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第2章 世界の理
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「……わあ……」
禊と共に洞を抜けた少女は、突如目の前に広がった空間に驚愕の声を上げた。
そこは一面――形容し難い、白と青と灰色の世界。午後も終わりの、生気のない光の明度にきらめく、海と空でできた大地。上下左右に雲が流れ、また水を湛えているかのように、ゆらゆらと揺れては打ち寄せる。あるいはその逆なのだろうか。美しすぎる水が空を映し、上下左右の感覚をなくしているだけなのだろうか。
その中で一本の道を成すように連なる、数え切れないほどの白木の鳥居。それを一番近いものから目でなぞれば遥か先に、雲や波を寄せながらも土や根を湛え、落ちることなく緑を茂らせる――水と空に浮かぶ島々があった。
「……空と海が混ざってる。島が浮いてる」
「雲海ですから」
「……」
無限の空間に圧倒され呆然と呟く少女だったが、禊はさもそれが当然のように答えてくれる。それで少女が呆けたように禊を見上げれば、先に出て待っていた洞主が笑って頷いた。
「それは禊の言うとおり。そなたはほんの少し、こちらに辿り着く道筋が人とは違ってしまったから……不思議に思うこともあろうが、日を重ねればすぐにこの淡島にも馴染むであろ」
「は……はい……」
そういうものなのだろうかと漠然と頷き、ほうと長く息を吐く少女。〝あわしま〟というなら、きっとあの島々が天の海に浮かぶ沫のように見えるからなのだと思う。雨上がりのような、水気を帯びる光と闇を孕んだ雲が、頭上にも足元にも流れている光景は――ただただ、不可思議なものだった。
そしてその雲海の足場となるのは、形も不揃いな跳び石だけ。それが歪に連なり、鳥居の中心を貫いている。
少女は身を乗り出して下を眺め、それから禊を見遣って呟いた。
「あの……、もしここから落ちたら、どうなるの?」
「落ちません。――一ノ弟」
「……!」
手持ちぶさたに体を揺らし、話を聞きつつ砂を蹴って遊んでいた少年は、兄貴分の禊に呼ばれぱっと顔を上げる。禊が鳥居の方を顎で示すと、少年はその意を察し、少女に向かってにかっと笑い駆け出した。生え変わりか、乳歯の一本抜けた並びの歯。その年相応の身軽さで、一足跳びにぴょんぴょんと登っていく。
なるほどたしかに――あんなに小さな子が渡れるのなら、自分でもきっと大丈夫だと少女は思う。
もっとも足が立てばの話だが、そんなことを考えていれば上の方から「おーい」と子供特有の高い声が聞こえてきた。
「落ちたらきっと、さっきのお面の神様がすくってくれるよー!」
自慢気に手を振る男の子の言葉に、少女は禊を窺う。
「……やっぱり、あの二人は神様だったのね」
「はい。お二方とも、偉大な神々にあらせられます」
「……本当に助けてもらえる? あと……、……重くない?」
「釣りがご趣味なそうなので、竿に掛かれば。あとは、足が立つまでお気になさらず」
「ん……」
後半の何ともいえない返事に若干のいたたまれなさを感じ、重さが変わるわけではないが身を縮めれば、高らかに声を上げて洞主が笑う。
「やはり水蛭子は水蛭子。頼るべき相手が誰か、もうわきまえておる――。禊、自身の姫子可愛さに意地悪をおしでないよ。さあ、もう長居は無用。落ちるときは禊も一緒ゆえ、参りますえ」
――そなたの、本当の故郷へ。
***
ぱちゃり、と――禊が踏み出した足元に、波が寄せ水の雫が弾け飛ぶ。
(本当の……故郷……)
その言葉は、少女の中で不思議な反響をもたらし意識の芯を震わせた。そして、鳥居を一つまた一つとくぐるごとに、体の中が空虚になっていくような心地になる。
それは不安にも似た感覚。所在なく、落ち着かない。どこか……別の世界を本当に知っているような、行けると信じているような、思い描いているときのような。覚めて忘れかけた夢を手繰り寄せる感覚に似ている。
