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筆に秘めしもの
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黎花は夜ごと、夢を見た。
それはかつて故郷にいたころ、まだ幼い筆を持った少女だったころの記憶。
父は官僚、母は女官。ともに筆を執ることを誇りとし、黎花もまた筆の才を育まれた。
だがある日、父が冤罪で処刑されたことで、その穏やかな日々は崩れた。
母は後を追うように衰弱し、若くして命を落とした。
黎花は書の家系に生まれながら、筆を持つことすら許されない「罪人の娘」として生きることを余儀なくされた。
それでも筆を手放すことはなかった。
文字を綴ることが、生きる術であり、祈りであり、かすかな希望だったから。
⸻
「将軍。新たな命令書を起草いたしました」
黎花が手渡した文は、完璧だった。
軍の士気を保ち、城主にも動揺を与えぬ絶妙な文言。
杜若はそれに目を通しながら、小さく唸った。
「……黎花、貴女はただの書記ではないな」
「将軍?」
「文に魂がある。戦場で血を流す兵の声を聞いていなければ、こんな書き方はできぬ」
黎花は微笑む。
「将軍の傍にいて、初めて知りました。血を流す者の“重さ”を」
「それは……重いものだ」
そのとき、軍の斥候が慌ただしく駆け込んだ。
「報告! 南の関所にて、反乱軍と見られる者が越境を試みたとの情報が!」
「何者だ?」
「名は不明。ただ……“流離の筆士”と名乗っていたとか」
黎花が息を呑んだ。
その名は、かつて彼女が筆を教わった人物――
黎花の亡父が書を継がせようとしていた唯一の弟子、蕭(しょう)だった。
⸻
その夜、黎花は杜若の帳を訪れた。
「将軍。お話がございます」
「なんだ?」
「私を、南の関所へ行かせてください。あの者の正体を、私が見極めます」
「なぜだ。知っているのか」
「……はい。過去に、筆を通して深く関わった人物です」
杜若は一瞬、目を細めた。
「命の保証はない。むしろ、貴女自身を囮に使われる危険もある」
「覚悟はしています。……けれど、放ってはおけません。過去と決別せずに、前には進めないのです」
しばし沈黙が流れ――
「……ならば、私も行こう」
「え?」
「貴女ひとりなど、到底許せぬ。護衛として、私が随行する」
黎花は驚きと共に、その言葉の裏にあるものを感じた。
それは、将軍としてではなく――ひとりの男としての、深い想い。
⸻
翌朝、杜若と黎花は密かに南関所へと向かった。
山を越え、霧深き渓谷を抜け、石畳の細道を進む。
その途中、杜若がふと口を開いた。
「黎花。貴女の記す物語は、どこへ向かっているのだろうな」
「私にもまだわかりません。ただ――」
「ただ?」
「もし許されるのなら、その物語の結末には、あなたがいる気がするのです」
杜若の表情が、わずかに和らぐ。
「それは、光栄だ」
⸻
そして関所にて、ふたりは再会する。
流離の筆士――蕭は、まるで黎花の面影を追いかけるかのように、彼女に問うた。
「君は……まだ、あの炎の中で筆を取っているのか」
「ええ。筆を持ち続ける限り、私は誰の声も忘れません」
「ならば、お前はもう――俺よりずっと、遠くを見ているな」
その夜、蕭は密偵だったことを認め、自ら王都へと戻る決意をした。
黎花は黙って彼を見送った。
その背に、涙はなかった。
⸻
杜若とふたり、帰路につく。
「これで、貴女の過去は一区切りか」
「はい。ようやく、前に進めます」
杜若は黎花の肩に、そっと外套をかけた。
「ならば、これからは……私が風除けになろう」
「……将軍。あなたが傍にいてくれるなら、私はこの筆で、どんな風も書き換えます」
ふたりの間に、初めて確かな約束が交わされた。
それは筆と剣――言葉と力が、寄り添うということの、始まりだった。
それはかつて故郷にいたころ、まだ幼い筆を持った少女だったころの記憶。
父は官僚、母は女官。ともに筆を執ることを誇りとし、黎花もまた筆の才を育まれた。
だがある日、父が冤罪で処刑されたことで、その穏やかな日々は崩れた。
母は後を追うように衰弱し、若くして命を落とした。
黎花は書の家系に生まれながら、筆を持つことすら許されない「罪人の娘」として生きることを余儀なくされた。
それでも筆を手放すことはなかった。
文字を綴ることが、生きる術であり、祈りであり、かすかな希望だったから。
⸻
「将軍。新たな命令書を起草いたしました」
黎花が手渡した文は、完璧だった。
軍の士気を保ち、城主にも動揺を与えぬ絶妙な文言。
杜若はそれに目を通しながら、小さく唸った。
「……黎花、貴女はただの書記ではないな」
「将軍?」
「文に魂がある。戦場で血を流す兵の声を聞いていなければ、こんな書き方はできぬ」
黎花は微笑む。
「将軍の傍にいて、初めて知りました。血を流す者の“重さ”を」
「それは……重いものだ」
そのとき、軍の斥候が慌ただしく駆け込んだ。
「報告! 南の関所にて、反乱軍と見られる者が越境を試みたとの情報が!」
「何者だ?」
「名は不明。ただ……“流離の筆士”と名乗っていたとか」
黎花が息を呑んだ。
その名は、かつて彼女が筆を教わった人物――
黎花の亡父が書を継がせようとしていた唯一の弟子、蕭(しょう)だった。
⸻
その夜、黎花は杜若の帳を訪れた。
「将軍。お話がございます」
「なんだ?」
「私を、南の関所へ行かせてください。あの者の正体を、私が見極めます」
「なぜだ。知っているのか」
「……はい。過去に、筆を通して深く関わった人物です」
杜若は一瞬、目を細めた。
「命の保証はない。むしろ、貴女自身を囮に使われる危険もある」
「覚悟はしています。……けれど、放ってはおけません。過去と決別せずに、前には進めないのです」
しばし沈黙が流れ――
「……ならば、私も行こう」
「え?」
「貴女ひとりなど、到底許せぬ。護衛として、私が随行する」
黎花は驚きと共に、その言葉の裏にあるものを感じた。
それは、将軍としてではなく――ひとりの男としての、深い想い。
⸻
翌朝、杜若と黎花は密かに南関所へと向かった。
山を越え、霧深き渓谷を抜け、石畳の細道を進む。
その途中、杜若がふと口を開いた。
「黎花。貴女の記す物語は、どこへ向かっているのだろうな」
「私にもまだわかりません。ただ――」
「ただ?」
「もし許されるのなら、その物語の結末には、あなたがいる気がするのです」
杜若の表情が、わずかに和らぐ。
「それは、光栄だ」
⸻
そして関所にて、ふたりは再会する。
流離の筆士――蕭は、まるで黎花の面影を追いかけるかのように、彼女に問うた。
「君は……まだ、あの炎の中で筆を取っているのか」
「ええ。筆を持ち続ける限り、私は誰の声も忘れません」
「ならば、お前はもう――俺よりずっと、遠くを見ているな」
その夜、蕭は密偵だったことを認め、自ら王都へと戻る決意をした。
黎花は黙って彼を見送った。
その背に、涙はなかった。
⸻
杜若とふたり、帰路につく。
「これで、貴女の過去は一区切りか」
「はい。ようやく、前に進めます」
杜若は黎花の肩に、そっと外套をかけた。
「ならば、これからは……私が風除けになろう」
「……将軍。あなたが傍にいてくれるなら、私はこの筆で、どんな風も書き換えます」
ふたりの間に、初めて確かな約束が交わされた。
それは筆と剣――言葉と力が、寄り添うということの、始まりだった。
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