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9章 壊れていく日常

9話 こんなものは、愛と呼べない

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「う…………」
 
 ようやく夢から覚めた。
 ――寒気がする。身体が重い。手足を動かすのすらままならない。
 ジャミルは「夢の中で事実と妄想がないまぜになって展開される」と言っていたのに、俺は違った。
 全部事実だった。妄想よりも酷い現実だとでもいうんだろうか。
 
 ここはどこだろう。
 うっすらまぶたを開け――わずかな視界に入り込んできた景色が騎士団員の寮でなかったことにひとまず安堵した。
 
 見習い騎士だった当初は狭い4人部屋だった。
 それから月日が流れ、位が上がるごとに部屋のグレードも上がっていき、最終的にまるで貴族が住むような広くて豪華な空間をあてがわれた。
 
 武器屋にいた頃、屋根裏部屋に寝泊まりしていた。
 物置ではない、ちゃんと人が居住できる空間だ。朝日がまぶしい部屋だった。
 最初は良かったが背が伸びると頭を打ちそうになって、もう少しだけでも天井が高ければ、もう少しだけ広ければな……なんて思っていた。
 ……あれより少し広いくらいでよかった。あんなに広くなくてもよかった。
 広ければ広いほど、何もないことが際立ってしまう。
 
 元から置いてある家具以外は何も置かない。調度品やインテリアにもこだわりがなく、趣味らしい趣味もない。図書館で少し本を借りて読むくらいだ。置いてあるのは、武器とわずかな私服。
 "彼女"も「少しくらい何か置いたらいいのにどうして?」と不思議がっていた。
「そう言われても置こうと思わない」と曖昧にかわして特にその理由も考えなかったが、ディオールから逃げる時にようやく分かった。
 
「無くなる」からだ。
 "あの日"、人の命も歴史も全ての物が壊れて崩れて、雪に埋もれて消えていった。
 何を持っていても何も持っていなくても、理由も容赦もなく刈り取られていく。
 無駄だ。どれだけ大切にしていても無くなる、奪われる。
 結局何も自分の物ではないと思い知らされる――それなら最初から何も持たなければいい。
 あの廃墟のように、何もない空間こそが自分にふさわしい。
 だから俺は何も持たない。
 
 同時に、それなら心も感情も持たない方がふさわしいのではないかと思うようになった。
 怒りを発するのは疲れる。恨みは生きる原動力になるが、晴れればひどく空しい。
 全てに疲れた。もう生きていなくてもいい。かといって死のうという気も起きない。
 
 耳が腐りそうなくらい聞かされた光の塾のあの教義、「感情は穢れ」「ヒトは感情にまみれた汚い生き物」――ある意味それは正しいのかもしれない。
 感情があるから疲れる。それならまた、昔と同じに生きればいい。何を言われても何も感じず、怒りも泣きもしない。空っぽの心なら何も苦しくはない。
 そう思って心を置き去りにしてきた。今活動しているのはただの抜け殻だ。
 
 そうすると気づけばいつからか魔法が使えなくなっていた。
「お前達が魔法を使えないのは、未だ感情にまみれた"ヒト"だからだ。感情を持つな、心はいらない」
 光の塾の教えは間違っていた。心と感情を無くした魔法使いは、欠片すら魔力を生み出せない。
 
 ――ふざけないでほしい。
 せっかくまた信仰してやろうと思ったのに、違っていたんじゃないか。
 でもそうしていると"あいつ"の声は聞こえないし、もうこれでいい。何もかもどうでもいい。
 
 
 ◇
 
 
(それで、結局ここはどこだったか……)
 
 目は開いたが意識がはっきりしない。
 喉が渇いた、水が飲みたい……すぐに飲める環境だっただろうか?
 ここは騎士団じゃない、それに孤児院でもあの穴蔵でも武器屋でもなさそうだ。それならポルト市街のアパートか砦か?
 室内のはずなのに寒い。暖炉に火が点いていないうえに、毛布もかぶらずにベッドに倒れ込んだようだ。
 
 どれくらい寝ていたのか分からないが身体が冷たい――ただ、首元だけが妙に暑い。
 何かゴワゴワして――……。
 
 
 ――グレンさん、グレンさん。寒いなら、これ貸してあげますよ。
 
「――……!」
 
 白いマフラーを巻いたまま寝ていた。
 寒いだろうと、彼女が……レイチェルが巻いてくれたものだ。
 手編みだと言っていた。毛糸があちこちに飛び出て編み目もいびつだ。
 でも「暖かさは保障する」と、少し恥ずかしそうに笑いながら、巻いてくれた――。
 
(……レイチェル……)
 
 一度考え出すと止まらない。
 先ほどまで黒く陰惨な思考の渦の中にいたのに、それらがまるで幻かのように思えてしまう。
 
 彼女は図書館の常連客だった。いつも制服を着ている、きっと地元の学生だろう。
 学生とは全く関わりがないからそれだけでも別世界の人間だった。
 大きい明るい声、ちょっとしたことで喜んで笑って――きっと誰にも蔑まれることなく、愛されて生きてきたんだろう。
 
 子供の頃、"ヒト"の家の窓枠の向こうを見るのが好きだった。
 みんな笑っていて、色で満ちあふれて綺麗だ。絵を見ているみたいだった。
 あっちは別の世界だ。絵画の世界だ。子供ながらに絶対に自分はそこへ行けないと分かっていた。
 
 彼女は"あっち側"の世界の人間だ。
 昔のように"火"が視えたなら、彼女はさぞかし色鮮やかなんだろう――。
 
 そんな彼女がアルバイトの面接でやってきたとき、まずいと思った。
 ただの通りすがりだったのにお互いに名前を名乗って存在を認識してしまえば、いずれ彼女を好きになってしまうかもしれない。そして、その予感は的中した。
 
 彼女は変わっていた。
 裏表がなく誰に対しても同じ態度。あのルカとでさえ、だ。
 彼女の前ではルカもジャミルもカイルも、心の防御を解く。
 俺に対しても友達のように接してきて、聞いてどうするんだということを質問してくる。
 
 ――どうして眼鏡をかけているんですか? どうして図書館のことをベルに言わなかったんですか? この本面白かったですか?
 
 本の話に図書館のどんな所が好きかという、そんな取り留めのない話。俺自身の剣の腕や強さなどは全くどうでもいいようだった。
 暖かい時間が流れて、ほっとした。楽しかった。
 凍り付かせて、ないものとしていた心が徐々に溶かされていく。

 ああ、駄目だ。予想通りだ。
 気づけばもう彼女に心を奪われていた。
 
 もちろん伝える気はなかった。
 俺は前の"彼女"を潰した。よく笑う女性ひとだったのに、日を追うごとにその顔は曇っていった――同年代の人間ですら押し潰すのに、8歳年下の女の子に寄りかかっていいはずがない。
 彼女が色鮮やかな絵画だとしたら、俺はそれを汚すだけのどす黒い塗料。
 手に入れることなど望んではいけない。
 大丈夫だ。そんなことは慣れているし、この気持ちだって表面に出さず隠しておける。
 それに幸いにも、彼女は俺をだらしのない駄目な人間だと思っている。恋愛感情を抱くことはないだろう。
 見ているだけで心が温かくなる。彼女と出会って、人間はそんなに最低なものじゃないと、そう思えただけでも十分だ。
 
 そう思っていたのに、なぜか彼女は俺に気持ちを向けてきた。
 どうして、一体俺の何を見て好意など抱けるのだろう?
 
『グレンさん、グレンさんは自分が普通の人じゃないみたいに言うけど、わたしから見たグレンさんは、普通の男の人です……』
 
 醜く汚い感情や過去を洗いざらい吐いてもそこに失望することはなく、ただ自分を遠ざけて逃げようとする俺の行いだけに怒って、気持ちのやりとりをしようとする。
 俺が、普通の男だから。彼女にとって俺は、どこどこまでもただの男。
 
「…………っ」
 
 目の端からあふれたものが、シーツとマフラーを濡らす。
 ――涙だ。あまりに久しぶりで、一瞬何か分からなかった。
 何故泣いているんだろう。何を泣いているんだろう。
 
『人間味がないなんてそんなことない、当たり前の気持ちを当たり前に備えた、普通の人です』
『ノルデン人だとか、紋章持ってるとか、過去にどんなことがあってどんなに強い人なのかわたしには分かりません」
『だけどわたしは、ここで出会ったグレンさんを見て、話して、それで……好きになったんです』
 
 どうしてそんなことを言うんだ。どうしてそんなに、人の心を拾い上げて包むようなことばかり――。
 
 普通の男? 違う、お前は思い違いをしている。
 俺は何も持っていない空っぽの人間だ。底が知れない穴が空いている。心を取り戻しても同じだ。
「俺はそれでいい」なんて気取っておきながら、そのじついつも欲しがっている。足りない、いつも何か足りない。
 そんな人間に目を向けて優しい気持ちを向ければ、どうなるか分かっているのか。
 
 彼女は自分のことを「普通」「どこにでもいる」なんて言うが、俺からすれば全てが特殊でイレギュラーだ。
 両親に望まれて生まれて、当たり前に愛情を注がれて育って、その愛情を他の人に同じだけ向けることができる。
 俺がどれだけ望んでも手に入らない物を、何も望まなくても最初から全部持っている。
 持たない者が持つ者を目にした時に抱く感情は、二つに一つ。
 強烈に嫉妬するか、欲しがるかだ。
 彼女が注ぐ愛情を、自分だけのものにしたい。
 
『……グレンさん、どこにも、行かないで……』
『行かない。約束する』
『好きだ、レイチェル。俺が普通の男だというなら、お前のそばにいたい。お前を思っていたい。……それが、許されるなら」
 
 ――もう、許されない。
 こんな赤眼ものになってしまった。
 誰から見ても魔性の者だ。牢獄に入れられ、いずれ処分される。
 
 彼女とは別れて姿を消さなければいけない。
 最初は悲しむかもしれないが、いずれ別の恋を見つけて幸せになるだろう。
 そうしなければいけない――だけどそれは嫌だ。
 
 何もままならない、何も手にできない。そういうものだと思って生きていた。
 でも……一つくらい俺のものにしたっていいじゃないか?
 俺はレイチェルをずっと好きだった。どうしても欲しかったんだ。
 他の男になんてやりたくない、何がどうなっても俺のそばにいてほしい。このまま腕の中に閉じ込めて俺だけのものにしたい。
 
 次に会えるのはいつだろう。会えたとしてその時、俺はまともに口を聞ける状態だろうか。
 "普通の男"でいられるんだろうか。
 
「……レイチェル……」
 
 涙の止め方が分からない。
 泣くことは禁じられていた。それなのに大人は泣かない方法も泣き止み方も教えてくれなかった。
 どうすればいいんだ。レイチェルなら分かるだろうか。
 
 せっかく光を見つけたのに、また闇が追いかけてくる。
 なぜ、前だけを向かせてくれないんだろう。
 なぜ、彼女を想うだけのことすら、許されないんだろう。
 
 別れの言葉を探せない。
 彼女を愛している。そばにいたい。どこにも行きたくない。
 
 ……駄目だ。
 こんなものは、愛と呼べない。
 これは愛じゃなく、執着だ――。
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