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第5章 巫女として
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「わ――わたしを神事に!?」
夜――奥社の一角に神依の声が響く。
藍の宵闇の中、篝火を灯され夕色に浮かぶひとつの社殿。その上座に二柱の神を据え、下には洞主と大兄、そして身なりを整えた神依とその僕たちの姿があった。
そして日嗣はその前で、
「私が司る祭祀にて、その娘を取り立てる」
と唐突に、だが決定事項であるかのように宣下したのだ。
「孫。それってあの、頭を落とした蛟のヤツか?」
「ああ」
洞主らの手前、友とはいえ上段に並ぶことをわきまえ、段差で気任せに座っていた猿彦までもが意外そうに日嗣を見遣る。
残された者たちも顔を見合わせ、まず大兄が一礼と共に口を開いた。
「お――恐れながら、御令孫。それはあまりにも……彼女はまだ巫女としては……」
「すでに選定を終え名も下っておろう。何か問題でも?」
「……いえ。一介の禊ごときが……出過ぎた真似をいたしました。申し訳ありません」
夕から立て続けに起きている異例の出来事に、大兄は気ばかり焦らせていた玉衣に代わってやりたかったのだが……それは敢えなく一蹴される。
(やはり俺では相手にもされぬか……)
それは絶対に禊が越えることのできない隔たり。 例えば目の前の男は、取っ組み合いになるような勝負ならば絶対に自分が勝つ自信がある見映え、体躯の若造だというのに――やはり人と神の差か、こういうとき、こういう場面での存在感は尋常ではない。
おそらく――美しすぎるのだ。顔に落ちる髪の影の中で光る瞳は夜鳥のようで、微動だにしない表情は氷のようだった。傍らに伴う異形の神と比べると、身にまとう空気までもが刃のように思えてくる。迂闊に手を伸ばそうものなら、肉の筋一本まで形を崩すことなく断たれそうな気がする。触れがたい美しさ。
いや、そうでなくとも……この鋭利な男を前に据えると、どうしてだか人は皆頭を下げて、謝辞の言葉を述べたくなってしまうのだ。
そしてその間、洞主は洞主でどのような会話がなされているか頭の端に聞き入れながらも、先に起きた一連の出来事を頭の中で反芻していた。
(御令孫の急なお召しといい、一体何が起きているというのか……。……さっぱりわからない……)
――あのとき――あの暗がりの中。
***
あのとき、あの暗がりの中。
やけに静かだとは思った。
洞主の知る少女は、怖がりで人見知りで知りたがり。だから暗闇と未知の世界に恐怖して、慣れた自分にはいろいろ問うてくれるのだろうと思っていた。
しかし少女は場の雰囲気に呑まれたのか、黙りこくったまま後ろをついてくるのみ。
語ってはいけないと、脅し過ぎてしまっただろうか。
けれども向かう先は神々に取っては穢れも同じ。一度祓の儀こそ行えど、巫女がそこに降りることを知ればそれだけで忌み嫌う男神も出てくるだろう。
だから絶対に、語ってはいけない。神々に愛されない巫女は孤独なのだ。
それでも巫女をそこに連れていくのは……彼女たちすべてに子を生む可能性があるから。
この奥社の最深奥、湧き水と苔に侵された暗い石室の祭殿。
そこに祀られているのは、原初の女神――この世界を創り、あらゆる神を生み、しかしそれが原因で命を落とし、その死という穢れによって愛する背と悲惨な決別をした女神だった。
だから、女はもっとも死に近い場所で生を育むということを知らなければならない。洞主たる自分は、どれだけ穢れが忌まわしく避けなければならないものか、語らなければならない。
そして、この夫婦神にとっては望まぬ存在であったであろう水蛭子から、巫女へ……もう一度生まれ変わる体で、女神より名をいただくのだ。
「……」
いや――やはり体裁という言い方はふさわしくはないのかもしれない。
かつては自ら、時の洞主に手を引かれてやってきた。だからこそ理解できる感覚。
その巫女としての名は、祭壇に張られた水鏡に墨を落としたように浮かび、それを得た瞬間の自分はたしかに――何かが神から降されたような、そんな気がしたのだ。そして本当に生まれ変わったかのように、頭の中で自然に巫女の役目も認識していた。
――淡島の巫女の役目。
「……」
洞主はひとつ溜め息を吐き、先を見つめる。
――淡島の巫女は神々に信仰を捧げ、歌舞にてその御霊を慰め……心を寄り添わせては身を捧げ、契りを結ぶ。
(……そう申せば、聞こえはいいが)
名をもらい、後から別の神にその由来を聞いては素直に喜び、可愛らしく玉や衣をねだった無知な少女はもういない。それに媚び、あらゆる神々に身を任せた若い娘はもういない。それを誇り、他の巫女から嫉妬された女はもういない。
