えが来るかも知れない。―――などと噂していた。彼女らは折りにふれておときをからかったが、中でも年若いおさきは、一番しつこかったろう。
「おとき姐さん。箱根から向こうは、お化けがいっぱい出るんだって。先のお客さんから聞いた話だと……」
「ああ、もう。やめてよ、おさきちゃん」
「夜になると、こーんな顔して……」
と白目を剥いて指で鼻を押し上げ、顔を歪めて見せた。
「いいかげんにしてよ」
「へいへい」
散々じゃれついたあげくにいつも同じ事を言った。
「おとき姐さん。離しちゃ駄目だよ。ずっと掴んでなきゃいけないよ。わかってる」
おときは、いつも曖昧に頷いた。それを見て、安心したようにおさきは出ていった。
おときは、おさきにわからないようにため息を付いた。
――あたしは、付いて来いこいと言われたわけじゃない。待ってろと約束したわけじゃない。お前は好きにできると言われただけ。芸州屋さんが何と言ったって、決めるのはあの人。江戸へ帰ってくるかも、帰ってきて、またあそこで店を持つかもわからない。でも帰ってきたら、あの人はまたひとつ偉くなってる。むかしのように、大名のお殿様のお菓子を作るような職人に戻ってる。むかしは、公方様のお菓子を作ってた人なんだよ。ほんとは、こんなところに遊びに来るような人じゃないんだ。
おときは、小声でそっと口に出してみた。
――あれが出たいと思えば、思いたったときにひたちやを出ていける。
「そうだよ、柳さん。でもね、どこにでも行けるわけじゃない。あたしみたような女が行けるところなんて、そんなにないんだよ。旦那さんも言ってた、裏店の饅頭屋の女房……。それだって、いっぱいいっぱいなんだよ」
ふいに涙が込み上げてきた。
「あんな店、焼ければよかった。道具もさっさとかたしちまって、誰かに貸してくれればよかった……。芸州屋さん。なんであんな話、しに来たんですか」
七月に入って川崎の厄除け大師のご開帳が始まると、ひたちやの客の中にも、大師講の帰りだ、と言って土産を提げて来る者がいた。み月ぶりに来た助八というおときの馴染み客もそうで、
「昨日大師参りに行ってきたんだが。――驚いたことに、日本橋通り町から芝増上寺の辺りまで、ざっと二里ばかり。ずらずらっと道の上に新普請に使う切り出し材が積んである。その下を通っていけば、雨にも濡れねえで行けるって言うんだ。生憎こちとら雨に振られる天気じゃなかったのが残念だったが、下をくぐって行ったおかげで、お天道様には照られねえですんだ。有難い話なんだが」
眼を丸くして聞きいっているおときの様子を窺っていたが、
「芝で材木の天井が切れた途端に、お天道様があたって眩しくってしょうがなかった。ほれ、今でも眩しくって眼が開けられねえ」
と、元来か細く釣り上がっている眼をさらに細めて見せた。
あ、とおときは気が付いた。
「助八さん。もう、広小路の牛みたような話はごめんですよ。あの時も、あたし、本気にしてずいぶん恥ずかしい目、見たんですから」
助八は、くっくと楽しそうに喉を鳴らして笑うと、
「そいつは困った。今日は犬が伊勢参りをしてきたって話を持ってきたんだがな」
ふうっ、とおときが大げさにため息を吐いた。
「どうせ、犬とお伊勢さんで、い、つ、わ、り。――とか言うんでしょ」
いや、と助八は首を振った。
「こいつは、真実なんだ。まあ、聞きな」
助八は、珍しく真剣な表情をして話し出した。
――去年の夏じぶんの話だ。芝口の金杉橋の西詰めに小体《こてい》な蕎麦屋があって、そこに白い子犬がいた。なつっこい性分の犬で、吠えもしねえし、賢いことも賢い。銭のねえ客がわかるらしくって、払いの悪そうな客が来ると店の入り口に踏ん張って、なかなか入れなかったそうだ。
その話は、おいらでも眉唾だって気がするんだが。まあ、その犬がお伊勢参りの風体の人間を見ると付いて行きそうになる。様子が普通じゃねえんで、蕎麦屋も思案した挙げ句、伊勢参りに出すことにした。なに、ためしのねえ話じゃねえ。奥州くんだりから参った犬も、二、三とは言わねえいるらしいんだ。
犬の首に、芝金杉橋蕎麦屋六兵衛家中白、伊勢参宮と裏表に書いた木札を結びつけ、賽銭のつもりの小銭を入れた小袋もぶら下げた。もったいないが、蕎麦屋の代参でもある。赤飯を食わせて旅に出したそうだ。さすがに犬のことだから、途中で便りは寄越したりはしねえ。だが、犬と途中ですれ違った者のうち、金杉橋の蕎麦屋に寄って、どこそこで見ましたよ、なんて教えてくれる者もあったそうだ。
人でものんびり参る者は、お伊勢様まで往復三月かける者もいる。十四五日で帰ってくる者もある。犬の足だから早いのか遅いのかはわからねえが、三月かけての正月前に、勢州四日市で見かけたと言う者があった。何しろ、勢州くんだりで見たという話だ。蕎麦屋が聞いたのは、二月になってからだ。心配していたが、存外生むが安しで、白も順調に旅が出来てる。いま時分はお参詣もすんで、そろそろ帰って来ると便りがあるころか。
――などと蕎麦屋も安堵していたところへ、あの火事が来た。何せ火元は車町で、悪い風の筋にあたっていた。蕎麦屋も跡形もなく焼けちまったんだが、さいわい蕎麦屋の家族は無事だった。さて、これからどうしたもんかと思案しているところへ、白犬が帰ってきた。白犬は、よっぽど食い物が良かったのか、長旅で鍛えられたのか、見違えるほど大きく育っていたが、出ていくときに付けたやった木札を下げているから、見間違いはない。代参の犬風情にはもったいないくらいの良いお札を入れた油紙の包みと、銭や小粒を入れた袋を首に下げていた。代参に出て、ついでに一稼ぎしてきた。そんな塩梅だな。
その金で蕎麦屋を建て直したからだろう。今じゃ、看板も『いぬそば』になってた。味は。――まあ、そこそこだ。
助八は軽い口調で一気にしゃべり通したが、おときは珍しく胡散くさげな表情を浮かべている。梃子でも信じない。そう言う表情だ。
「な、おとき。白犬は木札をぶら下げたまんま、でんと蕎麦屋の店先に居すわってる。お札もちゃんと店に祀ってる。ご丁寧に、代参犬白殿と伊勢の宮の神主の傍書きまであるんだ。間違いなかろう。おときも、旅の途中で寄ってみれば信じるに違えねえさ」
「途中でって。あたしは、御大師さんには行きゃしませんよ」
御大師さんじゃねえ、と助八は言った。
「じゃあ、どこだって言うんです」
助八はきちんと座り直して、真っ直ぐおときを見た。
「芸州だ」
助八は、喉に絡むような、そのくせ重く突き放した口調で短く言った。
「おとき、おめえは芸州に行くんだ」
「それは」
「いいから聞くんだ。
――おれぁ、あの火事の後、すぐに芸州屋と柳助の話を聞かされた。とてつもなく太てえ棒っ切れか何かで、頭の天辺から腹の底まで叩き潰されて、目の前が真っ暗になった気がした。いや、わかっちゃいたんだ。いつか、そんな日が来るってのはな。おめえにとっちゃ、おれはただの客だ。だが、おれにとっちゃあ、それだけじゃあなかった。できれば、そっからずっと先へ行きたかったんだ。だが、柳助って男がいて、あんな後ろ盾があって。
――いや、それだけなら、おれも尻尾を巻いて逃げるこたぁしねえ。ただ、何より肝心なおめえに柳助の野郎しか見えていねえんじゃ、どうしようもあんめい。おれぁ、馴染みの、良い客でいるしかできゃしねえと思ってた。ところが、話があったとき、おめえは付いて行かねえ。柳助は逃げるように出ていく。これは天佑だと思ったさ。おれにも賽の目が見えてきたってな。
