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【第2部】7章 風と鳥の図書館

23話 どうか、ここにいてほしい

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 今日だけで向こう10年分くらい打ったんじゃないだろうかというくらいに、心臓が脈打っている。
 心臓の音どころか、自分の気持ちまで全部漏れ聞こえてしまいそうだ。
 だって今、彼に抱きしめられている。
 温かくて広い胸板がちょうどわたしの顔に当たる。伝わってくる彼の心臓の鼓動も速い。
 自分だけがドキドキしているんじゃないって、安心できるけれど。
 
『目を見たらこうやってもう離したくなくなってしまう』
 
 さっき言った通りに、彼はわたしを包んだ手を離さない。
 弱すぎず、強すぎず……ただ優しく、わたしを抱きしめる。
 彼がわたしを避けようとしていたと分かった時以上に頭が真っ白で、何も考えられない。言葉も出てこない。
 
 ……でも、それなら。
 
「……グレンさん」
 
 彼の背に手を回し、わたしも彼を抱きしめる。
 そうすると、彼はわたしを抱く手に少し力を込めた。
 ……不思議だ。さっきまで泣いて喚いて、胸が苦しいなんて思っていたのに、それが嘘みたいに晴れやかだ。
 時間が流れているのか止まっているのか、分からない。
 しばらく抱き合ったあと、彼がわたしから少し身を離した。
 ……名残惜しい。離さないでほしい。
 けれど、さっきと違って彼はわたしから目をそらさない。彼の灰色の瞳に、わたしが映っている。

「好きだ……レイチェル」
「グレンさん」
「何も考えたくないから、全て投げ出してしまいたかった。でも仲間と――レイチェルといると、どうしようもなく心を揺さぶられるんだ。……前に進む力をくれる」
「わたしは、何も……」
「レイチェルはさっき俺を普通の男だって言った。――今までそんな風に言われたことはなかったし、自分でも普通とは違うと思う。でも、嬉しい。本当だ。俺も……レイチェルの世界にいていいって思える」
 
「そんな悲しいこと言わないでください。いてもいいとかダメとか、世界がどうとか……勝手に、線を引かないで」
「……そうだな、うん」
「どこかに消えちゃったり、しないですよね」
「……ああ、しない」
「…………っ、うっ、ひっ……うううっ、わたし、わたし」

 彼の言葉を聞いた途端、またボロボロと涙が溢れる。わたしの眼は壊れてしまったのかな。

「それ、それが、聞きたくて、わたし……ひっ、うう……」
「そうか……悪かった」

 グレンさんが頬に手を当て涙を指で拭ってくれて、嬉しいけど、余計涙が出てしまう。

「うっ、うううう……」
「……そんなに泣かないでくれ」
「だって、だって、グレンさんの部屋、なんにもないんだもん」
「元々そんなに持たないから。趣味らしい趣味もないし」
「長く、ここに居るつもりないんだって思ってわたし、それで、それで」
「まあ、確かにそんな住み着くつもりは……って、おいおい、そんな……」
「いやだ……いやだよぉ……」
 
 もう、涙と嗚咽しか出てこない。情緒がおかしい。
 そんなわたしをグレンさんがまた抱きしめて、頭をなでてくれる。
 
「俺が悪かった……許してくれ」
「……グレンさん、どこにも、行かないで……」
「行かない。約束する」
「グレンさん、う、う……」
「……これからこんな風に泣かせてばかりになるかもしれない」
「そしたら……その都度、怒りますから」
「……怖いな」

 そう言って、グレンさんが少し笑う。

「好きだ、レイチェル。俺が普通の男だというなら、お前のそばにいたい。お前を思っていたい。……それが、許されるなら」
「許されるとか、そんな言い方いやです……」
「すまない。……愛してる。そばにいてくれ」
「はい……グレンさん、好きです……」
 
 彼が頬を手で包み込んでわたしを見つめる。
 もう、目を反らせない。
 灰色の瞳、サラサラの黒髪。長身で、力強い腕、大きな手。
 遠くから見ているだけだったのに、今はこんなに近い。ほんの数ヶ月しか経っていないのに、彼への気持ちも今は全くちがう。
 彼の顔が近づいてきて、唇が重なった。やっぱり胸はせつないけどそれ以上に嬉しくて胸が高鳴る。
 わたしはまた彼の腕に包まれ、わたしも彼の背に手を回す。温かくて、広くて大きい。この気持ちごと抱きしめられたようで涙があふれた。
 
