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9章 壊れていく日常

2話 彼の心

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「あのー、グレンさん。わたし来週テストがありまして。勉強したいので今週末はお休みさせてください」
「分かった。あと、これ今月分」
「ありがとうございます」
 
 フランツが去って、その日の夕方。
 帰宅前にわたしは来週の予定を告げ、そして11月分の給料を受け取った。
 
 楽しい部活動みたいな気分でいつもいるから忘れがちだけど、わたしはアルバイトでグレンさんは雇い主。
 当然給料ももらっている。最初20万だったけど一時13万に、そしてジャミルが抜けて彼の仕事を一部引き継いだので給料がアップして、今は月に16万。
 土日にごはん作っておしゃべりして、園芸楽しんでラーメンとかおいしいもの食べて。
 しかもちょっとの時間とはいえ好きな人と好きな時間を過ごして、16万。
 
「やっぱりもらいすぎかなぁって思うんですよね……」
「そうか? でも最初より減ってしまっているぞ」
「そうですけど……なんだか堕落しそうで。なんなら半分くらいにしてもらっても……」
「堕落したレイチェルか。それはそれで見てみたいが」
「な、何言うんですかちょっと……」
 
 わたしがそう言うと、グレンさんは目を伏せて少し口角を上げる。
 
「まあ一応俺は雇用主だから、その辺のけじめはしっかりつけておかないとな」
「はぁ……けっこう真面目ですよね」
「そうか? ……ああ、真面目といえば。俺はそろそろ敬語と"さん"付けをやめてもらいたいんだが」
「え、急に何を……話が変わりすぎ――」
「急じゃないだろう、前も一回言ったし」
「い、言ってましたけど」
「レイチェルは俺にだけずっと敬語だ。俺が雇用主だから」
「そ、そういうわけでは」
「ああ……距離を感じる。寂しい……」
「あっ、またそんな言い方を……」
 
 憂いを帯びた瞳で斜め下を見るグレンさん。
 スキンシップが過多な時にたしなめると、彼はいつもこうやって儚げに「寂しい」と言うのだ。
 そうされると何も言い返せず折れてしまうことを分かっていてそうする。
 ……ずるい大人だ。
 
「わ、分かりましたよぉ……。来週来たらそうするようにしますから、あの……時間、ください!」
「分かった。楽しみにしてる。……試験、頑張って」
「はい、…………」
「ん?」
 
 言いたい言葉を飲み込んでいることを見抜かれてしまったようで、彼に促される。うう、どうして分かっちゃうんだろう。
 
「あの……フランツの、こと、よく気づいたなぁって……」
「……ああ」
「わたし、全然そんなの気づかなくて……でも、あの子がここに来た経緯を考えれば、当然ですよね。なんかその辺頭から抜けちゃってて」
「いいんじゃないか、別に」
「え……?」
「哀れんで気を払われるより、普通に当たり前に接してもらった方が救われることもあるだろう」
「グレンさん」
「辛い身の上で色々耐えていたかもしれないが、『みんなであったかいごはん食べられて楽しかった』『レイチェルがいると安心できる』とも言っていたじゃないか。そっちの気持ちだけ受け取っていればいい」
「はい……」
 
 彼の思わぬ優しい言葉に泣きそうになってしまう。最近のわたしは涙腺が弱すぎだ……こんな泣き虫だったかな?
 ああ、話を切り替えなきゃ。
 
「えと、セルジュ様が光の塾のことを調べてくれるっておっしゃってましたけど」
「ああ。……消されなければいいが」
「こ、怖いこと言わないでください。フランツはあそこから逃げ出してきたみたいですけど、連れ戻されたりなんてしないですよね」
「それは大丈夫だろう。出るのは自由だから」
「あ……」

 そうだ。彼も光の塾にいたんだ。正確にはその下位組織という所だけど――だから、その内部を知っている。
 よくない話題をふってしまった。でもいきなり話を切り替えるのは不自然だ。
 何より「出るのは自由」ってなんだろう?
 
「……そう、なんですか? フランツの話からするともっとこう……厳しい所かと思いました」
「ああ。"自由時間"があって、何をしようとどこへ行こうと自由だ。行くあてがあって生きる手段を持ってる者はそのまま逃げられるし、追手が来ることもない。ない者は……そのまま戻る」
「…………」
 
 ぞくりとする。
 孤児院も兼ねている施設……親のいない子供が、そこを出たからといって生きる術なんてすぐに見つからないだろう。
 どうしていいか分からないから、辛くても戻るしかない。
 目の前の彼は、きっとそうやって過ごしてきたんだろう。
 
「……レイチェル? 大丈夫か」
「え……あ、はい。あ、あの……わたし軽率に、光の塾の話なんて、しちゃって」
「ああ……」
 
 ため息交じりに微笑を浮かべ、彼はわたしを腕の中に引き寄せた。
 
「気にするな」
「ごめんなさい……この前のこともあって、わたし」
「そうか。心配かけてすまない」
 
 わたしも彼の背に手を回す。
 
「本当はもっとそばにいたい、です」
「試験の方が大事だろう」
「でも、寂しいし……グレンさんは? 平気ですか」
「まあ、寂しいは寂しいけど……大丈夫だ」
 
 そう言った彼の頭を撫でると、彼はわたしを抱く手に少し力を込めた。

 ――なぜなんだろう。嬉しくてドキドキするはずなのに、今は何か少しせつなくて悲しい。
 彼の過去に、心に触れるといつも胸がチクンとする。
 この頃思うこと――わたしは世の中の綺麗な面しか知らない。
 対して、彼はきっと世界の汚い面や醜い面を否応なしに見せられながら生きてきた人。
 アーテさんみたいな人にたくさん出会って、悪意をぶつけられてきたんだろう。
 ああ、嫌だな。もっとそばにいたい。今、彼を一人にしたくない。
 
「何かあっても、一人で背負わないでください。ふさぎ込んだりとか、暖炉にすごい火点けたりとか……もう、あんなの、ダメですからね」
「……反省する」
「嫌なことあったら、話してくださいね。もしわたしに言いにくいなら、」
「どうした? 大丈夫だぞ」
 
 小さい子供に言って聞かせるように色々言ってたら、グレンさんが身を離して苦笑する。
 
「だってグレンさん、一人で勝手に悪い方に考えちゃうんだもん。大丈夫とか言ってウソつくし。隠しちゃうんだもん」
「それは返す言葉もないが」
「もっとわたし、グレンさんのことを分かりたいです。……話せる範囲でいいから、少しずつ教えて下さい」
「分かった。考えておく」
 
 まだ少しやっておきたいことがあるという彼とキスを交わし、その日は別れた。
 来週まるまる会えない。寂しいけど試験は大事だし切り替えなきゃね。
 ――その時は確か、そんな風に思っていた。
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