262 / 385
【第3部】13章 切り裂く刃
5話 薄暗い悪意
しおりを挟む
「まあああ、ベルちゃん、お帰りなさい! 聞いたわよ、ねえ、聖女候補ですって!?」
サンチェス伯の屋敷に帰ると、母が大声を出しながらバタバタと駆けてきて、あたしをひっしと抱きしめて頭を撫でる。
「ああ、お母様鼻が高いわ! さっすが私のベルちゃんねっ」
「………………」
何の感情も湧かず、表情が作れない。
母がこうやってあたしを抱きしめて頭を撫でたことなんてあったかしら?
何が「私のベルちゃん」よ。
娼婦のようないやらしい体つきに成長した、価値のない娘でしょう。
自分のアクセサリーになりそうなこんな時だけ、殊更に褒めそやして……。
「……気持ち悪い」
「えっ?」
「!!」
――しまった。
つい、思ったことが口に出てしまった。
また烈火のごとく怒り出すわ。どうやったらごまかせるかしら?
「……ごめんなさい。馬車に揺られて酔ってしまったみたい。わたくし、部屋で休みます」
抱きついてきている母を両手で押し戻して目を伏せながらそう言うと、母は鼻息を1つ鳴らし「そう」と不服そうに呟いた。
そこから間を置かずに、母の後ろに控えていた家令のハンスがメイドを呼んであたしの荷物を部屋まで運ばせる。
「ハンス。お父様は、どちらへ?」
「はい。旦那様は……」
「また部屋に引きこもっているのじゃないかしら? このところ、前にも増してずーっと辛気くさいのよねぇ。嫌になっちゃう」
「…………ハンス。お父様は」
「……はい。執務室におられます。お嬢様がお戻りになられたら、一度来られるようにと……」
「ほぉーら。だ・か・ら 言ったじゃないの。どうしてわざわざハンスにまた聞くのよ?」
「……この家のことは、ハンスが一番よく知っていますので」
そう返すと母はあからさまにムッとした顔をする。
――実際、この家のこと、そしてサンチェス伯領のことで母が知っていることは皆無に等しい。
名産品がぶどう――しかし名産地であるレザン地方より味も質も劣っている物である ということくらいじゃないだろうか。
知っている理由は、とにかくこの地には何もないということを馬鹿にしたいがため。
貴族の女のあり方も様々。
「学がある女は生意気だ」なんて価値観も、母の時代ならまだ根強かっただろう。
別に父の執務を手伝わなくてもいいし、お飾りとして隣にいるだけでもいい。
だけど隣にいない上、夫も領地も尊重しないなんてことは、さすがに……。
「……嫌味ね~。聖女候補様だからって、なんでも言っていいというわけじゃないのよ?」
「…………失礼します」
軽く頭を下げ、足早にその場を立ち去る。
(音楽を流す、ラーメンのことを、考える……)
スタスタと歩きながら隊長が言っていたことを実践しようとするけれど、うまくいかない。
胸の中に、何か黒い物がじわりと拡がる感覚がする――。
◇
部屋で少し休憩したあと、いつものように父不在の夕食。
――味が、しない。
決して料理人の腕が悪いわけではないだろう。
母の誰かに対する悪口と愚痴が、ずっと楽隊の演奏する音楽のようにずっと流れているからだ。
今は食後のティータイム。
帰ってきた初日だから付き合っているけれど、正直どこかの建設現場の作業音の方が耳にいいとすら感じる。
せっかく給仕が入れてくれた紅茶も、ただの温かい色水に感じる――……?
(ん……?)
「ねえ、あなた……ええと、ニナ?」
「はい……?」
「この紅茶って、もしかしてぶどうなの?」
「はい」
「珍しい……初めて飲んだわ」
あたしがそう言うと、給仕のニナが嬉しそうに笑った。
続いて近くにいた家令のハンスが、この土地で採れたぶどうで新しく作り始めたのだということを教えてくれる。
「そうなのね。ふふ、おいしい……」
「そうねえ、こういう物に加工しない限り生き残れないわ、あのぶどうじゃあねぇ……」
「………………」
その一言を皮切りに、先日王都で食べたというレザン地方のおいしいぶどうの話が始まる。
「お母様、おやめになって……」
たしなめても母は「だって本当のことじゃない」と聞かない。
さらにレザンのぶどうと比較して、ここのぶどうがいかにおいしくないかという話を延々と語り出す始末。
そう、ぶどうの紅茶を飲みながら……。
「パイやジャム、それにこの紅茶とか色々小細工して……なんというか、努力は認めるけれど結局本場のそれにはかなわないのよねえ……残念ながら」
(ちょっと、やめてよ……!)
