200 / 385
9章 壊れていく日常
9話 こんなものは、愛と呼べない
しおりを挟む
「う…………」
ようやく夢から覚めた。
――寒気がする。身体が重い。手足を動かすのすらままならない。
ジャミルは「夢の中で事実と妄想がないまぜになって展開される」と言っていたのに、俺は違った。
全部事実だった。妄想よりも酷い現実だとでもいうんだろうか。
ここはどこだろう。
うっすらまぶたを開け――わずかな視界に入り込んできた景色が騎士団員の寮でなかったことにひとまず安堵した。
見習い騎士だった当初は狭い4人部屋だった。
それから月日が流れ、位が上がるごとに部屋のグレードも上がっていき、最終的にまるで貴族が住むような広くて豪華な空間をあてがわれた。
武器屋にいた頃、屋根裏部屋に寝泊まりしていた。
物置ではない、ちゃんと人が居住できる空間だ。朝日がまぶしい部屋だった。
最初は良かったが背が伸びると頭を打ちそうになって、もう少しだけでも天井が高ければ、もう少しだけ広ければな……なんて思っていた。
……あれより少し広いくらいでよかった。あんなに広くなくてもよかった。
広ければ広いほど、何もないことが際立ってしまう。
元から置いてある家具以外は何も置かない。調度品やインテリアにもこだわりがなく、趣味らしい趣味もない。図書館で少し本を借りて読むくらいだ。置いてあるのは、武器とわずかな私服。
"彼女"も「少しくらい何か置いたらいいのにどうして?」と不思議がっていた。
「そう言われても置こうと思わない」と曖昧にかわして特にその理由も考えなかったが、ディオールから逃げる時にようやく分かった。
「無くなる」からだ。
"あの日"、人の命も歴史も全ての物が壊れて崩れて、雪に埋もれて消えていった。
何を持っていても何も持っていなくても、理由も容赦もなく刈り取られていく。
無駄だ。どれだけ大切にしていても無くなる、奪われる。
結局何も自分の物ではないと思い知らされる――それなら最初から何も持たなければいい。
あの廃墟のように、何もない空間こそが自分にふさわしい。
だから俺は何も持たない。
同時に、それなら心も感情も持たない方がふさわしいのではないかと思うようになった。
怒りを発するのは疲れる。恨みは生きる原動力になるが、晴れればひどく空しい。
全てに疲れた。もう生きていなくてもいい。かといって死のうという気も起きない。
耳が腐りそうなくらい聞かされた光の塾のあの教義、「感情は穢れ」「ヒトは感情にまみれた汚い生き物」――ある意味それは正しいのかもしれない。
感情があるから疲れる。それならまた、昔と同じに生きればいい。何を言われても何も感じず、怒りも泣きもしない。空っぽの心なら何も苦しくはない。
そう思って心を置き去りにしてきた。今活動しているのはただの抜け殻だ。
そうすると気づけばいつからか魔法が使えなくなっていた。
「お前達が魔法を使えないのは、未だ感情にまみれた"ヒト"だからだ。感情を持つな、心はいらない」
光の塾の教えは間違っていた。心と感情を無くした魔法使いは、欠片すら魔力を生み出せない。
――ふざけないでほしい。
せっかくまた信仰してやろうと思ったのに、違っていたんじゃないか。
でもそうしていると"あいつ"の声は聞こえないし、もうこれでいい。何もかもどうでもいい。
◇
(それで、結局ここはどこだったか……)
目は開いたが意識がはっきりしない。
喉が渇いた、水が飲みたい……すぐに飲める環境だっただろうか?
ここは騎士団じゃない、それに孤児院でもあの穴蔵でも武器屋でもなさそうだ。それならポルト市街のアパートか砦か?