――だが、三月前遊《みつきまえ》びに来ておめえを見たとき、違うとわかった。おとき、おめえの魂は、あの時から、柳助が行っちまったときから、ここにもどこにもいなくなっちまってたんだ」
「……」
「そうとわかりゃあ、おれにできることはひとつしきゃねえ」
助八は、懐から竹色の有平縞の袱紗包みを出して、つっとおときの前に押しやった。
「それから、この七月までのまる三ヶ月、死にものぐるいで貯めた金だ。情けねえが、これがおれのありったけの甲斐性だ。黙って受け取ってくんな」
助八は、ゆっくりと袱紗を拡げた。金包みには、
――下谷徳大寺裏美作屋柳助家内おとき
とあった。おときは、包みの文字が眼の中に飛び込んできた刹那、気が遠くなる気がした。ひどく遠くから、助八の声が聞こえている。
「おれの手製の木札だ、そいつをぶら下げて、とっとと魂《おふだ》をもらって来やがれ。あばよ、おとき
神田川からこちらも、佐久間町中御徒町はもちろん、寺町通り広徳寺の辺りまで焼いたが、さいわい下谷、山下までは火が届かなかった。ひたちやも、主のいない柳助の店も無事だった。
ひと月もしないうち市中は落ち着きを取り戻し、普請の職人や人足たちが江戸の近郷から大量に入り込むようになった。景気の良い人が増えれば、ひたちやのような商売も繁盛する。その忙しさに目を回しているうちに半年が過ぎていた。
その間おときは、しばしば合間を見ては店を抜け、外へ出るようになった。柳助の店へ掃除に行くのである。柳助は店の始末を頼んで江戸を出たのだが、この火事で頼まれた者が自分の身の始末で手が回らなくなった。放っておくのも何だから、とおときから言い出した。藤四郎は何も言わなかった。
おときが、ひとりぽつねんと掃除をしていると、胸の奥底から嫌な熱の塊が沸々とたぎりながら込み上げてくることがある。
――いっそ、こんな店なんか焼けてしまえばよかったのに。そしたら、こんなことしないでもよかったのに……。
おときは、ひたちやに帰っても障子を開けてぼんやりと不忍池を眺めることが多くなった。
芸州屋の一件を小耳に挟んでいる朋輩たちは、柳助が帰ってきたらおときは身請けされる。ことによったら芸州から迎えが来るかも知れない。―――などと噂していた。彼女らは折りにふれておときをからかったが、中でも年若いおさきは、一番しつこかったろう。
「おとき姐さん。箱根から向こうは、お化けがいっぱい出るんだって。先のお客さんから聞いた話だと……」
「ああ、もう。やめてよ、おさきちゃん」
「夜になると、こーんな顔して……」
と白目を剥いて指で鼻を押し上げ、顔を歪めて見せた。
「いいかげんにしてよ」
「へいへい」
散々じゃれついたあげくにいつも同じ事を言った。
「おとき姐さん。離しちゃ駄目だよ。ずっと掴んでなきゃいけないよ。わかってる」
おときは、いつも曖昧に頷いた。それを見て、安心したようにおさきは出ていった。
おときは、おさきにわからないようにため息を付いた。
――あたしは、付いて来いこいと言われたわけじゃない。待ってろと約束したわけじゃない。お前は好きにできると言われただけ。芸州屋さんが何と言ったって、決めるのはあの人。江戸へ帰ってくるかも、帰ってきて、またあそこで店を持つかもわからない。でも帰ってきたら、あの人はまたひとつ偉くなってる。むかしのように、大名のお殿様のお菓子を作るような職人に戻ってる。むかしは、公方様のお菓子を作ってた人なんだよ。ほんとは、こんなところに遊びに来るような人じゃないんだ。
おときは、小声でそっと口に出してみた。
――あれが出たいと思えば、思いたったときにひたちやを出ていける。
「そうだよ、柳さん。でもね、どこにでも行けるわけじゃない。あたしみたような女が行けるところなんて、そんなにないんだよ。旦那さんも言ってた、裏店の饅頭屋の女房……。それだって、いっぱいいっぱいなんだよ」
ふいに涙が込み上げてきた。
「あんな店、焼ければよかった。道具もさっさとかたしちまって、誰かに貸してくれればよかった……。芸州屋さん。なんであんな話、しに来たんですか」
七月に入って川崎の厄除け大師のご開帳が始まると、ひたちやの客の中にも、大師講の帰りだ、と言って土産を提げて来る者がいた。み月ぶりに来た助八というおときの馴染み客もそうで、
「昨日大師参りに行ってきたんだが。――驚いたことに、日本橋通り町から芝増上寺の辺りまで、ざっと二里ばかり。ずらずらっと道の上に新普請に使う切り出し材が積んである。その下を通っていけば、雨にも濡れねえで行けるって言うんだ。生憎こちとら雨に振られる天気じゃなかったのが残念だったが、下をくぐって行ったおかげで、お天道様には照られねえですんだ。有難い話なんだが」
眼を丸くして聞きいっているおときの様子を窺っていたが、
「芝で材木の天井が切れた途端に、お天道様があたって眩しくってしょうがなかった。ほれ、今でも眩しくって眼が開けられねえ」
と、元来か細く釣り上がっている眼をさらに細めて見せた。
あ、とおときは気が付いた。
「助八さん。もう、広小路の牛みたような話はごめんですよ。あの時も、あたし、本気にしてずいぶん恥ずかしい目、見たんですから」
助八は、くっくと楽しそうに喉を鳴らして笑うと、
「そいつは困った。今日は犬が伊勢参りをしてきたって話を持ってきたんだがな」
ふうっ、とおときが大げさにため息を吐いた。
「どうせ、犬とお伊勢さんで、い、つ、わ、り。――とか言うんでしょ」
いや、と助八は首を振った。
「こいつは、真実なんだ。まあ、聞きな」
助八は、珍しく真剣な表情をして話し出した。
――去年の夏じぶんの話だ。芝口の金杉橋の西詰めに小体《こてい》な蕎麦屋があって、そこに白い子犬がいた。なつっこい性分の犬で、吠えもしねえし、賢いことも賢い。銭のねえ客がわかるらしくって、払いの悪そうな客が来ると店の入り口に踏ん張って、なかなか入れなかったそうだ。
その話は、おいらでも眉唾だって気がするんだが。まあ、その犬がお伊勢参りの風体の人間を見ると付いて行きそうになる。様子が普通じゃねえんで、蕎麦屋も思案した挙げ句、伊勢参りに出すことにした。なに、ためしのねえ話じゃねえ。奥州くんだりから参った犬も、二、三とは言わねえいるらしいんだ。
犬の首に、芝金杉橋蕎麦屋六兵衛家中白、伊勢参宮と裏表に書いた木札を結びつけ、賽銭のつもりの小銭を入れた小袋もぶら下げた。もったいないが、蕎麦屋の代参でもある。赤飯を食わせて旅に出したそうだ。さすがに犬のことだから、途中で便りは寄越したりはしねえ。だが、犬と途中ですれ違った者のうち、金杉橋の蕎麦屋に寄って、どこそこで見ましたよ、なんて教えてくれる者もあったそうだ。
人でものんびり参る者は、お伊勢様まで往復三月かける者もいる。十四五日で帰ってくる者もある。犬の足だから早いのか遅いのかはわからねえが、三月かけての正月前に、勢州四日市で見かけたと言う者があった。何しろ、勢州くんだりで見たという話だ。蕎麦屋が聞いたのは、二月になってからだ。心配していたが、存外生むが安しで、白も順調に旅が出来てる。いま時分はお参詣もすんで、そろそろ帰って来ると便りがあるころか。
――などと蕎麦屋も安堵していたところへ、あの火事が来た。何せ火元は車町で、悪い風の筋にあたっていた。蕎麦屋も跡形もなく焼けちまったんだが、さいわい蕎麦屋の家族は無事だった。さて、これからどうしたもんかと思案しているところへ、白犬が帰ってきた。白犬は、よっぽど食い物が良かったのか、長旅で鍛えられたのか、見違えるほど大きく育っていたが、出ていくときに付けたやった木札を下げているから、見間違いはない。代参の犬風情にはもったいないくらいの良いお札を入れた油紙の包みと、銭や小粒を入れた袋を首に下げていた。代参に出て、ついでに一稼ぎしてきた。そんな塩梅だな。
その金で蕎麦屋を建て直したからだろう。今じゃ、看板も『いぬそば』になってた。味は。――まあ、そこそこだ。
助八は軽い口調で一気にしゃべり通したが、おときは珍しく胡散くさげな表情を浮かべている。梃子でも信じない。そう言う表情だ。
「な、おとき。白犬は木札をぶら下げたまんま、でんと蕎麦屋の店先に居すわってる。お札もちゃんと店に祀ってる。ご丁寧に、代参犬白殿と伊勢の宮の神主の傍書きまであるんだ。間違いなかろう。おときも、旅の途中で寄ってみれば信じるに違えねえさ」
「途中でって。あたしは、御大師さんには行きゃしませんよ」
御大師さんじゃねえ、と助八は言った。
「じゃあ、どこだって言うんです」
助八はきちんと座り直して、真っ直ぐおときを見た。
「芸州だ」
助八は、喉に絡むような、そのくせ重く突き放した口調で短く言った。
「おとき、おめえは芸州に行くんだ」
「それは」
「いいから聞くんだ。
――おれぁ、あの火事の後、すぐに芸州屋と柳助の話を聞かされた。とてつもなく太てえ棒っ切れか何かで、頭の天辺から腹の底まで叩き潰されて、目の前が真っ暗になった気がした。いや、わかっちゃいたんだ。いつか、そんな日が来るってのはな。おめえにとっちゃ、おれはただの客だ。だが、おれにとっちゃあ、それだけじゃあなかった。できれば、そっからずっと先へ行きたかったんだ。だが、柳助って男がいて、あんな後ろ盾があって。
――いや、それだけなら、おれも尻尾を巻いて逃げるこたぁしねえ。ただ、何より肝心なおめえに柳助の野郎しか見えていねえんじゃ、どうしようもあんめい。おれぁ、馴染みの、良い客でいるしかできゃしねえと思ってた。ところが、話があったとき、おめえは付いて行かねえ。柳助は逃げるように出ていく。これは天佑だと思ったさ。おれにも賽の目が見えてきたってな。
――だが、三月前遊《みつきまえ》びに来ておめえを見たとき、違うとわかった。おとき、おめえの魂は、あの時から、柳助が行っちまったときから、ここにもどこにもいなくなっちまってたんだ」
「……」
「そうとわかりゃあ、おれにできることはひとつしきゃねえ」
助八は、懐から竹色の有平縞の袱紗包みを出して、つっとおときの前に押しやった。
「それから、この七月までのまる三ヶ月、死にものぐるいで貯めた金だ。情けねえが、これがおれのありったけの甲斐性だ。黙って受け取ってくんな」
助八は、ゆっくりと袱紗を拡げた。金包みには、
――下谷徳大寺裏美作屋柳助家内おとき
とあった。おときは、包みの文字が眼の中に飛び込んできた刹那、気が遠くなる気がした。ひどく遠くから、助八の声が聞こえている。
「おれの手製の木札だ、そいつをぶら下げて、とっとと魂《おふだ》をもらって来やがれ。あばよ、おとき
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