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第4章 恋教え鳥
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その日嗣の申し出に、猿彦は一瞬呆気に取られたようだったが、次には大きく口元に笑みを浮かべると一言わかったと答えて、台座の端まで歩み出る。
日嗣はそれを見て、猿彦よりも神依と目を合わさぬよう波間の光に視線を落としてしまう。が――どんな些細な思いつきであっても、これは猿彦に取っては喜ぶべき出来事だった。
もう長い間……本当に長い間、淡島の巫女たち――ひいては女という存在に進んで関わろうとしなかった、この偉大で尊大な友垣。
それが、どんな心境の変化があったのかは知れないが――わざわざ御自ら行幸して、この少女について語るという。
それは、友として日嗣の心境を正しく知る猿彦にしかわからない喜びだった。
今までたくさんの女たちが、友の恵まれ過ぎた生まれや容姿に……時折垣間見せる無自覚の慈愛に胸をときめかせ、恋焦がれてきた。しかし女たちがそれを求めれば求めるほど、友は自らの魂を閉ざしてしまう。どんな色にも香にも惑わず、愛の囁きにも恫喝にも耳を貸さず、今となっては毛嫌いすらしている。
しかし……それを否定することは命を否定することと同じだ。
神は神ゆえに、ただ一人――男神であっても、依さえあれば器物からでも子を成せる。しかし本当はそうではないことを、国津神たちは知っている。まだちゃんと、覚えているのだ。
『――神を語るには、酒と恋が必須だろう』
……そう語っていたのはその最たる長だが、もし友のそのかたくなな魂をほころばせるものができたなら、それは高天原から豊葦原まですべての命を満たす神威に転じる。日嗣の御霊はそれほどに、人や神の要となるものだった。
それを、まだ何も知らない……幸いにも知らされていない、この清らな水のような巫女が成してくれたなら。
そうでなければ、
〝――もう誰にも心を寄せたりはしない〟
その言葉どおりの生き方は、ひどくやるせないものだった。孤独なものだった。
神は一人では生きられないのだ。
そしてこの友の手を介して良き伴侶を得、ゆえに縁を結ぶ神威を人から授けられた猿彦には、それはあまりにも耐えきれない――やりきれない生だった。
だからその可能性がたとえ蜘蛛の糸ほどのものであったとしても、すがりたかった。
「…………」
その思いをかき混ぜるように釣竿で海を混ぜれば、そこに点々と跳び石ができていく。
「――孫ー、行けるぞー。とりあえず奥社の方でいいよなー?」
「……ああ」
その間、特に言葉を交わすことなく、猿彦とも神依とも見えない境界線を引いてはただ待つだけだった日嗣は、その友の声にふと顔を上げる。
そこでようやく神依を見れば、神依は神依で口をぽかんと開けたまま釣竿で足場を作る猿彦を一心に眺めていた。わかりやすい。
「……今日は立てるだろうな」
「あ、はい……何とか」
声をかければ、それは同じように顔を上げ裳の水を絞りながら立ち上がる。運ぶとしても猿彦だったが、あの禊の真似事はせずに済みそうだった。
……しかし、濡れ鼠なのに変わりはない。
「……もういい、持っていけ。一枚も二枚も同じだ」
「えっ、わっ」
仕方なくあのときと同じように羽織を頭の上から被せてやれば、今度は子龍の方から抗議されるような声が浴びせられる。
「なーに三人でじゃれてんだよ、ふざけて海に落ちるなよ。んじゃ俺が先頭で、次が神依な。落ちたら孫に拾ってもらえよ」
「は、はい」
そうして竿を動かす猿彦を先頭に、神依、日嗣と緋色の雲海に浮かぶ三人の影。
雲海の主は慣れたように先を行くが、初めて石を渡る神依はやはりおっかなびっくりでその距離も少しずつ開いていく。猿彦の歩幅もまた、彼女には辛そうだった。
何度も何度も足元を確かめながら次の石に移る神依に、日嗣が声をかける。
「――神依」
「あっ――はい!」
「名を呼ばれたと言っていたが……その名を呼んだ誰かは、他に何か言っていたか?」
「えっ……どうしてですか?」
神依は足を止め振り返ると、困ったようにうつむき……まるで時が止まったかのように微動だにしなくなった。
そこへ足元に寄せる雲海の水がぱちゃりと跳ね、二人の間を花の香を混ぜた風が通り抜ける。
それから少しの時を置いて、少女は――顔を上げ、口を開いた。
「……を」
「……?」
「恋を、しなさいって」
日嗣はそれを見て、猿彦よりも神依と目を合わさぬよう波間の光に視線を落としてしまう。が――どんな些細な思いつきであっても、これは猿彦に取っては喜ぶべき出来事だった。
もう長い間……本当に長い間、淡島の巫女たち――ひいては女という存在に進んで関わろうとしなかった、この偉大で尊大な友垣。
それが、どんな心境の変化があったのかは知れないが――わざわざ御自ら行幸して、この少女について語るという。
それは、友として日嗣の心境を正しく知る猿彦にしかわからない喜びだった。
今までたくさんの女たちが、友の恵まれ過ぎた生まれや容姿に……時折垣間見せる無自覚の慈愛に胸をときめかせ、恋焦がれてきた。しかし女たちがそれを求めれば求めるほど、友は自らの魂を閉ざしてしまう。どんな色にも香にも惑わず、愛の囁きにも恫喝にも耳を貸さず、今となっては毛嫌いすらしている。
しかし……それを否定することは命を否定することと同じだ。
神は神ゆえに、ただ一人――男神であっても、依さえあれば器物からでも子を成せる。しかし本当はそうではないことを、国津神たちは知っている。まだちゃんと、覚えているのだ。
『――神を語るには、酒と恋が必須だろう』
……そう語っていたのはその最たる長だが、もし友のそのかたくなな魂をほころばせるものができたなら、それは高天原から豊葦原まですべての命を満たす神威に転じる。日嗣の御霊はそれほどに、人や神の要となるものだった。
それを、まだ何も知らない……幸いにも知らされていない、この清らな水のような巫女が成してくれたなら。
そうでなければ、
〝――もう誰にも心を寄せたりはしない〟
その言葉どおりの生き方は、ひどくやるせないものだった。孤独なものだった。
神は一人では生きられないのだ。
そしてこの友の手を介して良き伴侶を得、ゆえに縁を結ぶ神威を人から授けられた猿彦には、それはあまりにも耐えきれない――やりきれない生だった。
だからその可能性がたとえ蜘蛛の糸ほどのものであったとしても、すがりたかった。
「…………」
その思いをかき混ぜるように釣竿で海を混ぜれば、そこに点々と跳び石ができていく。
「――孫ー、行けるぞー。とりあえず奥社の方でいいよなー?」
「……ああ」
その間、特に言葉を交わすことなく、猿彦とも神依とも見えない境界線を引いてはただ待つだけだった日嗣は、その友の声にふと顔を上げる。
そこでようやく神依を見れば、神依は神依で口をぽかんと開けたまま釣竿で足場を作る猿彦を一心に眺めていた。わかりやすい。
「……今日は立てるだろうな」
「あ、はい……何とか」
声をかければ、それは同じように顔を上げ裳の水を絞りながら立ち上がる。運ぶとしても猿彦だったが、あの禊の真似事はせずに済みそうだった。
……しかし、濡れ鼠なのに変わりはない。
「……もういい、持っていけ。一枚も二枚も同じだ」
「えっ、わっ」
仕方なくあのときと同じように羽織を頭の上から被せてやれば、今度は子龍の方から抗議されるような声が浴びせられる。
「なーに三人でじゃれてんだよ、ふざけて海に落ちるなよ。んじゃ俺が先頭で、次が神依な。落ちたら孫に拾ってもらえよ」
「は、はい」
そうして竿を動かす猿彦を先頭に、神依、日嗣と緋色の雲海に浮かぶ三人の影。
雲海の主は慣れたように先を行くが、初めて石を渡る神依はやはりおっかなびっくりでその距離も少しずつ開いていく。猿彦の歩幅もまた、彼女には辛そうだった。
何度も何度も足元を確かめながら次の石に移る神依に、日嗣が声をかける。
「――神依」
「あっ――はい!」
「名を呼ばれたと言っていたが……その名を呼んだ誰かは、他に何か言っていたか?」
「えっ……どうしてですか?」
神依は足を止め振り返ると、困ったようにうつむき……まるで時が止まったかのように微動だにしなくなった。
そこへ足元に寄せる雲海の水がぱちゃりと跳ね、二人の間を花の香を混ぜた風が通り抜ける。
それから少しの時を置いて、少女は――顔を上げ、口を開いた。
「……を」
「……?」
「恋を、しなさいって」
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