けれど――今にして思えば、日嗣も同じようなことを言っていた。
――己が外見だけで男に靡くような浅ましい愚か者でなかったことを
――育ての親に感謝するがいい。
〝育ての親〟。
それはつまり、〝生みの親〟が別にあるということではないのか――。
それなのに、今の自分には個を形成する記憶が何もない。わからないこともたくさんある。猿彦が口にしたように、本当に赤子のような存在。
だからといって、具体的に何か問うこともできない。日嗣を前にしたときもそうだった。何かを問おうとすると、別の何かにかき消されてしまう。ふわふわと、それこそ沫のように……意識がこことどこかをたゆたうのだ。
まるでこの空にぽつりと一人取り残されたような気がして、それが怖くて少女は無意識に日嗣の衣を胸元で握りしめた。これが夢などではなく現実で、その中で自分と触れ合ってくれた存在がたしかにいたのだと、証してくれる衣。
これがなければ禊に抱き上げられた瞬間、自分の体はほろほろと崩れて、何もかも消えてしまっていたのではないか。
自分は今、世界を見渡し――その世界どころか自分自身のことさえも、何一つとして知れない。それがこんなにも気持ちを不安定にさせるものだとは、思わなかった。
否――ただ一つ、女だということはわかる。まだ成熟していない、それでも……性に無頓着ではいられない年頃の。そう改めて認識すれば、日嗣との行為に羞恥とむず痒さが沸き起こり体が熱くなる。何かよくないものから助けてくれただけ、それだけだとしても――。
……しかし、あとは何もない。
断片的に覚えているのは水の中にいたこと。そして引き揚げられてからは、何度も……〝ひるこ〟と言われたことだけ。
「……洞主様。あの……ひるこ、というのは何ですか? わたしのこと……それがわたしの名前なのですか?」
「……うむ……折りを見て、少しずつこちらの理も覚えていかねばの」
おそるおそる少女が問えば、洞主はその足を止め神妙そうな表情で振り返る。そして数秒の後、再び緩やかに歩み、語り始めた。
禊と共に洞を抜けた少女は、突如目の前に広がった空間に驚愕の声を上げた。
そこは一面――形容し難い、白と青と灰色の世界。午後も終わりの、生気のない光の明度にきらめく、海と空でできた大地。上下左右に雲が流れ、また水を湛えているかのように、ゆらゆらと揺れては打ち寄せる。あるいはその逆なのだろうか。美しすぎる水が空を映し、上下左右の感覚をなくしているだけなのだろうか。
その中で一本の道を成すように連なる、数え切れないほどの白木の鳥居。それを一番近いものから目でなぞれば遥か先に、雲や波を寄せながらも土や根を湛え、落ちることなく緑を茂らせる――水と空に浮かぶ島々があった。
「……空と海が混ざってる。島が浮いてる」
「雲海ですから」
「……」
無限の空間に圧倒され呆然と呟く少女だったが、禊はさもそれが当然のように答えてくれる。それで少女が呆けたように禊を見上げれば、先に出て待っていた洞主が笑って頷いた。
「それは禊の言うとおり。そなたはほんの少し、こちらに辿り着く道筋が人とは違ってしまったから……不思議に思うこともあろうが、日を重ねればすぐにこの淡島にも馴染むであろ」
「は……はい……」
そういうものなのだろうかと漠然と頷き、ほうと長く息を吐く少女。〝あわしま〟というなら、きっとあの島々が天の海に浮かぶ沫のように見えるからなのだと思う。雨上がりのような、水気を帯びる光と闇を孕んだ雲が、頭上にも足元にも流れている光景は――ただただ、不可思議なものだった。
そしてその雲海の足場となるのは、形も不揃いな跳び石だけ。それが歪に連なり、鳥居の中心を貫いている。
少女は身を乗り出して下を眺め、それから禊を見遣って呟いた。
「あの……、もしここから落ちたら、どうなるの?」
「落ちません。――一ノ弟」
「……!」