彼らは本当の愛などくれはしなかったのだ。
そしてその間違った交わりの末に神など生まれようはずもない。そうやって何人もの子を海に流して、娘はやがて変わっていった。
……時折響く水滴に、少女が怯えたように手を握り直し、袖間近に身を寄せる。
(この子もきっといつか、そうなるのだろう……)
洞主はここに来る度にそれを憂い、加えて今手を引く子はもしかしたら自分の子かもしれないと……思う度に切なくて、やるせなくなる。
そういえばこの子は、まだ無垢であった頃の自分にどこか似ている。彼女の目にはあらゆるものが美しく見えて、優しく見えて、それを受け入れるまま疑いもしない。
また禊のあり方も似ている。大切なことは何一つ告げずにひたすらに献身的で、目に見えない優しい圧力で押し潰そうとする。
もしもともに時を重ねることができたなら、他の巫女とは違う、禊とも違う――良き理解者になってもらいたいと思うのだが……。
――と、そこまで思ったとき、前方に祭壇の間の灯りが見えてきて洞主はほっとして体の力を抜いた。
やはり生ある者として、そこに向かう道筋の恐怖や緊張はぬぐい切れないのだ。
暗闇の中、無事に辿り着けたと気が緩んで洞主は笑みながら少女に振り向き、
「――怖がらせてしまったかえ? でももうすぐに……、……?」
謝罪の意も込め殊更に明るい声をかけたのだが、少女はもうそこにはおらず……ただ一人、自分だけが暗闇に立ち尽くすのみになっていた。
「――…!?」
それを脳が理解した瞬間、身体中の血が凍りついたような心地になって肌が一瞬で粟立つ。
少女がいたはずの空間は、今やぽっかりと口を開けるだけの暗闇になっていて……洞主にはそれが涎を啜りながら舌なめずりしているように見えて、動いたらその汚ならしい歯と舌が襲いかかってくる気がして、微動だにできなくなった。
(――そんな――そんなはずはない)
かろうじて働く思考で、目だけを動かし暗闇を見渡す。
そう、そんなはずはないのだ。だって自分は、振り向く瞬間まで少女の手を握っていた。握っていたのだ。しかし、しかし少女は消えた。
――ならば。
――ならば今、私は何の手を握っていたのだろう。
それで肌が痛いほどに総毛立ち、洞主は弾かれたように来た道を引き返した。
しかし後から、二柱の神に送り届けられた少女は平然と名を得て、また死後の世界……黄泉国から連れ帰ったように、龍の子を腕に巻いていた。そして自身の言いつけどおり、中で何があったか、決して語ろうとはしなかった。
夜――奥社の一角に神依の声が響く。
藍の宵闇の中、篝火を灯され夕色に浮かぶひとつの社殿。その上座に二柱の神を据え、下には洞主と大兄、そして身なりを整えた神依とその僕たちの姿があった。
そして日嗣はその前で、
「私が司る祭祀にて、その娘を取り立てる」
と唐突に、だが決定事項であるかのように宣下したのだ。
「孫。それってあの、頭を落とした蛟のヤツか?」
「ああ」
洞主らの手前、友とはいえ上段に並ぶことをわきまえ、段差で気任せに座っていた猿彦までもが意外そうに日嗣を見遣る。
残された者たちも顔を見合わせ、まず大兄が一礼と共に口を開いた。
「お――恐れながら、御令孫。それはあまりにも……彼女はまだ巫女としては……」
「すでに選定を終え名も下っておろう。何か問題でも?」
「……いえ。一介の禊ごときが……出過ぎた真似をいたしました。申し訳ありません」
夕から立て続けに起きている異例の出来事に、大兄は気ばかり焦らせていた玉衣に代わってやりたかったのだが……それは敢えなく一蹴される。
(やはり俺では相手にもされぬか……)
それは絶対に禊が越えることのできない隔たり。 例えば目の前の男は、取っ組み合いになるような勝負ならば絶対に自分が勝つ自信がある見映え、体躯の若造だというのに――やはり人と神の差か、こういうとき、こういう場面での存在感は尋常ではない。
おそらく――美しすぎるのだ。顔に落ちる髪の影の中で光る瞳は夜鳥のようで、微動だにしない表情は氷のようだった。傍らに伴う異形の神と比べると、身にまとう空気までもが刃のように思えてくる。迂闊に手を伸ばそうものなら、肉の筋一本まで形を崩すことなく断たれそうな気がする。触れがたい美しさ。
いや、そうでなくとも……この鋭利な男を前に据えると、どうしてだか人は皆頭を下げて、謝辞の言葉を述べたくなってしまうのだ。
そしてその間、洞主は洞主でどのような会話がなされているか頭の端に聞き入れながらも、先に起きた一連の出来事を頭の中で反芻していた。
(御令孫の急なお召しといい、一体何が起きているというのか……。……さっぱりわからない……)
――あのとき――あの暗がりの中。
***
あのとき、あの暗がりの中。
やけに静かだとは思った。
洞主の知る少女は、怖がりで人見知りで知りたがり。だから暗闇と未知の世界に恐怖して、慣れた自分にはいろいろ問うてくれるのだろうと思っていた。
しかし少女は場の雰囲気に呑まれたのか、黙りこくったまま後ろをついてくるのみ。
語ってはいけないと、脅し過ぎてしまっただろうか。
けれども向かう先は神々に取っては穢れも同じ。一度祓の儀こそ行えど、巫女がそこに降りることを知ればそれだけで忌み嫌う男神も出てくるだろう。
だから絶対に、語ってはいけない。神々に愛されない巫女は孤独なのだ。
それでも巫女をそこに連れていくのは……彼女たちすべてに子を生む可能性があるから。
この奥社の最深奥、湧き水と苔に侵された暗い石室の祭殿。
そこに祀られているのは、原初の女神――この世界を創り、あらゆる神を生み、しかしそれが原因で命を落とし、その死という穢れによって愛する背と悲惨な決別をした女神だった。
だから、女はもっとも死に近い場所で生を育むということを知らなければならない。洞主たる自分は、どれだけ穢れが忌まわしく避けなければならないものか、語らなければならない。
そして、この夫婦神にとっては望まぬ存在であったであろう水蛭子から、巫女へ……もう一度生まれ変わる体で、女神より名をいただくのだ。
「……」
いや――やはり体裁という言い方はふさわしくはないのかもしれない。
かつては自ら、時の洞主に手を引かれてやってきた。だからこそ理解できる感覚。
その巫女としての名は、祭壇に張られた水鏡に墨を落としたように浮かび、それを得た瞬間の自分はたしかに――何かが神から降されたような、そんな気がしたのだ。そして本当に生まれ変わったかのように、頭の中で自然に巫女の役目も認識していた。
――淡島の巫女の役目。
「……」
洞主はひとつ溜め息を吐き、先を見つめる。
――淡島の巫女は神々に信仰を捧げ、歌舞にてその御霊を慰め……心を寄り添わせては身を捧げ、契りを結ぶ。
(……そう申せば、聞こえはいいが)
名をもらい、後から別の神にその由来を聞いては素直に喜び、可愛らしく玉や衣をねだった無知な少女はもういない。それに媚び、あらゆる神々に身を任せた若い娘はもういない。それを誇り、他の巫女から嫉妬された女はもういない。
彼らは本当の愛などくれはしなかったのだ。
そしてその間違った交わりの末に神など生まれようはずもない。そうやって何人もの子を海に流して、娘はやがて変わっていった。
……時折響く水滴に、少女が怯えたように手を握り直し、袖間近に身を寄せる。
(この子もきっといつか、そうなるのだろう……)
洞主はここに来る度にそれを憂い、加えて今手を引く子はもしかしたら自分の子かもしれないと……思う度に切なくて、やるせなくなる。
そういえばこの子は、まだ無垢であった頃の自分にどこか似ている。彼女の目にはあらゆるものが美しく見えて、優しく見えて、それを受け入れるまま疑いもしない。
また禊のあり方も似ている。大切なことは何一つ告げずにひたすらに献身的で、目に見えない優しい圧力で押し潰そうとする。
もしもともに時を重ねることができたなら、他の巫女とは違う、禊とも違う――良き理解者になってもらいたいと思うのだが……。
――と、そこまで思ったとき、前方に祭壇の間の灯りが見えてきて洞主はほっとして体の力を抜いた。
やはり生ある者として、そこに向かう道筋の恐怖や緊張はぬぐい切れないのだ。
暗闇の中、無事に辿り着けたと気が緩んで洞主は笑みながら少女に振り向き、
「――怖がらせてしまったかえ? でももうすぐに……、……?」
謝罪の意も込め殊更に明るい声をかけたのだが、少女はもうそこにはおらず……ただ一人、自分だけが暗闇に立ち尽くすのみになっていた。
「――…!?」
それを脳が理解した瞬間、身体中の血が凍りついたような心地になって肌が一瞬で粟立つ。
少女がいたはずの空間は、今やぽっかりと口を開けるだけの暗闇になっていて……洞主にはそれが涎を啜りながら舌なめずりしているように見えて、動いたらその汚ならしい歯と舌が襲いかかってくる気がして、微動だにできなくなった。
(――そんな――そんなはずはない)
かろうじて働く思考で、目だけを動かし暗闇を見渡す。
そう、そんなはずはないのだ。だって自分は、振り向く瞬間まで少女の手を握っていた。握っていたのだ。しかし、しかし少女は消えた。
――ならば。
――ならば今、私は何の手を握っていたのだろう。
それで肌が痛いほどに総毛立ち、洞主は弾かれたように来た道を引き返した。
しかし後から、二柱の神に送り届けられた少女は平然と名を得て、また死後の世界……黄泉国から連れ帰ったように、龍の子を腕に巻いていた。そして自身の言いつけどおり、中で何があったか、決して語ろうとはしなかった。
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