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8日目~11日目 原田視点
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ほとんど原田が食べるかたちで、重箱の中身は空になった。
それでも、ここ数日のアオにしてはよく食べた、と原田は内心ほっとする。
暫くはその場で取りとめのない話をしていた二人だったが、さすがに太陽が南天を過ぎる辺りになって縁側へと場所を変えた。庇の内側という事もあって日差しが遮られ、アオがつけた扇風機が涼しい風を運んでくる。
相変わらずスケッチブックに風景を映し取る様に線を重ねていくアオを、原田は残してあった夏休みの課題に手を付けながら眺めていた。
ただただ、アオは無言。
何も言葉を発することなく、鉛筆が紙を擦る音が響く。
少し古い型の扇風機の、カタカタという音。
たまに土手を通る人たちの、足音、話し声。
風に吹かれる、草々の音。
蝉の音。
きっと、これがアオの日常。
そこに、自分の存在を示す音が重なる。
麦茶を飲む音。
ガラスコップをお盆に戻す音。
身動ぎする時に上がる、衣擦れの音。
原田はたまに顔を上げてアオを眺めながら、その日常に溶け込んでいる自分の存在に微かな安堵を覚えていた。
一人、涙を流していたアオ。
置いてけぼりにされた子供の様な、大切な何かを見失ってしまったような、空っぽな表情でただ静かに涙を流していた。
あの時は、そこまで深く重く受け止めていなかった。
なんでだろうと、疑問に思うくらい。
でも、今はどうだ――
彼女の表情を消し去るその原因を知りたいと乞う、心臓を掴まれるような苦しいほどの感情。
認めるしかないのだ。
別に知らなくてもいい、そう思うなんてもうできない事に。
さっき、ありがとうと告げたアオは、笑っていた。
泣きそうだったけれど、笑っていた。
でも、なんの表情も浮かべない涙より、いい。
――今は、知る事を抑えられる。
問いただして原因を口にさせて、彼女の表情をまた奪ってしまうのであれば。
もう少し、待っていられる。
アオの隠す“何か”を知りたいと願う気持ちは強いけれど。
少しずつアオが変わっていけているのなら、それに少なからず自分が関わっているのが分かるから。
あれだけ否定していたのに、アオに対する独占欲を認めた時点で一気に湧き上がった彼女への感情。
今は穏やかなこの空気に、ずっと浸っていたい。意味のない、けれど気持ち的には意味のあるなんでもない会話を交わしていたい。少ない休みを潰しても傍にいたいと願うのだから、もう認めた方がいい。
俺は、アオが好きだ。
「そろそろ、帰るかな」
濃いオレンジに変わった空を見上げて、原田はアオに告げた。まだスケッチブックに向かっていたアオの意識は、朝と違ってすぐに浮上したらしい。ぱっと顔を上げると、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「帰るの?」
きょとんとした、何の含みもないただ素直な疑問の言葉。原田は苦笑を零しながら、座卓に手をついて立ち上がった。
「あぁ、帰るわ。あと、明日からしばらく来れないから」
ずっと座っていたからか、立ち上がった時体のあちこちからばきばきと音が鳴った。
肩をまわして、強張りをほぐす。
「俺が来なくても、ちゃんと飯は食うんだぞ」
そう言って鞄を手に取ると、アオの横を通りぬけて縁側に座った。
私服だったから突っかけてきたサンダルに足を押し込んで、庭に降りる。
「ななしくん」
じゃあな、ともう一度声を掛けると、スケッチブックを膝に抱いたままの体勢でアオが原田を呼んだ。
「何?」
内心、ドキリとしたのは否めない。
帰る、とそう告げながら、内心引き留めてもらえないかと期待する気持ちが確かにあるから。
身体を斜めに傾けてアオを見ると、アオはふわりと笑った。
「そういえばお盆だものね、明日から。今日はありがとう」
ひらひらと、振る掌。
その表情は、何も変わる事もなく。
「……あぁ」
それだけかよ……。
原田は、内心の失望感を隠す様に頷くと、庭先に止めてある自転車に向かって歩き出した。
昨日の段階で、数日間ここに来られない事に気づいていた。
明日は、別の高校で練習試合の予定で、ここに来る時間はない。
明後日からは、家族に一日遅れで父親の田舎に帰る。
だから、今日、理由をこじつけてここに来た。
アオに、会う為に。
自転車にまたがってからもう一度アオを見れば、同じ体勢で原田を見ていた。
目が合うと、ひらひらとまた手を振る。原田は片手を上げてそれに応えると、土手へと出て自転車を漕ぎだした。
まだ気温の高い中、汗の浮いてきた首筋を片手で拭う。
ちらりと後ろを見れば、もう見えないアオのいる家。
自分が帰る事に対して、寂しいとかそんな表情を……言葉の一つでも出ないかなと期待したけれど、あっさりと何もなかった。
あれだけ喰いつかんばかりに喧嘩腰に会話をしていた、可哀想な女相手にこんなこと思うとか。アオへの気持ちを認めたからこそ、落胆している自分に余計がっくりときてしまう。
そう。
アオへの気持ちを認めた原田にとって、目下の知りたい事はただ一つ。
彼女が自分の事をどう思っているのか、だ。
「本気で保護者って思われてんのか……?」
無意識に出る溜息は、原田の心情に重くのしかかった。
それでも、ここ数日のアオにしてはよく食べた、と原田は内心ほっとする。
暫くはその場で取りとめのない話をしていた二人だったが、さすがに太陽が南天を過ぎる辺りになって縁側へと場所を変えた。庇の内側という事もあって日差しが遮られ、アオがつけた扇風機が涼しい風を運んでくる。
相変わらずスケッチブックに風景を映し取る様に線を重ねていくアオを、原田は残してあった夏休みの課題に手を付けながら眺めていた。
ただただ、アオは無言。
何も言葉を発することなく、鉛筆が紙を擦る音が響く。
少し古い型の扇風機の、カタカタという音。
たまに土手を通る人たちの、足音、話し声。
風に吹かれる、草々の音。
蝉の音。
きっと、これがアオの日常。
そこに、自分の存在を示す音が重なる。
麦茶を飲む音。
ガラスコップをお盆に戻す音。
身動ぎする時に上がる、衣擦れの音。
原田はたまに顔を上げてアオを眺めながら、その日常に溶け込んでいる自分の存在に微かな安堵を覚えていた。
一人、涙を流していたアオ。
置いてけぼりにされた子供の様な、大切な何かを見失ってしまったような、空っぽな表情でただ静かに涙を流していた。
あの時は、そこまで深く重く受け止めていなかった。
なんでだろうと、疑問に思うくらい。
でも、今はどうだ――
彼女の表情を消し去るその原因を知りたいと乞う、心臓を掴まれるような苦しいほどの感情。
認めるしかないのだ。
別に知らなくてもいい、そう思うなんてもうできない事に。
さっき、ありがとうと告げたアオは、笑っていた。
泣きそうだったけれど、笑っていた。
でも、なんの表情も浮かべない涙より、いい。
――今は、知る事を抑えられる。
問いただして原因を口にさせて、彼女の表情をまた奪ってしまうのであれば。
もう少し、待っていられる。
アオの隠す“何か”を知りたいと願う気持ちは強いけれど。
少しずつアオが変わっていけているのなら、それに少なからず自分が関わっているのが分かるから。
あれだけ否定していたのに、アオに対する独占欲を認めた時点で一気に湧き上がった彼女への感情。
今は穏やかなこの空気に、ずっと浸っていたい。意味のない、けれど気持ち的には意味のあるなんでもない会話を交わしていたい。少ない休みを潰しても傍にいたいと願うのだから、もう認めた方がいい。
俺は、アオが好きだ。
「そろそろ、帰るかな」
濃いオレンジに変わった空を見上げて、原田はアオに告げた。まだスケッチブックに向かっていたアオの意識は、朝と違ってすぐに浮上したらしい。ぱっと顔を上げると、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「帰るの?」
きょとんとした、何の含みもないただ素直な疑問の言葉。原田は苦笑を零しながら、座卓に手をついて立ち上がった。
「あぁ、帰るわ。あと、明日からしばらく来れないから」
ずっと座っていたからか、立ち上がった時体のあちこちからばきばきと音が鳴った。
肩をまわして、強張りをほぐす。
「俺が来なくても、ちゃんと飯は食うんだぞ」
そう言って鞄を手に取ると、アオの横を通りぬけて縁側に座った。
私服だったから突っかけてきたサンダルに足を押し込んで、庭に降りる。
「ななしくん」
じゃあな、ともう一度声を掛けると、スケッチブックを膝に抱いたままの体勢でアオが原田を呼んだ。
「何?」
内心、ドキリとしたのは否めない。
帰る、とそう告げながら、内心引き留めてもらえないかと期待する気持ちが確かにあるから。
身体を斜めに傾けてアオを見ると、アオはふわりと笑った。
「そういえばお盆だものね、明日から。今日はありがとう」
ひらひらと、振る掌。
その表情は、何も変わる事もなく。
「……あぁ」
それだけかよ……。
原田は、内心の失望感を隠す様に頷くと、庭先に止めてある自転車に向かって歩き出した。
昨日の段階で、数日間ここに来られない事に気づいていた。
明日は、別の高校で練習試合の予定で、ここに来る時間はない。
明後日からは、家族に一日遅れで父親の田舎に帰る。
だから、今日、理由をこじつけてここに来た。
アオに、会う為に。
自転車にまたがってからもう一度アオを見れば、同じ体勢で原田を見ていた。
目が合うと、ひらひらとまた手を振る。原田は片手を上げてそれに応えると、土手へと出て自転車を漕ぎだした。
まだ気温の高い中、汗の浮いてきた首筋を片手で拭う。
ちらりと後ろを見れば、もう見えないアオのいる家。
自分が帰る事に対して、寂しいとかそんな表情を……言葉の一つでも出ないかなと期待したけれど、あっさりと何もなかった。
あれだけ喰いつかんばかりに喧嘩腰に会話をしていた、可哀想な女相手にこんなこと思うとか。アオへの気持ちを認めたからこそ、落胆している自分に余計がっくりときてしまう。
そう。
アオへの気持ちを認めた原田にとって、目下の知りたい事はただ一つ。
彼女が自分の事をどう思っているのか、だ。
「本気で保護者って思われてんのか……?」
無意識に出る溜息は、原田の心情に重くのしかかった。
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