 
 ◇
 
 
「じゃあ、俺はこれで」
「はい」

 グレンさんを玄関まで見送る。
 リビングからほんのちょっとの距離しかないけど、手をつないで歩いた。
 
「また、明日」
「はい……、あっ」
「ん?」
「あの……このことは、砦のみんなには、どう……」
「ああ、そうだな……どうしようか」
「グレンさんは、どう考えてますか」
「俺は別に」
「別に……?」
「知られても構わないというか、言いふらしたいというか」
「ええええっ」

 隠したいのかと勝手に思ってたらまさかの返答。グレンさんは少しニッと笑う。
 
「レイチェルが隠したいならそうするけど」
「あ、いえ、隠したいというわけでは」
「まあでもどうやっても態度でバレるだろう。レイチェルはそういうの下手そうだし」
「う、それは、そうです……」
 
「まあ、やりたいようにすればいい」
「……グレンさんは、態度に出たりはしないんですか」
「俺か? 俺は別に、普段どおりに」
「普段どおり……」
「なんで膨れるのか分からないが」
「だって、ふ、不公平です」
「不公平?」
「だって」

 わたしは未だにドキドキが止まらないのに、グレンさんの方はさっきまでの情熱的な彼はどこへやら、普段のクールでドライな雰囲気に戻ってしまった。

「グレンさん、なんか、冷静でサラッとしてるんだもん。わたしはその……じっ人生の一大事くらいの、ことなの、に――」

 その先を言うことができなかった。
 なんの前触れもなくキスで塞がれてしまったからだ。
 唇が離れた瞬間、彼はわたしの眼を見てフッと笑う。
 
「なっ、ななななな、何をいきなり、何を」

 顔がやかんになったみたいに熱い。熱が、熱がぶり返してきそう……!

「ああ。……かわいかったから」
「なっ、えええっ!?」

 何を言い出すの!?
 もうダメ心臓がどうにかなりそう。絶対に寿命が縮んでる……!
 
「別に冷静じゃない。ただ、ここ数日で最低な所を見せすぎてしまったから挽回しないと、とは思ってる。それにそんなにドロドロしてもいられない。色々足りない自覚はあるが、一応俺はレイチェルよりだいぶ年上の大人だしな」
「グレンさん」
「別に子供だと思ってるわけじゃないぞ」
「う……」

 一瞬ふっと頭によぎったことを見透かされてしまい、わたしはまた赤面してしまう。
 頬をずっと包んでいる彼の手のひらに、この熱さが伝わってるんじゃないだろう、か……っ?

「……っ!?」

 ぼやっとしてたらその手がわたしの顔を引き寄せ、また唇が重なる。
 そして抱きしめられ、頭をなでられた。
 
「それじゃあ、また明日」

 身を離したあとそう言って柔らかく微笑んで、彼は去っていった。
 途中一度振り向いて、呆然として立っているわたしに向けて手を振ってくれた。
 
「……っ、うそぉ……」

 彼が完全に見えなくなってから、わたしは顔を両手で覆い隠し座り込んだ。
 色々と信じられない、ありえない。
 
 ここ数日勝手にせつなくなって不安になって、好きな人相手に爆発して泣いて当たり散らして……そんな自分の嫌な一面を思い知ることになるなんて。
 それがきっかけなのか分からないけど彼の気持ちを知ることになって……まさか両思いになるなんて。
 顔がずっと熱い。熱に浮かされたわたしの見た夢なんじゃないかと思ってしまう。
 
 でも、彼に抱きすくめられた時の、キスした時のあの感覚、今でも残ってる。
 彼がわたしに想いを告白してくれた台詞だって、その時の声のトーンだって覚えている。
 全部現実なんだ。わたしへの気持ち、そして少し聞かせてくれた彼自身の過去の話も。わたしは少しでもそんな彼を支えられるのかな? 
 
 ああ、でも現状は何より……。
 グレンさんの変わりように、全く対応できないんですが……!
 嬉しいけどわたしの心臓この先大丈夫なのかな?
 明日、どんな顔でバイト行って顔を合わせればいいんだろ……。
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