手持ちぶさたに体を揺らし、話を聞きつつ砂を蹴って遊んでいた少年は、兄貴分の禊に呼ばれぱっと顔を上げる。禊が鳥居の方を顎で示すと、少年はその意を察し、少女に向かってにかっと笑い駆け出した。生え変わりか、乳歯の一本抜けた並びの歯。その年相応の身軽さで、一足跳びにぴょんぴょんと登っていく。
なるほどたしかに――あんなに小さな子が渡れるのなら、自分でもきっと大丈夫だと少女は思う。
もっとも足が立てばの話だが、そんなことを考えていれば上の方から「おーい」と子供特有の高い声が聞こえてきた。
「落ちたらきっと、さっきのお面の神様がすくってくれるよー!」
自慢気に手を振る男の子の言葉に、少女は禊を窺う。
「……やっぱり、あの二人は神様だったのね」
「はい。お二方とも、偉大な神々にあらせられます」
「……本当に助けてもらえる? あと……、……重くない?」
「釣りがご趣味なそうなので、竿に掛かれば。あとは、足が立つまでお気になさらず」
「ん……」
後半の何ともいえない返事に若干のいたたまれなさを感じ、重さが変わるわけではないが身を縮めれば、高らかに声を上げて洞主が笑う。
「やはり水蛭子は水蛭子。頼るべき相手が誰か、もうわきまえておる――。禊、自身の姫子可愛さに意地悪をおしでないよ。さあ、もう長居は無用。落ちるときは禊も一緒ゆえ、参りますえ」
――そなたの、本当の故郷へ。
***
ぱちゃり、と――禊が踏み出した足元に、波が寄せ水の雫が弾け飛ぶ。
(本当の……故郷……)
その言葉は、少女の中で不思議な反響をもたらし意識の芯を震わせた。そして、鳥居を一つまた一つとくぐるごとに、体の中が空虚になっていくような心地になる。
それは不安にも似た感覚。所在なく、落ち着かない。どこか……別の世界を本当に知っているような、行けると信じているような、思い描いているときのような。覚めて忘れかけた夢を手繰り寄せる感覚に似ている。
けれど――今にして思えば、日嗣も同じようなことを言っていた。
――己が外見だけで男に靡くような浅ましい愚か者でなかったことを
――育ての親に感謝するがいい。
〝育ての親〟。
それはつまり、〝生みの親〟が別にあるということではないのか――。
それなのに、今の自分には個を形成する記憶が何もない。わからないこともたくさんある。猿彦が口にしたように、本当に赤子のような存在。
だからといって、具体的に何か問うこともできない。日嗣を前にしたときもそうだった。何かを問おうとすると、別の何かにかき消されてしまう。ふわふわと、それこそ沫のように……意識がこことどこかをたゆたうのだ。
まるでこの空にぽつりと一人取り残されたような気がして、それが怖くて少女は無意識に日嗣の衣を胸元で握りしめた。これが夢などではなく現実で、その中で自分と触れ合ってくれた存在がたしかにいたのだと、証してくれる衣。
これがなければ禊に抱き上げられた瞬間、自分の体はほろほろと崩れて、何もかも消えてしまっていたのではないか。
自分は今、世界を見渡し――その世界どころか自分自身のことさえも、何一つとして知れない。それがこんなにも気持ちを不安定にさせるものだとは、思わなかった。
否――ただ一つ、女だということはわかる。まだ成熟していない、それでも……性に無頓着ではいられない年頃の。そう改めて認識すれば、日嗣との行為に羞恥とむず痒さが沸き起こり体が熱くなる。何かよくないものから助けてくれただけ、それだけだとしても――。
……しかし、あとは何もない。
断片的に覚えているのは水の中にいたこと。そして引き揚げられてからは、何度も……〝ひるこ〟と言われたことだけ。
「……洞主様。あの……ひるこ、というのは何ですか? わたしのこと……それがわたしの名前なのですか?」
「……うむ……折りを見て、少しずつこちらの理も覚えていかねばの」
おそるおそる少女が問えば、洞主はその足を止め神妙そうな表情で振り返る。そして数秒の後、再び緩やかに歩み、語り始めた。
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