室内のはずなのに寒い。暖炉に火が点いていないうえに、毛布もかぶらずにベッドに倒れ込んだようだ。
どれくらい寝ていたのか分からないが身体が冷たい――ただ、首元だけが妙に暑い。
何かゴワゴワして――……。
――グレンさん、グレンさん。寒いなら、これ貸してあげますよ。
「――……!」
白いマフラーを巻いたまま寝ていた。
寒いだろうと、彼女が……レイチェルが巻いてくれたものだ。
手編みだと言っていた。毛糸があちこちに飛び出て編み目もいびつだ。
でも「暖かさは保障する」と、少し恥ずかしそうに笑いながら、巻いてくれた――。
(……レイチェル……)
一度考え出すと止まらない。
先ほどまで黒く陰惨な思考の渦の中にいたのに、それらがまるで幻かのように思えてしまう。
彼女は図書館の常連客だった。いつも制服を着ている、きっと地元の学生だろう。
学生とは全く関わりがないからそれだけでも別世界の人間だった。
大きい明るい声、ちょっとしたことで喜んで笑って――きっと誰にも蔑まれることなく、愛されて生きてきたんだろう。
子供の頃、"ヒト"の家の窓枠の向こうを見るのが好きだった。
みんな笑っていて、色で満ちあふれて綺麗だ。絵を見ているみたいだった。
あっちは別の世界だ。絵画の世界だ。子供ながらに絶対に自分はそこへ行けないと分かっていた。
彼女は"あっち側"の世界の人間だ。
昔のように"火"が視えたなら、彼女はさぞかし色鮮やかなんだろう――。
そんな彼女がアルバイトの面接でやってきたとき、まずいと思った。
ただの通りすがりだったのにお互いに名前を名乗って存在を認識してしまえば、いずれ彼女を好きになってしまうかもしれない。そして、その予感は的中した。
彼女は変わっていた。
裏表がなく誰に対しても同じ態度。あのルカとでさえ、だ。
彼女の前ではルカもジャミルもカイルも、心の防御を解く。
俺に対しても友達のように接してきて、聞いてどうするんだということを質問してくる。
――どうして眼鏡をかけているんですか? どうして図書館のことをベルに言わなかったんですか? この本面白かったですか?
本の話に図書館のどんな所が好きかという、そんな取り留めのない話。俺自身の剣の腕や強さなどは全くどうでもいいようだった。
暖かい時間が流れて、ほっとした。楽しかった。
凍り付かせて、ないものとしていた心が徐々に溶かされていく。
ああ、駄目だ。予想通りだ。
気づけばもう彼女に心を奪われていた。
もちろん伝える気はなかった。
俺は前の"彼女"を潰した。よく笑う女性だったのに、日を追うごとにその顔は曇っていった――同年代の人間ですら押し潰すのに、8歳年下の女の子に寄りかかっていいはずがない。
彼女が色鮮やかな絵画だとしたら、俺はそれを汚すだけのどす黒い塗料。
手に入れることなど望んではいけない。
大丈夫だ。そんなことは慣れているし、この気持ちだって表面に出さず隠しておける。
それに幸いにも、彼女は俺をだらしのない駄目な人間だと思っている。恋愛感情を抱くことはないだろう。
見ているだけで心が温かくなる。彼女と出会って、人間はそんなに最低なものじゃないと、そう思えただけでも十分だ。
そう思っていたのに、なぜか彼女は俺に気持ちを向けてきた。
どうして、一体俺の何を見て好意など抱けるのだろう?
『グレンさん、グレンさんは自分が普通の人じゃないみたいに言うけど、わたしから見たグレンさんは、普通の男の人です……』
醜く汚い感情や過去を洗いざらい吐いてもそこに失望することはなく、ただ自分を遠ざけて逃げようとする俺の行いだけに怒って、気持ちのやりとりをしようとする。
俺が、普通の男だから。彼女にとって俺は、どこどこまでもただの男。
「…………っ」
目の端からあふれたものが、シーツとマフラーを濡らす。
――涙だ。あまりに久しぶりで、一瞬何か分からなかった。
何故泣いているんだろう。何を泣いているんだろう。
『人間味がないなんてそんなことない、当たり前の気持ちを当たり前に備えた、普通の人です』
『ノルデン人だとか、紋章持ってるとか、過去にどんなことがあってどんなに強い人なのかわたしには分かりません」
『だけどわたしは、ここで出会ったグレンさんを見て、話して、それで……好きになったんです』
どうしてそんなことを言うんだ。どうしてそんなに、人の心を拾い上げて包むようなことばかり――。
普通の男? 違う、お前は思い違いをしている。
俺は何も持っていない空っぽの人間だ。底が知れない穴が空いている。心を取り戻しても同じだ。
「俺はそれでいい」なんて気取っておきながら、その実いつも欲しがっている。足りない、いつも何か足りない。
そんな人間に目を向けて優しい気持ちを向ければ、どうなるか分かっているのか。
彼女は自分のことを「普通」「どこにでもいる」なんて言うが、俺からすれば全てが特殊でイレギュラーだ。
両親に望まれて生まれて、当たり前に愛情を注がれて育って、その愛情を他の人に同じだけ向けることができる。
俺がどれだけ望んでも手に入らない物を、何も望まなくても最初から全部持っている。
持たない者が持つ者を目にした時に抱く感情は、二つに一つ。
強烈に嫉妬するか、欲しがるかだ。
彼女が注ぐ愛情を、自分だけのものにしたい。
『……グレンさん、どこにも、行かないで……』
『行かない。約束する』
『好きだ、レイチェル。俺が普通の男だというなら、お前のそばにいたい。お前を思っていたい。……それが、許されるなら」
――もう、許されない。
こんな赤眼になってしまった。
誰から見ても魔性の者だ。牢獄に入れられ、いずれ処分される。
彼女とは別れて姿を消さなければいけない。
最初は悲しむかもしれないが、いずれ別の恋を見つけて幸せになるだろう。
そうしなければいけない――だけどそれは嫌だ。
何もままならない、何も手にできない。そういうものだと思って生きていた。
でも……一つくらい俺のものにしたっていいじゃないか?
俺はレイチェルをずっと好きだった。どうしても欲しかったんだ。
他の男になんてやりたくない、何がどうなっても俺のそばにいてほしい。このまま腕の中に閉じ込めて俺だけのものにしたい。
次に会えるのはいつだろう。会えたとしてその時、俺はまともに口を聞ける状態だろうか。
"普通の男"でいられるんだろうか。
「……レイチェル……」
涙の止め方が分からない。
泣くことは禁じられていた。それなのに大人は泣かない方法も泣き止み方も教えてくれなかった。
どうすればいいんだ。レイチェルなら分かるだろうか。
せっかく光を見つけたのに、また闇が追いかけてくる。
なぜ、前だけを向かせてくれないんだろう。
なぜ、彼女を想うだけのことすら、許されないんだろう。
別れの言葉を探せない。
彼女を愛している。そばにいたい。どこにも行きたくない。
……駄目だ。
こんなものは、愛と呼べない。
これは愛じゃなく、執着だ――。
ようやく夢から覚めた。
――寒気がする。身体が重い。手足を動かすのすらままならない。
ジャミルは「夢の中で事実と妄想がないまぜになって展開される」と言っていたのに、俺は違った。
全部事実だった。妄想よりも酷い現実だとでもいうんだろうか。
ここはどこだろう。
うっすらまぶたを開け――わずかな視界に入り込んできた景色が騎士団員の寮でなかったことにひとまず安堵した。
見習い騎士だった当初は狭い4人部屋だった。
それから月日が流れ、位が上がるごとに部屋のグレードも上がっていき、最終的にまるで貴族が住むような広くて豪華な空間をあてがわれた。
武器屋にいた頃、屋根裏部屋に寝泊まりしていた。
物置ではない、ちゃんと人が居住できる空間だ。朝日がまぶしい部屋だった。
最初は良かったが背が伸びると頭を打ちそうになって、もう少しだけでも天井が高ければ、もう少しだけ広ければな……なんて思っていた。
……あれより少し広いくらいでよかった。あんなに広くなくてもよかった。
広ければ広いほど、何もないことが際立ってしまう。
元から置いてある家具以外は何も置かない。調度品やインテリアにもこだわりがなく、趣味らしい趣味もない。図書館で少し本を借りて読むくらいだ。置いてあるのは、武器とわずかな私服。
"彼女"も「少しくらい何か置いたらいいのにどうして?」と不思議がっていた。
「そう言われても置こうと思わない」と曖昧にかわして特にその理由も考えなかったが、ディオールから逃げる時にようやく分かった。
「無くなる」からだ。
"あの日"、人の命も歴史も全ての物が壊れて崩れて、雪に埋もれて消えていった。
何を持っていても何も持っていなくても、理由も容赦もなく刈り取られていく。
無駄だ。どれだけ大切にしていても無くなる、奪われる。
結局何も自分の物ではないと思い知らされる――それなら最初から何も持たなければいい。
あの廃墟のように、何もない空間こそが自分にふさわしい。
だから俺は何も持たない。
同時に、それなら心も感情も持たない方がふさわしいのではないかと思うようになった。
怒りを発するのは疲れる。恨みは生きる原動力になるが、晴れればひどく空しい。
全てに疲れた。もう生きていなくてもいい。かといって死のうという気も起きない。
耳が腐りそうなくらい聞かされた光の塾のあの教義、「感情は穢れ」「ヒトは感情にまみれた汚い生き物」――ある意味それは正しいのかもしれない。
感情があるから疲れる。それならまた、昔と同じに生きればいい。何を言われても何も感じず、怒りも泣きもしない。空っぽの心なら何も苦しくはない。
そう思って心を置き去りにしてきた。今活動しているのはただの抜け殻だ。
そうすると気づけばいつからか魔法が使えなくなっていた。
「お前達が魔法を使えないのは、未だ感情にまみれた"ヒト"だからだ。感情を持つな、心はいらない」
光の塾の教えは間違っていた。心と感情を無くした魔法使いは、欠片すら魔力を生み出せない。
――ふざけないでほしい。
せっかくまた信仰してやろうと思ったのに、違っていたんじゃないか。
でもそうしていると"あいつ"の声は聞こえないし、もうこれでいい。何もかもどうでもいい。
◇
(それで、結局ここはどこだったか……)
目は開いたが意識がはっきりしない。
喉が渇いた、水が飲みたい……すぐに飲める環境だっただろうか?
ここは騎士団じゃない、それに孤児院でもあの穴蔵でも武器屋でもなさそうだ。それならポルト市街のアパートか砦か?
室内のはずなのに寒い。暖炉に火が点いていないうえに、毛布もかぶらずにベッドに倒れ込んだようだ。
どれくらい寝ていたのか分からないが身体が冷たい――ただ、首元だけが妙に暑い。
何かゴワゴワして――……。
――グレンさん、グレンさん。寒いなら、これ貸してあげますよ。
「――……!」
白いマフラーを巻いたまま寝ていた。
寒いだろうと、彼女が……レイチェルが巻いてくれたものだ。
手編みだと言っていた。毛糸があちこちに飛び出て編み目もいびつだ。
でも「暖かさは保障する」と、少し恥ずかしそうに笑いながら、巻いてくれた――。
(……レイチェル……)
一度考え出すと止まらない。
先ほどまで黒く陰惨な思考の渦の中にいたのに、それらがまるで幻かのように思えてしまう。
彼女は図書館の常連客だった。いつも制服を着ている、きっと地元の学生だろう。
学生とは全く関わりがないからそれだけでも別世界の人間だった。
大きい明るい声、ちょっとしたことで喜んで笑って――きっと誰にも蔑まれることなく、愛されて生きてきたんだろう。
子供の頃、"ヒト"の家の窓枠の向こうを見るのが好きだった。
みんな笑っていて、色で満ちあふれて綺麗だ。絵を見ているみたいだった。
あっちは別の世界だ。絵画の世界だ。子供ながらに絶対に自分はそこへ行けないと分かっていた。
彼女は"あっち側"の世界の人間だ。
昔のように"火"が視えたなら、彼女はさぞかし色鮮やかなんだろう――。
そんな彼女がアルバイトの面接でやってきたとき、まずいと思った。
ただの通りすがりだったのにお互いに名前を名乗って存在を認識してしまえば、いずれ彼女を好きになってしまうかもしれない。そして、その予感は的中した。
彼女は変わっていた。
裏表がなく誰に対しても同じ態度。あのルカとでさえ、だ。
彼女の前ではルカもジャミルもカイルも、心の防御を解く。
俺に対しても友達のように接してきて、聞いてどうするんだということを質問してくる。
――どうして眼鏡をかけているんですか? どうして図書館のことをベルに言わなかったんですか? この本面白かったですか?
本の話に図書館のどんな所が好きかという、そんな取り留めのない話。俺自身の剣の腕や強さなどは全くどうでもいいようだった。
暖かい時間が流れて、ほっとした。楽しかった。
凍り付かせて、ないものとしていた心が徐々に溶かされていく。
ああ、駄目だ。予想通りだ。
気づけばもう彼女に心を奪われていた。
もちろん伝える気はなかった。
俺は前の"彼女"を潰した。よく笑う女性だったのに、日を追うごとにその顔は曇っていった――同年代の人間ですら押し潰すのに、8歳年下の女の子に寄りかかっていいはずがない。
彼女が色鮮やかな絵画だとしたら、俺はそれを汚すだけのどす黒い塗料。
手に入れることなど望んではいけない。
大丈夫だ。そんなことは慣れているし、この気持ちだって表面に出さず隠しておける。
それに幸いにも、彼女は俺をだらしのない駄目な人間だと思っている。恋愛感情を抱くことはないだろう。
見ているだけで心が温かくなる。彼女と出会って、人間はそんなに最低なものじゃないと、そう思えただけでも十分だ。
そう思っていたのに、なぜか彼女は俺に気持ちを向けてきた。
どうして、一体俺の何を見て好意など抱けるのだろう?
『グレンさん、グレンさんは自分が普通の人じゃないみたいに言うけど、わたしから見たグレンさんは、普通の男の人です……』
醜く汚い感情や過去を洗いざらい吐いてもそこに失望することはなく、ただ自分を遠ざけて逃げようとする俺の行いだけに怒って、気持ちのやりとりをしようとする。
俺が、普通の男だから。彼女にとって俺は、どこどこまでもただの男。
「…………っ」
目の端からあふれたものが、シーツとマフラーを濡らす。
――涙だ。あまりに久しぶりで、一瞬何か分からなかった。
何故泣いているんだろう。何を泣いているんだろう。
『人間味がないなんてそんなことない、当たり前の気持ちを当たり前に備えた、普通の人です』
『ノルデン人だとか、紋章持ってるとか、過去にどんなことがあってどんなに強い人なのかわたしには分かりません」
『だけどわたしは、ここで出会ったグレンさんを見て、話して、それで……好きになったんです』
どうしてそんなことを言うんだ。どうしてそんなに、人の心を拾い上げて包むようなことばかり――。
普通の男? 違う、お前は思い違いをしている。
俺は何も持っていない空っぽの人間だ。底が知れない穴が空いている。心を取り戻しても同じだ。
「俺はそれでいい」なんて気取っておきながら、その実いつも欲しがっている。足りない、いつも何か足りない。
そんな人間に目を向けて優しい気持ちを向ければ、どうなるか分かっているのか。
彼女は自分のことを「普通」「どこにでもいる」なんて言うが、俺からすれば全てが特殊でイレギュラーだ。
両親に望まれて生まれて、当たり前に愛情を注がれて育って、その愛情を他の人に同じだけ向けることができる。
俺がどれだけ望んでも手に入らない物を、何も望まなくても最初から全部持っている。
持たない者が持つ者を目にした時に抱く感情は、二つに一つ。
強烈に嫉妬するか、欲しがるかだ。
彼女が注ぐ愛情を、自分だけのものにしたい。
『……グレンさん、どこにも、行かないで……』
『行かない。約束する』
『好きだ、レイチェル。俺が普通の男だというなら、お前のそばにいたい。お前を思っていたい。……それが、許されるなら」
――もう、許されない。
こんな赤眼になってしまった。
誰から見ても魔性の者だ。牢獄に入れられ、いずれ処分される。
彼女とは別れて姿を消さなければいけない。
最初は悲しむかもしれないが、いずれ別の恋を見つけて幸せになるだろう。
そうしなければいけない――だけどそれは嫌だ。
何もままならない、何も手にできない。そういうものだと思って生きていた。
でも……一つくらい俺のものにしたっていいじゃないか?
俺はレイチェルをずっと好きだった。どうしても欲しかったんだ。
他の男になんてやりたくない、何がどうなっても俺のそばにいてほしい。このまま腕の中に閉じ込めて俺だけのものにしたい。
次に会えるのはいつだろう。会えたとしてその時、俺はまともに口を聞ける状態だろうか。
"普通の男"でいられるんだろうか。
「……レイチェル……」
涙の止め方が分からない。
泣くことは禁じられていた。それなのに大人は泣かない方法も泣き止み方も教えてくれなかった。
どうすればいいんだ。レイチェルなら分かるだろうか。
せっかく光を見つけたのに、また闇が追いかけてくる。
なぜ、前だけを向かせてくれないんだろう。
なぜ、彼女を想うだけのことすら、許されないんだろう。
別れの言葉を探せない。
彼女を愛している。そばにいたい。どこにも行きたくない。
……駄目だ。
こんなものは、愛と呼べない。
これは愛じゃなく、執着だ――。
0
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!
ぽんちゃん
恋愛
――仕事で疲れて会えない。
十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。
記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。
そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?
美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた辺境伯様と一緒に田舎でのんびりスローライ
さら
恋愛
美人な同僚の“おまけ”として異世界に召喚された私。けれど、無能だと笑われ王城から追い出されてしまう――。
絶望していた私を拾ってくれたのは、冷徹と噂される辺境伯様でした。
荒れ果てた村で彼の隣に立ちながら、料理を作り、子供たちに針仕事を教え、少しずつ居場所を見つけていく私。
優しい言葉をかけてくれる領民たち、そして、時折見せる辺境伯様の微笑みに、胸がときめいていく……。
華やかな王都で「無能」と追放された女が、辺境で自分の価値を見つけ、誰よりも大切に愛される――。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる