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きもち。
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オネェ言葉のおにーさんは、私の名前を聞かなかった。
”きみ”と、私を呼んだ。
だから私も、おにーさんの名前を聞かなかった。
”おにーさん”と、私は呼んだ。
帰宅中に会えるその短い時間が、私の支えになった。
ささくれだっていた心が、穏やかになり。思い詰めていた心が、解かれて。
ゆっくりと、ゆっくりと。
凝り固まった感情が、ふわりと軽くなっていった――
「お、やってんな」
運良く座れた帰宅途中の電車の中で掛けられた声に、単語帳から視線をあげた。
そこには、見慣れ始めた男の人の姿。
「おにーさん、今帰りですか」
何の驚きもなく返答する私を、少し面白くなさそうな表情で見下ろすと隣に腰かける。
「もう少しびっくりしろよー。つまんねぇ」
「なんでおにーさんを楽しませなきゃならないんですか、受験生の私が」
「じゃあ、俺が楽しませてやろうか?」
そう言ってにやりと笑うけれど、少しも怖くない。
「おにーさん顔が可愛すぎて、そのセリフ言われても思いつくのは遊園地くらい」
「あぁ、ジェットコースターは爽快だよな」
私達の会話は、本当に他愛もないものばかりだ。いいお天気ですね、そうですね。そんな感じ。
けれど、顔には出さなかったけれど。
そんな会話が、愛しかった。他愛もない言葉が、嬉しかった。
はらはらドキドキのスリルやサプライズはないけれど、穏やかでゆったりとしたこの安心感の中に包まれていたい、そう思った。
おにーさんと会える時間を狙って、電車に乗り。
おにーさんと会えるように、同じ車両に乗り。
おにーさんに褒められたくて、受験勉強を頑張った。
せめて、おにーさんが私に興味を向けてくれている間だけでも……
名前も知らない人だけど、いつの間にか私の中で大きな存在になっていた。
「あの、すみません。降ります」
「……っ!」
傍からかけられた声に、思考を現実に戻された。視線を走らせて、状況を把握する。反対側のドアがずっと空いていたから気が付かなかったけれど、この駅からは私のいる方のドが開くらしく、その目の前に立っていた私の為に降りる人が動けなかったようだ。
ドアを遮っていた体を横にどけて、小さな声ですみませんと頭を下げる。
声を掛けてきた女性は、こちらこそ……と軽く会釈をして空いたドアからホームへと降りて行った。
その後ろ姿を見送る様に移した視線の先には、見慣れた駅名。
あと三駅で、おにーさんの降りる駅。その二つ先が、私の降りる駅になる。
背中を向けたまま顔を少し振り向けて後ろを窺うと、一つ向こうの対角線のドアの横にさっきと同じようにおにーさんが立っていた。
思わず、ほっと息を吐き出してしまう。
次、いつ見られるかわからないから。
もう、見られないかもしれないから。
せめて、おにーさんが降りるまで見ていたい。
気付かれない様に立っている人に隠れながら、こっそりとおにーさんを視界に収める。
半袖のYシャツに、ネクタイの無い姿。肩にかけているカバンは、あのころとは違う黒のビジネスバッグ。固そうな革靴。
おにーさんと会っていたのは冬の間だけだったから、スーツとはいえ夏服は初めて見た。そんな事くらいで、嬉しくなってしまう。
この気持ちは、あの日に置いてきたはずなのに。
”きみ”と、私を呼んだ。
だから私も、おにーさんの名前を聞かなかった。
”おにーさん”と、私は呼んだ。
帰宅中に会えるその短い時間が、私の支えになった。
ささくれだっていた心が、穏やかになり。思い詰めていた心が、解かれて。
ゆっくりと、ゆっくりと。
凝り固まった感情が、ふわりと軽くなっていった――
「お、やってんな」
運良く座れた帰宅途中の電車の中で掛けられた声に、単語帳から視線をあげた。
そこには、見慣れ始めた男の人の姿。
「おにーさん、今帰りですか」
何の驚きもなく返答する私を、少し面白くなさそうな表情で見下ろすと隣に腰かける。
「もう少しびっくりしろよー。つまんねぇ」
「なんでおにーさんを楽しませなきゃならないんですか、受験生の私が」
「じゃあ、俺が楽しませてやろうか?」
そう言ってにやりと笑うけれど、少しも怖くない。
「おにーさん顔が可愛すぎて、そのセリフ言われても思いつくのは遊園地くらい」
「あぁ、ジェットコースターは爽快だよな」
私達の会話は、本当に他愛もないものばかりだ。いいお天気ですね、そうですね。そんな感じ。
けれど、顔には出さなかったけれど。
そんな会話が、愛しかった。他愛もない言葉が、嬉しかった。
はらはらドキドキのスリルやサプライズはないけれど、穏やかでゆったりとしたこの安心感の中に包まれていたい、そう思った。
おにーさんと会える時間を狙って、電車に乗り。
おにーさんと会えるように、同じ車両に乗り。
おにーさんに褒められたくて、受験勉強を頑張った。
せめて、おにーさんが私に興味を向けてくれている間だけでも……
名前も知らない人だけど、いつの間にか私の中で大きな存在になっていた。
「あの、すみません。降ります」
「……っ!」
傍からかけられた声に、思考を現実に戻された。視線を走らせて、状況を把握する。反対側のドアがずっと空いていたから気が付かなかったけれど、この駅からは私のいる方のドが開くらしく、その目の前に立っていた私の為に降りる人が動けなかったようだ。
ドアを遮っていた体を横にどけて、小さな声ですみませんと頭を下げる。
声を掛けてきた女性は、こちらこそ……と軽く会釈をして空いたドアからホームへと降りて行った。
その後ろ姿を見送る様に移した視線の先には、見慣れた駅名。
あと三駅で、おにーさんの降りる駅。その二つ先が、私の降りる駅になる。
背中を向けたまま顔を少し振り向けて後ろを窺うと、一つ向こうの対角線のドアの横にさっきと同じようにおにーさんが立っていた。
思わず、ほっと息を吐き出してしまう。
次、いつ見られるかわからないから。
もう、見られないかもしれないから。
せめて、おにーさんが降りるまで見ていたい。
気付かれない様に立っている人に隠れながら、こっそりとおにーさんを視界に収める。
半袖のYシャツに、ネクタイの無い姿。肩にかけているカバンは、あのころとは違う黒のビジネスバッグ。固そうな革靴。
おにーさんと会っていたのは冬の間だけだったから、スーツとはいえ夏服は初めて見た。そんな事くらいで、嬉しくなってしまう。
この気持ちは、あの日に置いてきたはずなのに。
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