3 / 22
きもち。
しおりを挟む
オネェ言葉のおにーさんは、私の名前を聞かなかった。
”きみ”と、私を呼んだ。
だから私も、おにーさんの名前を聞かなかった。
”おにーさん”と、私は呼んだ。
帰宅中に会えるその短い時間が、私の支えになった。
ささくれだっていた心が、穏やかになり。思い詰めていた心が、解かれて。
ゆっくりと、ゆっくりと。
凝り固まった感情が、ふわりと軽くなっていった――
「お、やってんな」
運良く座れた帰宅途中の電車の中で掛けられた声に、単語帳から視線をあげた。
そこには、見慣れ始めた男の人の姿。
「おにーさん、今帰りですか」
何の驚きもなく返答する私を、少し面白くなさそうな表情で見下ろすと隣に腰かける。
「もう少しびっくりしろよー。つまんねぇ」
「なんでおにーさんを楽しませなきゃならないんですか、受験生の私が」
「じゃあ、俺が楽しませてやろうか?」
そう言ってにやりと笑うけれど、少しも怖くない。
「おにーさん顔が可愛すぎて、そのセリフ言われても思いつくのは遊園地くらい」
「あぁ、ジェットコースターは爽快だよな」
私達の会話は、本当に他愛もないものばかりだ。いいお天気ですね、そうですね。そんな感じ。
けれど、顔には出さなかったけれど。
そんな会話が、愛しかった。他愛もない言葉が、嬉しかった。
はらはらドキドキのスリルやサプライズはないけれど、穏やかでゆったりとしたこの安心感の中に包まれていたい、そう思った。
おにーさんと会える時間を狙って、電車に乗り。
おにーさんと会えるように、同じ車両に乗り。
おにーさんに褒められたくて、受験勉強を頑張った。
せめて、おにーさんが私に興味を向けてくれている間だけでも……
名前も知らない人だけど、いつの間にか私の中で大きな存在になっていた。
「あの、すみません。降ります」
「……っ!」
傍からかけられた声に、思考を現実に戻された。視線を走らせて、状況を把握する。反対側のドアがずっと空いていたから気が付かなかったけれど、この駅からは私のいる方のドが開くらしく、その目の前に立っていた私の為に降りる人が動けなかったようだ。
ドアを遮っていた体を横にどけて、小さな声ですみませんと頭を下げる。
声を掛けてきた女性は、こちらこそ……と軽く会釈をして空いたドアからホームへと降りて行った。
その後ろ姿を見送る様に移した視線の先には、見慣れた駅名。
あと三駅で、おにーさんの降りる駅。その二つ先が、私の降りる駅になる。
背中を向けたまま顔を少し振り向けて後ろを窺うと、一つ向こうの対角線のドアの横にさっきと同じようにおにーさんが立っていた。
思わず、ほっと息を吐き出してしまう。
次、いつ見られるかわからないから。
もう、見られないかもしれないから。
せめて、おにーさんが降りるまで見ていたい。
気付かれない様に立っている人に隠れながら、こっそりとおにーさんを視界に収める。
半袖のYシャツに、ネクタイの無い姿。肩にかけているカバンは、あのころとは違う黒のビジネスバッグ。固そうな革靴。
おにーさんと会っていたのは冬の間だけだったから、スーツとはいえ夏服は初めて見た。そんな事くらいで、嬉しくなってしまう。
この気持ちは、あの日に置いてきたはずなのに。
”きみ”と、私を呼んだ。
だから私も、おにーさんの名前を聞かなかった。
”おにーさん”と、私は呼んだ。
帰宅中に会えるその短い時間が、私の支えになった。
ささくれだっていた心が、穏やかになり。思い詰めていた心が、解かれて。
ゆっくりと、ゆっくりと。
凝り固まった感情が、ふわりと軽くなっていった――
「お、やってんな」
運良く座れた帰宅途中の電車の中で掛けられた声に、単語帳から視線をあげた。
そこには、見慣れ始めた男の人の姿。
「おにーさん、今帰りですか」
何の驚きもなく返答する私を、少し面白くなさそうな表情で見下ろすと隣に腰かける。
「もう少しびっくりしろよー。つまんねぇ」
「なんでおにーさんを楽しませなきゃならないんですか、受験生の私が」
「じゃあ、俺が楽しませてやろうか?」
そう言ってにやりと笑うけれど、少しも怖くない。
「おにーさん顔が可愛すぎて、そのセリフ言われても思いつくのは遊園地くらい」
「あぁ、ジェットコースターは爽快だよな」
私達の会話は、本当に他愛もないものばかりだ。いいお天気ですね、そうですね。そんな感じ。
けれど、顔には出さなかったけれど。
そんな会話が、愛しかった。他愛もない言葉が、嬉しかった。
はらはらドキドキのスリルやサプライズはないけれど、穏やかでゆったりとしたこの安心感の中に包まれていたい、そう思った。
おにーさんと会える時間を狙って、電車に乗り。
おにーさんと会えるように、同じ車両に乗り。
おにーさんに褒められたくて、受験勉強を頑張った。
せめて、おにーさんが私に興味を向けてくれている間だけでも……
名前も知らない人だけど、いつの間にか私の中で大きな存在になっていた。
「あの、すみません。降ります」
「……っ!」
傍からかけられた声に、思考を現実に戻された。視線を走らせて、状況を把握する。反対側のドアがずっと空いていたから気が付かなかったけれど、この駅からは私のいる方のドが開くらしく、その目の前に立っていた私の為に降りる人が動けなかったようだ。
ドアを遮っていた体を横にどけて、小さな声ですみませんと頭を下げる。
声を掛けてきた女性は、こちらこそ……と軽く会釈をして空いたドアからホームへと降りて行った。
その後ろ姿を見送る様に移した視線の先には、見慣れた駅名。
あと三駅で、おにーさんの降りる駅。その二つ先が、私の降りる駅になる。
背中を向けたまま顔を少し振り向けて後ろを窺うと、一つ向こうの対角線のドアの横にさっきと同じようにおにーさんが立っていた。
思わず、ほっと息を吐き出してしまう。
次、いつ見られるかわからないから。
もう、見られないかもしれないから。
せめて、おにーさんが降りるまで見ていたい。
気付かれない様に立っている人に隠れながら、こっそりとおにーさんを視界に収める。
半袖のYシャツに、ネクタイの無い姿。肩にかけているカバンは、あのころとは違う黒のビジネスバッグ。固そうな革靴。
おにーさんと会っていたのは冬の間だけだったから、スーツとはいえ夏服は初めて見た。そんな事くらいで、嬉しくなってしまう。
この気持ちは、あの日に置いてきたはずなのに。
0
あなたにおすすめの小説
これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー
小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。
でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。
もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……?
表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。
全年齢作品です。
ベリーズカフェ公開日 2022/09/21
アルファポリス公開日 2025/06/19
作品の無断転載はご遠慮ください。
初恋にケリをつけたい
志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」
そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。
「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」
初恋とケリをつけたい男女の話。
☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18)
☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18)
☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
【完結】少年の懺悔、少女の願い
干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。
そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい――
なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。
後悔しても、もう遅いのだ。
※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。
※長編のスピンオフですが、単体で読めます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる