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第8章 穂向け
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日嗣は神依の歩幅に合わせ、また深夜ということもあってかゆったりと歩んでくれた。
月と星の光が今の二人を導いてくれるもの。足元の水晶も、そんな小さな光の一つだった。
(あのときみたい……)
洞主に手を引かれ、地の底に降ったときのことを思い出す。そして神依はそのときと同じように何も語らず、また日嗣も口を閉ざしたままだった。
日嗣がなぜなにも語らないのかはわからなかったが……傍らで何を喋ったらいいのか、神依にはまだわからなかった。
例えば日嗣自身が秘めた過去。それを彼が知らないところで視てしまったことを、本人に告げるべきなのか告げないべきなのか……考えれば考えるほどにわからなくなる。
そんな、日嗣に対する後ろめたさや姉妹神に対する罪悪感、女としての罪悪感が、神依の幼い心にはびこっていた。いっそそんなもの自分には関係ないと高らかに宣言できたらどれだけ楽だったろう。そしてそれができないのならば、お前の心は芯から男に溺れていないのだとも別の神依が責める。
(だけど……)
だけどもそれなら、日嗣には今までだって何度でも赦される機会があったはずだ。
女性としても巫女としても、自分より魅力的な人はたくさんいた。自分よりずっと素直で、羨ましいくらい率直で、過去を気にせず愛を訴えた女性もたくさんいた。
それを求めているなら、日嗣には今までだって何度でも……それを受け入れ、自分より遥かに優れた巫女と幸せになる道があったはずなのだ。しかし日嗣はそれをしなかった。
(じゃあ……わたしは日嗣様に、何をしてあげればいい?)
人間としても、巫女としても、女としても……何もかも中途半端で、日嗣を赦し受け入れることも、責めて拒絶することもできない。
それなのに、こうして一緒に歩む時間はとても嬉しくて、ちょっと恥ずかしくて……歯がゆい気持ちでいっぱいになる。こういう時間がなくなってしまうことを、想像しただけで悲しい気持ちになる。
そしてだからこそ、混ざり合った感情から何を拾い上げていいのか神依にはまだわからない。
「……」
そんなふうに、互いに手のぬくもりだけを頼りにやって来たのは、進貢の広場だった。
「な……」
「……」
しかしそれを一目見た神依は唖然として、入口から一歩も歩けなくなってしまう。一体ここで、何が起きたのか――広場とはいえそこは、わずかばかりの陸地を残し網状に川が流れる、水の森へと変貌を遂げていた。
石畳の残骸と土、水晶を沈めた川には白い花を付けて萌ゆる水草。爛漫に咲き誇っていた花や生い茂っていた木々も今はその水から成り……太い根や枝々が複雑に絡まって、水筋を繋ぐ橋となっていた。
森にたゆたうのは、心地よい水の音と若い緑の香りだけ。
そしてぐるりと広場を見渡した神依は、その一角が明らかに変貌していることに気付く。
それは自分が舞うために立った場所。蛟を祭るはずの池のあった、その場所だった。
「神依」
「は……はい」
日嗣は平らかな根を選びながらそちらへ神依を導く。その根を渡り、浅い川を歩き。葉をくぐり抜け視界が一気に開けると、大きさを増し、おおいに様変わりしたあの池が目の前に広がった。
池の周りにはいっそう若々しい木々が生い茂り、底には星と水晶が敷き詰められ、その明かりが周囲の色をわずかに戻している。地は細い川に侵食されながらも進貢の広場の名残であった石畳がほんの少し残っており……その隙間からは雑草ではなく、青々とした、まだ若い稲穂が点々と伸びていた。
「……」
神依は何も言わず長く息を吐く。そして沈黙の中で、ある楽の音を聞いた。
「――鈴の音がする」
「……ああ」
水が揺らぐたび、しゃらん……と穏やかな鈴の音がかすかに聞こえる。それが何かわかったとき、ああ、と神依の口から息が漏れた。
そして瞬きのときをおいて、それに誘われるように水面が盛り上がる。
「え?」
「神依」
驚いて後ずさる神依の肩を日嗣が後ろで抱き留め、静かに大丈夫だと空気で諭す。二人の前でうねる、幾重にも繋がる白銀の鱗と白い腹。それはやがて伸びやかに、一本の柱として神依の前に姿を見せた。
「――あなたは……」
立派な角に長い髭。黒い瞳だけは変わらない。腕に巻きついていた子龍は驚いたように神依と日嗣の体の隙間に隠れ、それを見た巨龍はやわらかく目を細めた。
『……』
龍はそのまま、神依程度なら呑み干せるほどの頭を、親愛を示すように下げる。それで神依もまた、その大きな頭を両手で優しく抱いて頬を寄せた。
「……わたしのこと、覚えていてくれてありがとう」
『我が咎なれば……無論。あの足も立たぬ小さき神の雛が……今はもはや我が母ともなり目の前にあるとは、何とも慶ばしい』
「お母さん……、わたしが……?」
頷く龍に、神依は心の奥――もっともっと深いところで、喜びがあふれるのを感じた。そんなふうに言ってもらえるなんて、思わなかった。
ただほんの少し恥ずかしくてむず痒いのは……多分、日嗣を父と思う龍の心が伝わってきたからだ。
それを表すように、ふと鱗をなでる手を止めた神依の後を引き継ぎ、日嗣の手が龍の頬をなでる。
龍はその穏やかな瞳に二人を映し、その満ちた魂をなお幸福に浸した。末はどうなるかわからぬが……今ばかりはまだ青く、幼い父母。初々しい。
「――そうだ。あなたはどんな名前をもらったの?」
『斎水別神と。以後千年、私はこの森の神として水を絶やすことなく、またあらゆる水に関する災禍を遠ざけて御覧に入れます』
「綺麗な名前……川の神様の名前なんだね。この子もいつか、あなたのように立派な神様になってくれたらいいんだけど。まだいたずらっ子なの」
神依はいまだ背に張り付く子龍を見せようと横を向く。すると子龍は慌てて龍とは反対側の腕に巻きつき、おっかなびっくり顔を出した。
龍はじっとそれを見つめ、やがて口を開く。
『このチ龍はいずこで?』
「八衢で、迷子になっていたみたいなの……。あ……もしかして、同じ群れの子とか……?」
『いえ。しかし……このチ龍には、何かうろのようなものを感じる』
「――うろ?」
応えたのは日嗣だった。何か良くないものならば、神依の――もっと言うならば、淡島に置いておくわけにもいかない。
しかし龍は穏やかに、その首を横に揺らした。
『害を及ぼすものではないかと。魂自体が生まれて日が浅く、現世よりも常世に近いか……あるいは根の国に至り生まれ変わるまで、満たされぬ境遇の魂だったのか。いずれにせよ、どうかそのうろが満つるほどの深き慈愛を』
「そう……わかった。この子はもう大事な家族なの。……さっきは怒ってごめんね」
「……」
神依が指先でくすぐってやれば、子龍は嬉しそうな声で鳴き、もう何でもないように龍の大きな鼻先に乗り移った。日嗣もそれを見て、何の含みもなかったかとひとまずは安心する。
しかし次に龍が発した言葉に、二人は今度こそ耳を疑った。
『よろしければ、あなた方もお乗りになりますか』
「……えっ!?」
『乾坤――天と地の境界は我らには無きも同じ』
そうして龍は、言うなり胴をしならせ二人を拐うと天に昇り、その勢いのまま雲海に飛び込んだ。
***
その衝撃に神依が悲鳴を上げたのも束の間――神依を風圧からかばうように体を被せていた日嗣は、角の方から転がってきた子龍を受け止め、髪や肌に感じる風が落ち着いたのを感じると、うずくまるように龍の背にすがりついている少女を抱き起こした。
「見ろ、神依――」
神依はまだ状況が理解できていないのか一瞬驚いたように日嗣を見上げたが、次の瞬間には視界を滑る星の光に歓声を上げる。
「日嗣様――すごい、すごいっ!! わたしたち、空を飛んでる!! すごい!!」
「ああ――」
あまりに無邪気にそれを訴える神依に日嗣は思わず笑みをこぼす。
御霊祭のとき、神憑った神依はすでにそれをなしていた。そして猿彦がそうであったように、神たる日嗣にもまた浮くほどは造作もないことなのだが、しかし――まさか龍の背に乗ることになるとは思いもしなかった。
龍は言葉どおり自らが天を奔る箒星の如く、風の星空も水の星空もそのすべてを游いでみせる。
星屑をかきわけ、星野を流れ――。