もう本当に、本当に頭が痛い。
今目の前にいる給仕のニナの夫は、サンチェス伯領にあるぶどう農園を取り仕切っている。
今飲んでいるぶどうの紅茶は、その農園で作り始めたものなのだろう。
だからこそきっと、あんなに嬉しそうに笑った。
母はニナの事情なんかきっと知らないだろう。
でも、この地方の名産品といえばぶどうぐらいしかない。
伯爵家に仕える者の親類縁者、友人、その他多くの領民がぶどうの生産事業に携わっている。
それをこんな風に悪し様に言うことは、この地で生きる者への嘲りに等しい――。
「……!?」
ふと顔を上げると、張り付いた笑顔で立っているニナの身体から何か薄く黒い煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
それは食堂の扉の方へ流れ、スイッと吸い込まれるように消えていく……。
(……何、今の……!?)
驚いているのはあたしだけ。
母もハンスも、そしてニナ自身もそれに気づいていない。
あたしは魔法を使うけれど、紋章使いじゃない。
だから人の本質を示す火や水なんかは視えない。
だけど、それなら、今視えたあれは何?
(瘴気……?)
とても薄い色をしていたけれど、闇に堕ちそうになったジャミル君、赤眼になってしまった隊長から立ち上っていた瘴気――それに似ていた。
でもあれは紋章や術の資質関係なく、誰にでも視認できたはず。
どうして、あたしだけに視えているの?
思い当たることといえば……あたしの今の精神状態、だろうか。
今あたしは、心が後ろ向きになっている。好きな人と別れなければいけないかもしれない悲しみに、絶望しかかっている。
……もしかして今あたし、闇に堕ちそうになっているの……?
サンチェス伯の屋敷に帰ると、母が大声を出しながらバタバタと駆けてきて、あたしをひっしと抱きしめて頭を撫でる。
「ああ、お母様鼻が高いわ! さっすが私のベルちゃんねっ」
「………………」
何の感情も湧かず、表情が作れない。
母がこうやってあたしを抱きしめて頭を撫でたことなんてあったかしら?
何が「私のベルちゃん」よ。
娼婦のようないやらしい体つきに成長した、価値のない娘でしょう。
自分のアクセサリーになりそうなこんな時だけ、殊更に褒めそやして……。
「……気持ち悪い」
「えっ?」
「!!」
――しまった。
つい、思ったことが口に出てしまった。
また烈火のごとく怒り出すわ。どうやったらごまかせるかしら?
「……ごめんなさい。馬車に揺られて酔ってしまったみたい。わたくし、部屋で休みます」
抱きついてきている母を両手で押し戻して目を伏せながらそう言うと、母は鼻息を1つ鳴らし「そう」と不服そうに呟いた。
そこから間を置かずに、母の後ろに控えていた家令のハンスがメイドを呼んであたしの荷物を部屋まで運ばせる。
「ハンス。お父様は、どちらへ?」
「はい。旦那様は……」
「また部屋に引きこもっているのじゃないかしら? このところ、前にも増してずーっと辛気くさいのよねぇ。嫌になっちゃう」
「…………ハンス。お父様は」
「……はい。執務室におられます。お嬢様がお戻りになられたら、一度来られるようにと……」
「ほぉーら。だ・か・ら 言ったじゃないの。どうしてわざわざハンスにまた聞くのよ?」
「……この家のことは、ハンスが一番よく知っていますので」
そう返すと母はあからさまにムッとした顔をする。
――実際、この家のこと、そしてサンチェス伯領のことで母が知っていることは皆無に等しい。
名産品がぶどう――しかし名産地であるレザン地方より味も質も劣っている物である ということくらいじゃないだろうか。
知っている理由は、とにかくこの地には何もないということを馬鹿にしたいがため。
貴族の女のあり方も様々。
「学がある女は生意気だ」なんて価値観も、母の時代ならまだ根強かっただろう。
別に父の執務を手伝わなくてもいいし、お飾りとして隣にいるだけでもいい。
だけど隣にいない上、夫も領地も尊重しないなんてことは、さすがに……。
「……嫌味ね~。聖女候補様だからって、なんでも言っていいというわけじゃないのよ?」
「…………失礼します」
軽く頭を下げ、足早にその場を立ち去る。
(音楽を流す、ラーメンのことを、考える……)
スタスタと歩きながら隊長が言っていたことを実践しようとするけれど、うまくいかない。
胸の中に、何か黒い物がじわりと拡がる感覚がする――。
◇
部屋で少し休憩したあと、いつものように父不在の夕食。
――味が、しない。
決して料理人の腕が悪いわけではないだろう。
母の誰かに対する悪口と愚痴が、ずっと楽隊の演奏する音楽のようにずっと流れているからだ。
今は食後のティータイム。
帰ってきた初日だから付き合っているけれど、正直どこかの建設現場の作業音の方が耳にいいとすら感じる。
せっかく給仕が入れてくれた紅茶も、ただの温かい色水に感じる――……?
(ん……?)
「ねえ、あなた……ええと、ニナ?」
「はい……?」
「この紅茶って、もしかしてぶどうなの?」
「はい」
「珍しい……初めて飲んだわ」
あたしがそう言うと、給仕のニナが嬉しそうに笑った。
続いて近くにいた家令のハンスが、この土地で採れたぶどうで新しく作り始めたのだということを教えてくれる。
「そうなのね。ふふ、おいしい……」
「そうねえ、こういう物に加工しない限り生き残れないわ、あのぶどうじゃあねぇ……」
「………………」
その一言を皮切りに、先日王都で食べたというレザン地方のおいしいぶどうの話が始まる。
「お母様、おやめになって……」
たしなめても母は「だって本当のことじゃない」と聞かない。
さらにレザンのぶどうと比較して、ここのぶどうがいかにおいしくないかという話を延々と語り出す始末。
そう、ぶどうの紅茶を飲みながら……。
「パイやジャム、それにこの紅茶とか色々小細工して……なんというか、努力は認めるけれど結局本場のそれにはかなわないのよねえ……残念ながら」
(ちょっと、やめてよ……!)
もう本当に、本当に頭が痛い。
今目の前にいる給仕のニナの夫は、サンチェス伯領にあるぶどう農園を取り仕切っている。
今飲んでいるぶどうの紅茶は、その農園で作り始めたものなのだろう。
だからこそきっと、あんなに嬉しそうに笑った。
母はニナの事情なんかきっと知らないだろう。
でも、この地方の名産品といえばぶどうぐらいしかない。
伯爵家に仕える者の親類縁者、友人、その他多くの領民がぶどうの生産事業に携わっている。
それをこんな風に悪し様に言うことは、この地で生きる者への嘲りに等しい――。
「……!?」
ふと顔を上げると、張り付いた笑顔で立っているニナの身体から何か薄く黒い煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
それは食堂の扉の方へ流れ、スイッと吸い込まれるように消えていく……。
(……何、今の……!?)
驚いているのはあたしだけ。
母もハンスも、そしてニナ自身もそれに気づいていない。
あたしは魔法を使うけれど、紋章使いじゃない。
だから人の本質を示す火や水なんかは視えない。
だけど、それなら、今視えたあれは何?
(瘴気……?)
とても薄い色をしていたけれど、闇に堕ちそうになったジャミル君、赤眼になってしまった隊長から立ち上っていた瘴気――それに似ていた。
でもあれは紋章や術の資質関係なく、誰にでも視認できたはず。
どうして、あたしだけに視えているの?
思い当たることといえば……あたしの今の精神状態、だろうか。
今あたしは、心が後ろ向きになっている。好きな人と別れなければいけないかもしれない悲しみに、絶望しかかっている。
……もしかして今あたし、闇に堕ちそうになっているの……?
0
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!
ぽんちゃん
恋愛
――仕事で疲れて会えない。
十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。
記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。
そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
美人同僚のおまけとして異世界召喚された私、無能扱いされ王城から追い出される。私の才能を見出してくれた辺境伯様と一緒に田舎でのんびりスローライ
さら
恋愛
美人な同僚の“おまけ”として異世界に召喚された私。けれど、無能だと笑われ王城から追い出されてしまう――。
絶望していた私を拾ってくれたのは、冷徹と噂される辺境伯様でした。
荒れ果てた村で彼の隣に立ちながら、料理を作り、子供たちに針仕事を教え、少しずつ居場所を見つけていく私。
優しい言葉をかけてくれる領民たち、そして、時折見せる辺境伯様の微笑みに、胸がときめいていく……。
華やかな王都で「無能」と追放された女が、辺境で自分の価値を見つけ、誰よりも大切に愛される――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる