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最期の時

其の弐

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 もう何年も、何十年も何百年も、私は桜から離れたことはなかった。記憶にあるのは、あの場所に移されてからほんの少しの間、森の主さまのもとへ遊びに帰っていたその時の風景。
 
 ……世界は変わっていた。公園から見る風景で分かってはいたけれど、この目で見ることで実感する。
 昔のような澄んだ空気ではない混ざりものの強い何かが、身体の動きを弱めていく。
 こんなにも、自然を源とする精霊にとって生きにくい世の中になっていた。私のいたあの場所も、森の主さまが守ってきたあの場所も、残り少ない住みやすい土地だったのだと思い至る。

『主さま主さま、もう少しだよ』
『大丈夫? 大丈夫?』
『私達が、連れて行くからね』

 数人だった風の精霊が、夜には姿を隠してしまう光の精霊を連れて合流する。月の灯りを糧に、私の周りを照らしてくれる。
『ありがとう』
 神から与えられた仕事ではなく、ただの私情なのに力を貸してくれる。
 指先を伸ばして春の息吹を吹きかければ、楽しそうにくるくると回る愛しい存在。
『神様がね、神様がご褒美だよって』
 ほんわりと光を放つ精霊が、指先に止まる。
『ご褒美だから、好きなようにしなさいって』

 ……今までお疲れさま

 精霊の声に重なって、直接心に響く温かな声。
『ありがとうございます』
 伝えるのは、感謝。私を生み出してくださって、ありがとうございました。ただ、その思い一つ。
 
 じんわりと温かくなる胸を右手で押さえた時、先を飛ぶ風の精霊が目の前の建物を指さした。
『あそこだよ、あそこにいるよ』
 大きな、真っ白い建物。光と闇が混在する、不思議な空間。
『そうか、病院か……』
 生と死が交じり合うその建物の窓の一つに、一志の姿が見えた。
 カーテンの引かれた病室の、その窓の傍。カーテンとの隙間に立ち、明るいだろう病室に背を向けている。

 そういえば、一志の兄の手術日はいつだった? 年明けだったという事は記憶しているけれど、日にちまでは覚えていなかった。
 もしかして、それが今日なのだとしたら。

 ふわりとその窓辺に近づいて、硬質なガラスにそっと触れる。目を伏せたその表情は、お世辞にも明るい顔とは言えなかった。けれど、私のもとへと来ていた時よりもほっとしたような柔らかな表情。

『一志』

 思わず呟くと、驚いたように一志の目が開いた。何かを探すようにきょろきょろと視線を動かして、徐に窓を開ける。
 何事かと触れていた窓から離れると、一志の手が空を切った。
「え、と。あれ?」
 不思議そうに呟きながら、きょろりと辺りを見渡して再び手元へと視線を移す。
「まさか、そうだよな……」
 戸惑うように掌を見つめて、ため息をつく。窓についている柵に手をついて、じっと空を見上げた。

 ……その視線の先に、私がいる事に気がついていないのに。なんで、目が合うんだろう。一志は、どうして私のいる場所が分かるんだろう。
 胸の奥に密やかに、甘い何か膨れ上がる。

「さくらの神様が、いるような気がしたんだけど……」
『……はは。私は、神ではないと言ってるだろうに』
「……」
 息を吐きながら呟いた声に、一志の動きが止まった。不思議に思って見ていれば、恐る恐るといった呈で伏せた目を上げる。
「さくらの……神さ……、いや、え……?」
 呆然と、信じられないものを見るように私と目が合う。

『ん?』
「……神様?」

 目が、合った。
 目が合った、のだ。
 今までのような、同じ視線の線上という意味ではなく。

 しっかりと合わさった視線に、目を見開く一志の姿。その表情に、あぁ……と納得する。腕を軽く振り上げて袿の袖を揺らせば、同じように動く目線。
『そうか、見えるのか』
 今まで、ひとと合うことのなかった視線が、初めて。
『一志』
「は、はいっ!」
 ぽかんと開けていた口が、驚いたように声を上げる。柵を掴む手に力が入って、金属がみしりと悲鳴を上げた。
『初めまして、かな』
「はじめ……まして……」
 オウム返しのように私の言葉を繰り返す一志の傍に、少し近寄る。一志は逃げるでもなく、ただ目を見開いたまま私を見つめている。

 喜びが、身体を満たす。嬉しさが、胸に湧き出る。
 一方通行だった言葉を、聞き、そして伝えることができることに心が温かくなる。

『兄君の手術は、終わったの?』
 ちらりとカーテンの向こうへ視線を向けたが、そこには空のベッドがあるだけで兄に該当するような人の姿はない。一志は頭が振り切れんばかりに頷いて、少し視線を落とした。
「昨日終わって今は回復室にいます。おかげさまで、手術は成功しました! あとは、術後のリハビリががあって、それがとても辛いらしくて」
 明るかった表情が、微かに陰りを負う。
 そういえば、一志の願いは兄君の手術が無事に終わり元気になって、あの女性と幸せになって欲しいというものだった。
 手術が終わっても、次の難関が立ちはだかっているという事か。

『そうか、手術が成功したのならよかった。けれど次はリハビリか……。すまないな。あれだけ祈ってくれていたけれど、私は、その願いを叶える術はない。ただの精霊だから』
「精霊……」
『祈る事しかできないけれど、兄君の無事を祈らせてもらおう。神ではなく、期待外れで申し訳ないが』
 そう言って微笑めば、一志はぐっと身を乗り出してきた。
『危ないよ、一志。落ちてしまいそうだ……』
「き、期待外れなんて、そんなことっ! あぁ、でも、あなたは本当にいたんだ。馬鹿な事を言って、本当にすみませんでしたっ」
『馬鹿な事?』
「兄の事や、その彼女の事とか。本当に……」
 彼女。
 その言葉に、夏の頃を思い出す。一度だけ、女性が来たことがあった。
『お前の、想い人?』
 一志は慌てたように頭を振った。
「いえ、兄さんの恋人で! 幼馴染だから確かに仲はいいですが、それだけの関係でっ」
『お前は、兄君と幼馴染の願いをかなえたかったのか』
「親が仕事で忙しい時、俺の面倒を見てくれた二人で……とても大切だし恩もあるから」

 そういって穏やかに目を細めた一志から、温かな感情が広がった。本当に、二人の事を大切に思っているという事が伝わってくる。精霊たちも居心地がいいのか、一志の傍によってのぞき込んだり腰を下ろしたりしていた。
 精霊自体の力が強くないから、一志には見えていないようだけれど。

『そうか、そんな大切な人たちの幸せ。力添えになるかわからないが、私もしっかりと祈らせてもらおう』
「俺は! あなたに、あなたに救われたんです! 二人の事や自分の生活の事、いろんなことで苦しかった俺は、あなたの所に行くことでとても癒されていたんです! 本当です!」
『はは、……そう。それなら、よかった。私も、お前が来てくれるのが、嬉しかったよ』
 そう、嬉しかったんだ。最初は、ひとの為に願う物珍しいひとだと思っていたけれど、私のもとに来て、見えずとも……見えていないはずなのに。
『見えていない私に視線を向けて、ちゃんと見て話し掛けてくれたお前が来てくれることが、嬉しかった』
 だから。

『だから、お前の為にその二人の幸せを祈ろう。ただ……』

 お前がそれを願うなら、私に初めての幸せをくれたお前の為に。
 ただ、ただ。その代わりに。


『私に、約束をくれないか?』
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