帝国騎士物語

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アーサーの章

第四話:憧憬のパーシヴァル(1)

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「はぁ」

 たまらずため息を漏らすアーサー。昨日と同じ陽気な朝の空気を桟橋で感じながら、彼は無造作に垂れ下がる釣り糸の先を見ていた。風が少しつよいようで、立った波が浮きをせわしなく上下させている。

 しかし彼が悩んでいるのは釣果に関してでは無い。隣に置かれたバケツは半分程まで満たされている。

(なんて書けば良いんだ)

 思いを馳せていたのは返事の手紙の事だった。エリスが帝国から来訪するらしいのだが、昨日のような明らかに歓迎されていない状況を知らせない訳にはいかない。しかし知らせるとしてもありのままを伝えるのも得策では無い。

(心配、かけたくないしなぁ)

 アーサーはエリスを思い浮かべる。

 今年で十八になったアーサーの三歳下であるエリスは十年以上も君主として皇帝に仕え、その小さい背中に国と、民の期待を背負っている。その間ずっと側近として支えてきたアーサーは騎士の中でもエリスに年が近いこともあり、実の兄のように接してきた。

 エリスの負担を横目に自分を律してきた身としては、現状を伝えるという選択も、そもそも会わないという選択も採れなかった。戦争が終わってから一度も顔を見せずに居ることが、アーサー自身の心にもささくれのような取っかかりを残しているのだ。

 だがそれよりも彼を渋らせている理由は、もう一つのささくれだった。

(もしエリスが来たら、僕が、騎士だったことが知られるだろうな)

 脳裏に浮かぶあの光景。

 毎夜の眠りを妨げる、戦争の残滓。

 燭台の明かりが血を照らす一室で「助けて」と泣きながら息絶えていく仲間達の姿。

 アーサーはたまらず息を吸う。背筋を伸ばし、竿を握る力を強めた。

『バサバサバサ!』

 ふと背後で鳥の羽ばたく音が聞こえる。

 やけに慌ただしい様子にたまらず振り返ったアーサー。張っていたアーサーの気がその光景を鮮明に脳へ落とし込んだ。

 約十メートルほど後方。桟橋を降りて家の脇の干物が並ぶござの上。虫除けの網を突き破って、獲物を咥えた大きな鳥が翼を広げている。

 もうすでに上空へ向けて一羽が飛び立っていた。

 反射的にアーサーは動き始める。手にしていた釣り竿を投げ捨て、地上の一羽をつかむために手が必要な構えをとった。

 そして上体を低くしたまま、腰から足の裏にかけての全てを駆使し走り出す。正確にはその動作は、走り出すと言うよりも先ほどまで座っていた場所からはじき出されるような、地面を蹴って平行に飛び出す動きだった。

 木の板が砕ける音と同時に、アーサーと鳥との距離が無くなり大きく開かれた翼の下から胴体をつかむ。自由を失いながらも執念深く干物を放さず、翼でアーサーを打つ。

「……!」

 干物を落とさせようと四苦八苦するアーサーを、音に驚きつつも、つがいを助けようと懸命についばんでくるもう一羽の鳥。

 衝動的に駆けだしたアーサーだが、彼等の、必死に仲間を助けようとする姿に思わず手を放した。二羽は干物を落とし、命からがらと言った様子で飛び上がる。

 なんとなくアーサーは、鳥が持ち去ろうとして落とした干物を拾い上げ、未練ありげに腹を空かせてとどまっているのであろう彼等へ向けて高く放り投げた。

「ごめん、いいよ。どうせ誰にあげるわけでもないし」

 鳥は器用にそれを発達したかぎ爪で受け取り、林の方へと逃げていった。やがて葉を降らす音も聞こえなくなった頃、アーサーは肩を落としながら静かに笑った。

 そういえば、とアーサーは思い返す。

「籠、置いてきちゃったな」

 干物を配った帰り道に、村の中でも数少ない、よくしてもらっている店屋の店主から食料を買い込み、籠に詰めて帰ろうとしていたアーサーの計画が崩れてしまったことを今更悔やみながら、まぁ今日も魚で良いか、と自嘲気味に桟橋の方へと首を傾ける。

 だがしかし桟橋はアーサーが先ほどまで見ていた光景とは異なり、踏み砕かれたことによって半壊している上、バケツはひっくり返ったまま投げ出した釣り竿と共に水の上を漂っている。

 心ここにあらず状態の際の、予期せぬ鳥たちの襲撃の結果にアーサーは声にならない悲鳴を上げながら海へと飛び込んだ。




 暖かいとはいえ、びしょ濡れになれば流石に寒気が全身を突き刺す昼前。火をくべた暖炉で服と釣り竿、そして己が身を乾かすアーサー。パチパチと火花を散らす優雅とは言いがたくも心安らぐ暖かさに、しかしアーサーはため息をつきながら、彼の右手に握られた木製ジョッキを見下ろす。そこにはなみなみと注がれた黄金色の発泡酒が。

 飲み水が底をついていたという事実は、買い込む予定だったはずの食料も、手癖で収集した魚も失ってしまい、満ち足りているとは口が裂けても言えない状況のアーサーに更に追い打ちをかけた。

 普段なら村に降りて井戸からくみ上げさせてもらっていたところだが、昨日の今日でそれを実行する胆力はアーサーには無かった。喉の渇きに限界を迎えたアーサーは仕方なく、この家を建てたという、昔に退去した人々が残したビールの樽を開封したのだ。

 恐る恐る匂いを嗅ぐアーサー。ツンと鼻を駆け抜ける異様な匂い。ビールの香り付けに使用される複数のハーブの集合体、グルートの独特の香り。アーサーにとってはその香りは決して良いものでは無かったようで、たまらず顔をしかめる。

 とはいえ、水分を前にして喉の渇きには耐えがたい。

 意を決して、どうせならば味わう前に、と一気にアーサーはジョッキを傾ける。嚥下した喉を焼くアルコールと猛烈な苦み。数年前、十五歳の大人の儀式で飲まされた酒の記憶がよみがえってくる。

 空き腹に何度もビールを流し込んだアーサーは、火照る身体ともやがかかる思考の微睡みに絆され、緩やかに意識を手放してしまった。

「…………」

「……………………」

「………………………………」

 はっと、目を覚ますアーサー。眠ってから起きるまでは一瞬だったのだろう。時間が余り経っていないのは、未だ残る身体を熱さでなんとなく理解できた。

 それよりも、だ。

微睡みから覚醒したアーサーには、とてつもなく大きなインパクトが突きつけられていた。机で突っ伏したまま眠っているアーサーの眼前に、それはそれは綺麗な、月並みな言葉で形容するならば、まるで吸い込まれてしまいそうな翡翠色の瞳がそこにはあった。

 瞳の主と暫く見つめ合う。アーサーはパチパチと瞬きするその双眸に、驚きや反射的な反応も忘れて見とれてしまっていた。

 先に動いたのは瞳の主。小さな可愛らしい悲鳴を上げて、白黒のシスター服に身を包んだ艶やかな銀髪が美しい少女、リリィが机から距離を取る。

「ごごごごご、ごめんなさい! あの……その、扉をノックしてもお返事が無かったので……勝手に入ってしまってごめんなさい」

 ドギマギした様子で取り繕うリリィに、アーサーはなかなか出ない声を絞る。

「……全然、そんな、ありがとうございます」

 なんとか笑顔を作るアーサーにリリィは暫しの安堵の表情を見せたが、その顔はすぐに心配そうな様子へと変わる。一方でアーサーは、机の隅に置かれた籠が目に入った。

「あれ……これ、届けてくれたんですか?」

「はい、今日はこれをお届けに」

 明るい声色で応えるリリィだが、同時に、アーサーの声色から体調の悪さを確信する。

「あの、もしかして体調がよろしくないのでしょうか? 昨日のでお風邪を……」

 杞憂するリリィに、アーサーはうなりながら答える。

「心配しなくて大丈夫です。その……備蓄を切らしてしまって、腹に入るものがお酒か出来かけの塩辛い干物しかなくて……あんまりお酒が得意じゃ無いのを忘れてました」

「な、なるほど」

 病気でないなら良かった、と安堵するリリィ。火照って机に伸びるアーサーを見て微笑み、両手を後ろで組んでアーサーに上体を近づける。

「うふふ、私もお酒は苦手です。半年くらい前の十五歳の誕生日の時にぶどう酒をいただいたのですが、直ぐにダメになってしまって」

「へぇ、十五、なんですね。しっかりしてるのでもっと年上かと。僕なんて十八なのに、凄いですね」

 アーサーは少し驚き、心の中でエリスと同い年だ、などと考えながら口にする。そんなことないですよ、とはにかむリリィは、手をぽんと叩くとアーサーの籠を手に取った。

「あ、そうだ! よければこれからお買い物に行きませんか? 水もくみに行きましょう。お酒を飲んだ後はお水を飲まないと頭が痛くなるってジッタ村長から聞きました」

 突然の提案に、一瞬、思考が止まるアーサー。

「いや、いや……うーん、それはちょっと……昨日あんなことがあったばかりだし、リリィさんにも迷惑が……」

 まごつきながら、それらしい理由で渋るアーサーに、リリィは自分の胸をどんと叩いて見せた。

「大丈夫です! いざとなったら今度こそ私がなんとかして見せます!」

「え、えぇ~……」

 眉をハの字にした明らかに乗り気でなさそうなアーサー。

「それに、明日から何食べるんですかアーサーさん。またお酒飲むことになっちゃいますよ?」

 にっこりと笑って、アーサーの手を取るリリィ。

 リリィの手のぬくもりに慣れぬうちにアーサーはよろめきながらも立ち上がると、底抜けの優しさに勇気づけられ、眠る前に抱いていた自分の迷いなんて一瞬にして忘れてしまった。そして、思わず。

「分かっ……分かりました。じゃあ、お願いします」

「はい!」
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