深い森の彼方に

とも茶

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第九章 深まる疑問

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家に帰り着いて、シャワーを浴びて少し冷静になったところでもう一度振り返ってみた。
私、長身の娘、リーダー、誰もが「代名詞」か「普通名詞」であって、「固有名詞」ではなかった。たぶん背景と思われる、あの宿舎にいた厚化粧の女や奇声の老婆、かのオフィスにいた上司やネイルの女、誰も「姓名」を知らなかった。名前らしきもので呼び合っているのも聞かなかった。すなわち「固有名詞」がわかっている人が自分も含めて全くいなかった。
それは人名だけでなかった。あの最初に掃除婦として雇われた学校も、そしてOLとして通っていて消滅してしまったあの会社も、そして長身の彼女といつも会っているあのコーヒーショップも、何という名称なのかさえわからなかった。
もちろん、この国の名前、県名、町名、一切わからなかった。通りも地下街も公園も一切何という名称なのかわからなかった。この世界に「固有名詞」というものが存在していないのだろうか。
身の回りのものを見てみた。冷凍食品の包装を、お菓子の袋を、ストーブの銘盤を、服のタグを、かたっぱしから固有名詞が書かれているはずのものを調べた。ハンバーグであり、クッキーであり、温風ファンヒーターであり、ウール製のセーターであったが、商品名や製造社名、販売社名は一切書かれていなかった。あわてて、コンビにのレシートを探し出した。パン、缶コーヒー、ストッキング・・・品名は書かれている。店名も販売員の名はなかった。
それはなぜ?
先日、長身の彼女と話し合った「この社会のしくみが存在していない」ためなのか?
あらゆる人たちや町の風景が単なる背景だから?
じゃあ、なぜ触れても消えることがない自分自身や長身の娘やリーダーまで名前がわからないのか? 背景でない人たちまで名前がないのか?
必死になって深い森の向こう側の世界で男だった時のことを思い出そうとした。住んでいた場所、働いていた会社、町の様子、全て思い浮かべることができた。じゃあ、何ていう町だったの、何ていう会社だったの、全くわからなくなっていた。
両親や親しかった人たちの顔も思い出すことはできた。でも名前はわからなかった。一度、城郭から放り出されて森を抜け出した時のことも思い返した。たしかに、町の雰囲気はわかったが、地名や社名や駅名はわからなかったし、具体的に自分のいた場所に行こうとしてもできなかった。
具体的な「モノ」「場所」が特定できなかった。そして、どうしても自分の名前も思い出せなかった。

翌日いつものコーヒーショップに行った。
背景とわかっている店員とは普通に会話ができた。でも、お互いに「名前がわからない」長身の娘とどう接していいのか不安だった。お互いに生身の体は存在しているけど、架空の存在ではないのか。架空の人にどういうふうに話をしたらいいのか。会いたくてたまらないこの世界で唯一の友人なのに、会うのが怖かった。いや、本当にこれからも会うことができるのだろうか。
「よかった、会えて・・・」
私は長身の彼女の姿をコーヒーショップの入口に見つけたとき、深くにも涙が溢れた。
「どうしたの? 突然泣き出して、いったい何があったの?」
「会えて、よかった・・・ほんとに。もう会えないかと思った。」
「いったいどうしたのよ。昨日の夕方別れたばかりじゃない。何があったか、順を追って話してみて。」
「昨日、あなたと別れたあとリーダーにあって・・・」
「えっ、何だって? リーダーに会ったの?」
「そう、あの公園で。」
「いつごろ? 1時間くらいしてから?」
「たぶん、10分くらいしかたってないと思う。」
「うそ、ほんとに?」
「ほんとよ、何で?」
「実は私も会ったの。デパートの前で、それもやっぱり10分後くらい。」
「まさか、公園とデパートって全然別の方角じゃない。で、何を話したの?」
「仕事のこととか、これからの予定とか・・・」
「私の話は出なかった?」
「ううん、なかった。」
「実は私、リーダーからあなたのこと聞かれたの。友達ができたんだねって。そしてその友達なんていうんだいって聞かれたの。」
「なんて答えたの?」
「答えられなかった。あなたのこと何もしらないから。あなたがなんていう人なのかもわからないの。そしたら、自分のことも何もわからないってこと気付いたの。何でなの?」
「あなたも気づいていたのね。」
「わかってたの?」
「そう、でも怖くて言えなかった。」
「自分のことも分からないってこと?」
「そう、私もわからないの。自分が何ていう名前なのかも。ただ、向こうの世界にいたときの記憶はあるのよ。私も向こうでは男だったんだけど、でもどこで何をしていたのか具体的な記憶が全然ないの。」
「よかった。私と同じで。昨日初めて気が付いたの。何も具体的なことがわからないってことが、私のこともあなたのことも、この町のことも、昔あの森の向こうの世界で男だったときのことも、全然。」
「で、リーダーは何て言ってたの?」
「この世界のこと分かりかけたみたいだなって、でもまだまだだ、無理するなって。」
「やっぱりリーダーは分かってるのね。」
「たぶんね。じゃあ、どうする? リーダーのこと探る?」
「無理みたいね。リーダーは私たちのことすべてお見通しなんじゃないかしら。」
「それに、ひょっとしたらリーダーというのがほんとに生身の人間なのかどうかも・・・」
「なんで?」
「だって、昨日ほとんど同じ時間に公園とデパートの前と、全く同じ時刻に別の場所にいるなんて。」
「そうね。でも、リーダーのことわからないと私たち自分のこともわからない。」


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