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3章 変調
5話 倫理:疑問
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『栢木君、栢木君』
『はい?』
『エエもんあげるわ、ハイこれ』
そう言って相手が差し出してきたのは、様々な色の正方形が描かれたカードの束。
長い間使い込んでいたのか、全体的にうっすら黄ばんでいる。
――相手の顔が分からない。声からしておそらく中年くらいの男だが、こんな人間、知り合いにいただろうか?
『何スか、これ?』
『色見本やあ』
『色見本?』
『新しいバージョン発売したから買うてん~。こっちの古いのんはもう用事ないし、あげるわ』
『えーっ、いらんっスよこんなん、ボクの仕事に関係ないし……捨てたらええんちがいます?』
『いやあ、でもこれ4000円もすんねんで? もったいないやん。……というわけで、ハイ』
言いながら中年男は倫理の机に色見本を置き、『ほな!』と足早に逃げ去っていった。
『あっ! ちょっ、もー……部長~!』
………………
…………
……
「…………?」
頭の中にある、存在しない記憶――上着のポケットから出てきた色見本を見つめたまま、トモミチは固まっていた。
この色見本は〝部長〟に押しつけられたもの。だが今までの人生で〝部長〟という役職の人間に出会ったことはない――はずだ。
知らない役職の男に押しつけられた、知らない道具。
覚えがないのはこればかりではない。
着ている服もおかしい。今、白いシャツにグレーのズボンを履いているが、グレーのスーツなんて自分は持っていない。
入社式の――車に轢かれて〝死んだ〟あの日、自分は黒いスーツを着て、ネクタイを締めていたはずだ。上着とネクタイはどこへ行ったのだろう。
ずっと羽織っていたこの紺色のブルゾンも妙だ。
春から入るはずだった会社も、社員は紺色のブルゾンを着ていた。だが、このブルゾンはその社のものではない。
「『y’s工務店』……?」
ブルゾンを脱いで机に置いて広げた。胸元には水色の糸で知らない会社名が刺繍してある。
ポケットの中には色見本の他に、刺繍と同じ社名が入ったボールペンとシャーペンが入っていた。
ふと首に違和感を覚えたので触ってみると、ヒモのところに社名が入った社員証を首からぶら下げているのに気がつく。
社員証には漢字とアルファベットで自分の名前が印字されており、自身の顔写真もプリントされている。紛れもなく自分のものだ。
――だが、知らない。
(おかしい……)
なぜ今まで、この所持品に目がいかなかったのだろう。
他に何かないだろうかとブルゾンを探ってみると、胸元の内ポケットに財布が入っていた。
ブランド物の黒の長財布だ。だが、これも知らない。
財布の中にはクレジットカードや保険証などが入っているが、自分の名前が印字されているのにいずれも覚えがない。
免許証も入っている。さすがにこれくらいは自分が与り知るものだろう、と免許証を抜き出そうとしたところで部屋の石扉が突然開き、ロランが入ってきた。
「!!」
驚き、とっさに財布を閉じる。
――昨日の夜もそうだったが、ロランは突然扉を開けて入ってくる。
やましいことはないから別に構わないのだが、ノックくらいしてほしい。
石扉だからノックの音は聞こえないかもしれないが、気持ちの問題だ。
「どうしたん? なんか用?」
財布を机に置いて立ち上がり2、3歩ほどロランに歩み寄ってそう尋ねると、ロランは目を細めて後ずさりし、視線を斜め下に向けた。
「街へ、買い物に行ってくる」
「そっか、なんか悪いなあ」
朝ロランに食事を摂らない理由を聞かれたので、「色合いが無理だ」ということをやんわり伝えた。
いつもなら「自分に合う色合いの食べ物を」と要求するところだ。だが、味覚が相変わらず死んだまま――それにロラン曰く「食べなくても死にはしない」とのことなので、先にこちらから「どうせ食べても味は分からないから食材は用意してくれなくていい」と言っておいた。
するとロランに「そういうことを言うな」「食材を探してきてやるから何か食べろ」と怒られたので、ポケットから色見本を出して「この色合いのものを」と頼んだ。
別にいつでもいいと思っていたが、今日の今日で行ってくれるらしい。
「……他に、何か必要なものはあるか」
「他に……? んー、せやなあ……筆と紙と、あと墨汁がほしい」
「ボクジュウ……?」
ロランが逸らしていた目をこちらに向ける。
「黒いインクみたいなヤツやねんけど。ないかなあ、この世界には」
「ボクジュウは知らないが、黒いインクはある」
「そっか。ほな、頼むわ」
「筆記具は私が貸したものも、お前のポケットから出たものもあるだろう。なぜ改めて筆やインクが必要なんだ」
「おっ? 興味ある?」
「な……ない」
「いや、あるね。……オレ昔、習字習ててさあ。あっ、習字って、字キレイに書くためにする習い事のことな。そん中で、〝毛筆〟っつって、筆で文字書く練習があってな……」
ロランがキョトンとした顔でこちらを見上げてくる。
習字とやらに興味があるが、「字をキレイに書くための習い事」というのがいまひとつピンとこない……そんなところだろうか。
「えっとなあ、何がやりたいかと言うと……オレ今、日本語にめっちゃ飢えてんねんな」
「ニホン語?」
「オレの住んでた国。『文字いっぱいある』って言ったやん? その日本の文字を1個も見ることないのって結構寂しいねん。せやから筆で文字書いて気晴らししたいっていうか」
――トモミチが書道教室に通っていたのは小学校1年から中学校2年まで。受験生になったのを機に辞めた。
それ以来、習字道具を出して何か書いたりしたことはない。あくまでも習い事の一環というだけで、特段書道が好きと言うわけではない。
ただ、筆で文字を書くことで日本的な要素を思い起こしたい。
今は鉛筆で「貝がら姫」の絵本を日本語で書き写したりしている。普段そんなことはしないのに、だ。
それくらい今、とにかく日本語に飢えている――。
「筆は、どれくらいの大きさがいいんだ」
「ちょっと待ってな。うん……これくらいかな」
持っていた紙に太筆と細筆の実寸大の筆の絵を描き、その横に筆の質感をニライ・カナイの文字で書いて渡した。
――正直、あまり期待はしていない。あの質感の筆は異世界――というか、書道が存在する国以外ではまず手に入らないだろう。
(…………)
渡した紙をロランが興味深く眺めている。
最初こそ無機質で冷たい奴だと思っていたが、このロランという青年は会話が下手なだけで根はかなり純朴だと感じた。
会話が下手なのは、彼の師匠であるゴーチエという人間の影響を強く受けているからだろう。
会ったことがないのに失礼だが、ゴーチエとやらは絶対にろくでもない人間だ。
どれだけ褒めても、ロランからは自分を下げる発言しか返ってこない。
塾講師時代に、こういった生徒が何人かいた。田中君もその1人だ。いずれも家庭に問題がありそうな生徒だった。
おそらくゴーチエはロランをほとんど一切褒めず、貶すことしかしてこなかった。だから褒め言葉を〝まやかし〟のように受け取ってしまうのだ。
ふとロランの手元を見ると、爪はボロボロ、指先はささくれや皮膚がめくれており血の跡がいくつもあった。
ロランはよく爪を噛んでいる。甥の〝ゆう君〟も爪をかじる癖があったが、ここまでひどくはない。
少し顔を突き合わせただけだが、心に相当な問題を抱えていそうだ――そう思った。
――屍霊術師なんか、ホンマはやりたないんちゃうんかな。
なんでこんな仕事してんねやろ?
魔法使えるんやったら、もっとちがう仕事ありそうやのに……。
気づかぬうちにトモミチの思考は「知らない所持品・知らない記憶に対する疑問」から、「ロランという人間に対する興味」へと逸れていっていた。
――――――――
お読みいただき、ありがとうございます。
ストックが尽きましたので、これから先は不定期更新となります。
できるだけ短いスパンで投稿できるよう頑張りますので、よろしくお願いしますm(__)m
『はい?』
『エエもんあげるわ、ハイこれ』
そう言って相手が差し出してきたのは、様々な色の正方形が描かれたカードの束。
長い間使い込んでいたのか、全体的にうっすら黄ばんでいる。
――相手の顔が分からない。声からしておそらく中年くらいの男だが、こんな人間、知り合いにいただろうか?
『何スか、これ?』
『色見本やあ』
『色見本?』
『新しいバージョン発売したから買うてん~。こっちの古いのんはもう用事ないし、あげるわ』
『えーっ、いらんっスよこんなん、ボクの仕事に関係ないし……捨てたらええんちがいます?』
『いやあ、でもこれ4000円もすんねんで? もったいないやん。……というわけで、ハイ』
言いながら中年男は倫理の机に色見本を置き、『ほな!』と足早に逃げ去っていった。
『あっ! ちょっ、もー……部長~!』
………………
…………
……
「…………?」
頭の中にある、存在しない記憶――上着のポケットから出てきた色見本を見つめたまま、トモミチは固まっていた。
この色見本は〝部長〟に押しつけられたもの。だが今までの人生で〝部長〟という役職の人間に出会ったことはない――はずだ。
知らない役職の男に押しつけられた、知らない道具。
覚えがないのはこればかりではない。
着ている服もおかしい。今、白いシャツにグレーのズボンを履いているが、グレーのスーツなんて自分は持っていない。
入社式の――車に轢かれて〝死んだ〟あの日、自分は黒いスーツを着て、ネクタイを締めていたはずだ。上着とネクタイはどこへ行ったのだろう。
ずっと羽織っていたこの紺色のブルゾンも妙だ。
春から入るはずだった会社も、社員は紺色のブルゾンを着ていた。だが、このブルゾンはその社のものではない。
「『y’s工務店』……?」
ブルゾンを脱いで机に置いて広げた。胸元には水色の糸で知らない会社名が刺繍してある。
ポケットの中には色見本の他に、刺繍と同じ社名が入ったボールペンとシャーペンが入っていた。
ふと首に違和感を覚えたので触ってみると、ヒモのところに社名が入った社員証を首からぶら下げているのに気がつく。
社員証には漢字とアルファベットで自分の名前が印字されており、自身の顔写真もプリントされている。紛れもなく自分のものだ。
――だが、知らない。
(おかしい……)
なぜ今まで、この所持品に目がいかなかったのだろう。
他に何かないだろうかとブルゾンを探ってみると、胸元の内ポケットに財布が入っていた。
ブランド物の黒の長財布だ。だが、これも知らない。
財布の中にはクレジットカードや保険証などが入っているが、自分の名前が印字されているのにいずれも覚えがない。
免許証も入っている。さすがにこれくらいは自分が与り知るものだろう、と免許証を抜き出そうとしたところで部屋の石扉が突然開き、ロランが入ってきた。
「!!」
驚き、とっさに財布を閉じる。
――昨日の夜もそうだったが、ロランは突然扉を開けて入ってくる。
やましいことはないから別に構わないのだが、ノックくらいしてほしい。
石扉だからノックの音は聞こえないかもしれないが、気持ちの問題だ。
「どうしたん? なんか用?」
財布を机に置いて立ち上がり2、3歩ほどロランに歩み寄ってそう尋ねると、ロランは目を細めて後ずさりし、視線を斜め下に向けた。
「街へ、買い物に行ってくる」
「そっか、なんか悪いなあ」
朝ロランに食事を摂らない理由を聞かれたので、「色合いが無理だ」ということをやんわり伝えた。
いつもなら「自分に合う色合いの食べ物を」と要求するところだ。だが、味覚が相変わらず死んだまま――それにロラン曰く「食べなくても死にはしない」とのことなので、先にこちらから「どうせ食べても味は分からないから食材は用意してくれなくていい」と言っておいた。
するとロランに「そういうことを言うな」「食材を探してきてやるから何か食べろ」と怒られたので、ポケットから色見本を出して「この色合いのものを」と頼んだ。
別にいつでもいいと思っていたが、今日の今日で行ってくれるらしい。
「……他に、何か必要なものはあるか」
「他に……? んー、せやなあ……筆と紙と、あと墨汁がほしい」
「ボクジュウ……?」
ロランが逸らしていた目をこちらに向ける。
「黒いインクみたいなヤツやねんけど。ないかなあ、この世界には」
「ボクジュウは知らないが、黒いインクはある」
「そっか。ほな、頼むわ」
「筆記具は私が貸したものも、お前のポケットから出たものもあるだろう。なぜ改めて筆やインクが必要なんだ」
「おっ? 興味ある?」
「な……ない」
「いや、あるね。……オレ昔、習字習ててさあ。あっ、習字って、字キレイに書くためにする習い事のことな。そん中で、〝毛筆〟っつって、筆で文字書く練習があってな……」
ロランがキョトンとした顔でこちらを見上げてくる。
習字とやらに興味があるが、「字をキレイに書くための習い事」というのがいまひとつピンとこない……そんなところだろうか。
「えっとなあ、何がやりたいかと言うと……オレ今、日本語にめっちゃ飢えてんねんな」
「ニホン語?」
「オレの住んでた国。『文字いっぱいある』って言ったやん? その日本の文字を1個も見ることないのって結構寂しいねん。せやから筆で文字書いて気晴らししたいっていうか」
――トモミチが書道教室に通っていたのは小学校1年から中学校2年まで。受験生になったのを機に辞めた。
それ以来、習字道具を出して何か書いたりしたことはない。あくまでも習い事の一環というだけで、特段書道が好きと言うわけではない。
ただ、筆で文字を書くことで日本的な要素を思い起こしたい。
今は鉛筆で「貝がら姫」の絵本を日本語で書き写したりしている。普段そんなことはしないのに、だ。
それくらい今、とにかく日本語に飢えている――。
「筆は、どれくらいの大きさがいいんだ」
「ちょっと待ってな。うん……これくらいかな」
持っていた紙に太筆と細筆の実寸大の筆の絵を描き、その横に筆の質感をニライ・カナイの文字で書いて渡した。
――正直、あまり期待はしていない。あの質感の筆は異世界――というか、書道が存在する国以外ではまず手に入らないだろう。
(…………)
渡した紙をロランが興味深く眺めている。
最初こそ無機質で冷たい奴だと思っていたが、このロランという青年は会話が下手なだけで根はかなり純朴だと感じた。
会話が下手なのは、彼の師匠であるゴーチエという人間の影響を強く受けているからだろう。
会ったことがないのに失礼だが、ゴーチエとやらは絶対にろくでもない人間だ。
どれだけ褒めても、ロランからは自分を下げる発言しか返ってこない。
塾講師時代に、こういった生徒が何人かいた。田中君もその1人だ。いずれも家庭に問題がありそうな生徒だった。
おそらくゴーチエはロランをほとんど一切褒めず、貶すことしかしてこなかった。だから褒め言葉を〝まやかし〟のように受け取ってしまうのだ。
ふとロランの手元を見ると、爪はボロボロ、指先はささくれや皮膚がめくれており血の跡がいくつもあった。
ロランはよく爪を噛んでいる。甥の〝ゆう君〟も爪をかじる癖があったが、ここまでひどくはない。
少し顔を突き合わせただけだが、心に相当な問題を抱えていそうだ――そう思った。
――屍霊術師なんか、ホンマはやりたないんちゃうんかな。
なんでこんな仕事してんねやろ?
魔法使えるんやったら、もっとちがう仕事ありそうやのに……。
気づかぬうちにトモミチの思考は「知らない所持品・知らない記憶に対する疑問」から、「ロランという人間に対する興味」へと逸れていっていた。
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