時折島と島の間を通り過ぎ、神依が行ったことのない場所を見せてくれることもあった。村がいくつもあった。広大な棚田や畑があった。神依の知らない人たちが生きる、知らない場所。
見たことのある場所もあった。白い鳥居が連と列なる道、猿彦が釣竿を垂らしていた岩の台、奥社の奥の奥……地の底に続く、長い長い回廊。空から見たらそのどれもがちっぽけで、けれど胸の奥には熱くてたまらないものが込み上げてきた。
(ああ――)
帰ってきてよかった、と神依は心の奥深くで思う。初めて思った。
辛いこともあった。でも優しい人もたくさんいた。この世界に来て初めて触れてくれた人が、初めて声をかけてくれた人が、初めて側にいてくれた人たちが、優しい人で本当に幸いだった。
こんなにも綺麗で、こんなにも広く、こんなにも暗く、こんなにも温かみのある場所ならば……帰ってきてよかった。
この世界は、剥き出しの心そのものだった。だからずっと、長く長く描かれてきた――。
「信じられない――夢みたい!」
「ならば明日は一緒に寝坊だ」
「ふふ、そしたら今度は禊のお説教ですよ。日嗣様のお祖母様より長いかも」
「それは……勘弁だな」
神依は子龍を抱き、日嗣はそんな神依の肩を抱く。
それが、落ちないようにとか風から庇うためとか、そんな万人に与えられる優しさでも。
神依にはそれでもよかった。
恐ろしいほどに冷たく美しかった星海も、二人なら怖くない。すう、と自然に体から力が抜けた。
そしてそれを感じた日嗣もまた……もう少しだけ、その小さな体を抱き寄せる。
その遠慮がちな仕草とぎこちなさは、日嗣の喜びと不安の表れだった。ただ今だけはと、歪な心がそのやわらかさを求める。
先程月読が言ったことが少しわかったような気がした。ただ、やはり自分と大叔父は違う。手で弄んで壊してしまうのは怖い。けれど見ているだけでは耐えられない――。
欲しいのに、触れられない。精巧で華奢な、硝子細工を扱うような心地だった。
その壊れそうな雰囲気の中で神依は思う。
(今は……ふたりぼっちだ)
これはきっと、誰にも言ってはいけない時間。嬉しくて、切なくて、不安で、幸せで。誰にも祝福されない、自分たちだけが特別な時間。
それを何と呼ぶのか、しかし神依は口にはしなかった。それを口にすれば、色褪せた水滴になって消えてしまうような気がした。
それが甘えでも、わがままでも……。今だけは……綺麗なまま、小さな心の小箱にしまっておきたかった。
いつか時がきたら。この大きな手に、優しく開けてもらいたかった。
「……」
龍はそんな二人を背に、気の赴くまま伸びやかに雲海を……沫のように儚く美しい世界を巡ると、やがて見慣れた、小さな家のある小島の脇に流れ着いた。
月と星の光が今の二人を導いてくれるもの。足元の水晶も、そんな小さな光の一つだった。
(あのときみたい……)
洞主に手を引かれ、地の底に降ったときのことを思い出す。そして神依はそのときと同じように何も語らず、また日嗣も口を閉ざしたままだった。
日嗣がなぜなにも語らないのかはわからなかったが……傍らで何を喋ったらいいのか、神依にはまだわからなかった。
例えば日嗣自身が秘めた過去。それを彼が知らないところで視てしまったことを、本人に告げるべきなのか告げないべきなのか……考えれば考えるほどにわからなくなる。
そんな、日嗣に対する後ろめたさや姉妹神に対する罪悪感、女としての罪悪感が、神依の幼い心にはびこっていた。いっそそんなもの自分には関係ないと高らかに宣言できたらどれだけ楽だったろう。そしてそれができないのならば、お前の心は芯から男に溺れていないのだとも別の神依が責める。
(だけど……)
だけどもそれなら、日嗣には今までだって何度でも赦される機会があったはずだ。
女性としても巫女としても、自分より魅力的な人はたくさんいた。自分よりずっと素直で、羨ましいくらい率直で、過去を気にせず愛を訴えた女性もたくさんいた。
それを求めているなら、日嗣には今までだって何度でも……それを受け入れ、自分より遥かに優れた巫女と幸せになる道があったはずなのだ。しかし日嗣はそれをしなかった。
(じゃあ……わたしは日嗣様に、何をしてあげればいい?)
人間としても、巫女としても、女としても……何もかも中途半端で、日嗣を赦し受け入れることも、責めて拒絶することもできない。
それなのに、こうして一緒に歩む時間はとても嬉しくて、ちょっと恥ずかしくて……歯がゆい気持ちでいっぱいになる。こういう時間がなくなってしまうことを、想像しただけで悲しい気持ちになる。
そしてだからこそ、混ざり合った感情から何を拾い上げていいのか神依にはまだわからない。
「……」
そんなふうに、互いに手のぬくもりだけを頼りにやって来たのは、進貢の広場だった。
「な……」
「……」
しかしそれを一目見た神依は唖然として、入口から一歩も歩けなくなってしまう。一体ここで、何が起きたのか――広場とはいえそこは、わずかばかりの陸地を残し網状に川が流れる、水の森へと変貌を遂げていた。
石畳の残骸と土、水晶を沈めた川には白い花を付けて萌ゆる水草。爛漫に咲き誇っていた花や生い茂っていた木々も今はその水から成り……太い根や枝々が複雑に絡まって、水筋を繋ぐ橋となっていた。
森にたゆたうのは、心地よい水の音と若い緑の香りだけ。
そしてぐるりと広場を見渡した神依は、その一角が明らかに変貌していることに気付く。
それは自分が舞うために立った場所。蛟を祭るはずの池のあった、その場所だった。
「神依」
「は……はい」
日嗣は平らかな根を選びながらそちらへ神依を導く。その根を渡り、浅い川を歩き。葉をくぐり抜け視界が一気に開けると、大きさを増し、おおいに様変わりしたあの池が目の前に広がった。
池の周りにはいっそう若々しい木々が生い茂り、底には星と水晶が敷き詰められ、その明かりが周囲の色をわずかに戻している。地は細い川に侵食されながらも進貢の広場の名残であった石畳がほんの少し残っており……その隙間からは雑草ではなく、青々とした、まだ若い稲穂が点々と伸びていた。
「……」
神依は何も言わず長く息を吐く。そして沈黙の中で、ある楽の音を聞いた。
「――鈴の音がする」
「……ああ」
水が揺らぐたび、しゃらん……と穏やかな鈴の音がかすかに聞こえる。それが何かわかったとき、ああ、と神依の口から息が漏れた。
そして瞬きのときをおいて、それに誘われるように水面が盛り上がる。
「え?」
「神依」
驚いて後ずさる神依の肩を日嗣が後ろで抱き留め、静かに大丈夫だと空気で諭す。二人の前でうねる、幾重にも繋がる白銀の鱗と白い腹。それはやがて伸びやかに、一本の柱として神依の前に姿を見せた。
「――あなたは……」
立派な角に長い髭。黒い瞳だけは変わらない。腕に巻きついていた子龍は驚いたように神依と日嗣の体の隙間に隠れ、それを見た巨龍はやわらかく目を細めた。
『……』
龍はそのまま、神依程度なら呑み干せるほどの頭を、親愛を示すように下げる。それで神依もまた、その大きな頭を両手で優しく抱いて頬を寄せた。
「……わたしのこと、覚えていてくれてありがとう」
『我が咎なれば……無論。あの足も立たぬ小さき神の雛が……今はもはや我が母ともなり目の前にあるとは、何とも慶ばしい』
「お母さん……、わたしが……?」
頷く龍に、神依は心の奥――もっともっと深いところで、喜びがあふれるのを感じた。そんなふうに言ってもらえるなんて、思わなかった。
ただほんの少し恥ずかしくてむず痒いのは……多分、日嗣を父と思う龍の心が伝わってきたからだ。
それを表すように、ふと鱗をなでる手を止めた神依の後を引き継ぎ、日嗣の手が龍の頬をなでる。
龍はその穏やかな瞳に二人を映し、その満ちた魂をなお幸福に浸した。末はどうなるかわからぬが……今ばかりはまだ青く、幼い父母。初々しい。
「――そうだ。あなたはどんな名前をもらったの?」
『斎水別神と。以後千年、私はこの森の神として水を絶やすことなく、またあらゆる水に関する災禍を遠ざけて御覧に入れます』
「綺麗な名前……川の神様の名前なんだね。この子もいつか、あなたのように立派な神様になってくれたらいいんだけど。まだいたずらっ子なの」
神依はいまだ背に張り付く子龍を見せようと横を向く。すると子龍は慌てて龍とは反対側の腕に巻きつき、おっかなびっくり顔を出した。
龍はじっとそれを見つめ、やがて口を開く。
『このチ龍はいずこで?』
「八衢で、迷子になっていたみたいなの……。あ……もしかして、同じ群れの子とか……?」
『いえ。しかし……このチ龍には、何かうろのようなものを感じる』
「――うろ?」
応えたのは日嗣だった。何か良くないものならば、神依の――もっと言うならば、淡島に置いておくわけにもいかない。
しかし龍は穏やかに、その首を横に揺らした。
『害を及ぼすものではないかと。魂自体が生まれて日が浅く、現世よりも常世に近いか……あるいは根の国に至り生まれ変わるまで、満たされぬ境遇の魂だったのか。いずれにせよ、どうかそのうろが満つるほどの深き慈愛を』
「そう……わかった。この子はもう大事な家族なの。……さっきは怒ってごめんね」
「……」
神依が指先でくすぐってやれば、子龍は嬉しそうな声で鳴き、もう何でもないように龍の大きな鼻先に乗り移った。日嗣もそれを見て、何の含みもなかったかとひとまずは安心する。
しかし次に龍が発した言葉に、二人は今度こそ耳を疑った。
『よろしければ、あなた方もお乗りになりますか』
「……えっ!?」
『乾坤――天と地の境界は我らには無きも同じ』
そうして龍は、言うなり胴をしならせ二人を拐うと天に昇り、その勢いのまま雲海に飛び込んだ。
***
その衝撃に神依が悲鳴を上げたのも束の間――神依を風圧からかばうように体を被せていた日嗣は、角の方から転がってきた子龍を受け止め、髪や肌に感じる風が落ち着いたのを感じると、うずくまるように龍の背にすがりついている少女を抱き起こした。
「見ろ、神依――」
神依はまだ状況が理解できていないのか一瞬驚いたように日嗣を見上げたが、次の瞬間には視界を滑る星の光に歓声を上げる。
「日嗣様――すごい、すごいっ!! わたしたち、空を飛んでる!! すごい!!」
「ああ――」
あまりに無邪気にそれを訴える神依に日嗣は思わず笑みをこぼす。
御霊祭のとき、神憑った神依はすでにそれをなしていた。そして猿彦がそうであったように、神たる日嗣にもまた浮くほどは造作もないことなのだが、しかし――まさか龍の背に乗ることになるとは思いもしなかった。
龍は言葉どおり自らが天を奔る箒星の如く、風の星空も水の星空もそのすべてを游いでみせる。
星屑をかきわけ、星野を流れ――。
時折島と島の間を通り過ぎ、神依が行ったことのない場所を見せてくれることもあった。村がいくつもあった。広大な棚田や畑があった。神依の知らない人たちが生きる、知らない場所。
見たことのある場所もあった。白い鳥居が連と列なる道、猿彦が釣竿を垂らしていた岩の台、奥社の奥の奥……地の底に続く、長い長い回廊。空から見たらそのどれもがちっぽけで、けれど胸の奥には熱くてたまらないものが込み上げてきた。
(ああ――)
帰ってきてよかった、と神依は心の奥深くで思う。初めて思った。
辛いこともあった。でも優しい人もたくさんいた。この世界に来て初めて触れてくれた人が、初めて声をかけてくれた人が、初めて側にいてくれた人たちが、優しい人で本当に幸いだった。
こんなにも綺麗で、こんなにも広く、こんなにも暗く、こんなにも温かみのある場所ならば……帰ってきてよかった。
この世界は、剥き出しの心そのものだった。だからずっと、長く長く描かれてきた――。
「信じられない――夢みたい!」
「ならば明日は一緒に寝坊だ」
「ふふ、そしたら今度は禊のお説教ですよ。日嗣様のお祖母様より長いかも」
「それは……勘弁だな」
神依は子龍を抱き、日嗣はそんな神依の肩を抱く。
それが、落ちないようにとか風から庇うためとか、そんな万人に与えられる優しさでも。
神依にはそれでもよかった。
恐ろしいほどに冷たく美しかった星海も、二人なら怖くない。すう、と自然に体から力が抜けた。
そしてそれを感じた日嗣もまた……もう少しだけ、その小さな体を抱き寄せる。
その遠慮がちな仕草とぎこちなさは、日嗣の喜びと不安の表れだった。ただ今だけはと、歪な心がそのやわらかさを求める。
先程月読が言ったことが少しわかったような気がした。ただ、やはり自分と大叔父は違う。手で弄んで壊してしまうのは怖い。けれど見ているだけでは耐えられない――。
欲しいのに、触れられない。精巧で華奢な、硝子細工を扱うような心地だった。
その壊れそうな雰囲気の中で神依は思う。
(今は……ふたりぼっちだ)
これはきっと、誰にも言ってはいけない時間。嬉しくて、切なくて、不安で、幸せで。誰にも祝福されない、自分たちだけが特別な時間。
それを何と呼ぶのか、しかし神依は口にはしなかった。それを口にすれば、色褪せた水滴になって消えてしまうような気がした。
それが甘えでも、わがままでも……。今だけは……綺麗なまま、小さな心の小箱にしまっておきたかった。
いつか時がきたら。この大きな手に、優しく開けてもらいたかった。
「……」
龍はそんな二人を背に、気の赴くまま伸びやかに雲海を……沫のように儚く美しい世界を巡ると、やがて見慣れた、小さな家のある小島の脇に流れ着いた。
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