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紅梅の約定
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都より届けられた密命が、杜若の陣に緊張を走らせていた。
「敵軍、再び北東の谷より侵攻の兆しあり。使者によれば、王命により“戦の回避”を第一とせよとのことです」
報告を聞き、将軍・杜若の眉がぴくりと動く。
「戦の回避? この状況でか」
「はい。しかし敵軍は、既に兵を二千集め、境を越えるのは時間の問題かと……」
杜若は沈黙した。戦うべきか、退くべきか――。
軍師としての決断より、彼にはもうひとつ、思い悩む理由があった。
黎花の存在だった。
彼女を戦の渦に巻き込みたくはない。だが彼女がいなければ、軍の意志も保てない。
その矛盾が、日ごとに彼を縛っていた。
⸻
その晩、黎花は帳の外でひとり紅梅を見ていた。
砦の裏山には、季節を忘れたかのように一輪だけ咲く紅梅があった。
「こんな寒さの中でも、咲くのですね……」
彼女が呟いたとき、後ろから足音が近づいた。
「紅梅は、戦乱の中でも散らぬ。そう言われている」
杜若だった。
「将軍。王からの密命、届いたのでしょう?」
「……ああ。戦を避けよと」
「けれど、敵は迫っている」
「そうだ。戦を避けるには、命を差し出すか、敵を欺くしかない」
「それは……まるで筆の勝負のようですね」
黎花が微笑むと、杜若も静かに頷いた。
「だからこそ、貴女の筆が必要だ。……一度だけ、お前に“偽り”の文を依頼してもよいか」
黎花は目を見開いた。
「偽り、ですか?」
「敵に宛てた和議の文。だがそれは、囮だ。交渉の間に、こちらの兵を動かす。……相手が和議を望むと信じ込ませるために、真実を巧妙に隠す必要がある」
「……わかりました。私の文で、敵が動くのなら」
黎花は迷いなく頷いた。
「ですが、もし筆が敗れたら?」
「そのときは剣が守る。それが私の役目だ」
そう言い切った将軍の横顔に、黎花は初めて「ひとりの男」としての彼を見た。
⸻
黎花は夜通し筆を走らせた。
交渉の余地を残しつつ、相手の誇りを傷つけず、戦の火蓋を下ろす。
まさに、筆と刃のせめぎ合いだった。
翌朝、杜若はその文を手にし、黎花を見た。
「……これは、真の将が書くべきものだ。黎花、お前はこの戦の要だ」
「いえ。あなたが、この筆を信じてくれたから」
ふたりの間に、またひとつ確かな絆が生まれた。
⸻
数日後、敵将・蕭涼(しょうりょう)は文を受け取り、和議の席に現れた。
だがそこは、すでに杜若が布陣を終えた罠だった。
戦わずして勝つ――策は見事に成功した。
敵軍は撤退し、戦は回避された。
その夜、黎花は再び紅梅の前にいた。
杜若が隣に立ち、ふたり、風に揺れる紅を見上げる。
「あなたが守ったのです。この地も、兵も……そして、私も」
「いや。貴女の筆が、戦を止めた」
「将軍。……いえ、杜若様。今夜、ひとつだけお願いがあります」
「なんだ?」
「この紅梅の下で、短い約定を。たとえ未来がどれほど遠くても、再び、この紅梅の下で……共に笑える日が来るように」
杜若は、そっと彼女の手を取った。
「約定しよう。たとえ戦が千年続こうとも、私は君を守り抜く」
凛と咲く紅梅の花弁が、ふたりを包むように舞った。
「敵軍、再び北東の谷より侵攻の兆しあり。使者によれば、王命により“戦の回避”を第一とせよとのことです」
報告を聞き、将軍・杜若の眉がぴくりと動く。
「戦の回避? この状況でか」
「はい。しかし敵軍は、既に兵を二千集め、境を越えるのは時間の問題かと……」
杜若は沈黙した。戦うべきか、退くべきか――。
軍師としての決断より、彼にはもうひとつ、思い悩む理由があった。
黎花の存在だった。
彼女を戦の渦に巻き込みたくはない。だが彼女がいなければ、軍の意志も保てない。
その矛盾が、日ごとに彼を縛っていた。
⸻
その晩、黎花は帳の外でひとり紅梅を見ていた。
砦の裏山には、季節を忘れたかのように一輪だけ咲く紅梅があった。
「こんな寒さの中でも、咲くのですね……」
彼女が呟いたとき、後ろから足音が近づいた。
「紅梅は、戦乱の中でも散らぬ。そう言われている」
杜若だった。
「将軍。王からの密命、届いたのでしょう?」
「……ああ。戦を避けよと」
「けれど、敵は迫っている」
「そうだ。戦を避けるには、命を差し出すか、敵を欺くしかない」
「それは……まるで筆の勝負のようですね」
黎花が微笑むと、杜若も静かに頷いた。
「だからこそ、貴女の筆が必要だ。……一度だけ、お前に“偽り”の文を依頼してもよいか」
黎花は目を見開いた。
「偽り、ですか?」
「敵に宛てた和議の文。だがそれは、囮だ。交渉の間に、こちらの兵を動かす。……相手が和議を望むと信じ込ませるために、真実を巧妙に隠す必要がある」
「……わかりました。私の文で、敵が動くのなら」
黎花は迷いなく頷いた。
「ですが、もし筆が敗れたら?」
「そのときは剣が守る。それが私の役目だ」
そう言い切った将軍の横顔に、黎花は初めて「ひとりの男」としての彼を見た。
⸻
黎花は夜通し筆を走らせた。
交渉の余地を残しつつ、相手の誇りを傷つけず、戦の火蓋を下ろす。
まさに、筆と刃のせめぎ合いだった。
翌朝、杜若はその文を手にし、黎花を見た。
「……これは、真の将が書くべきものだ。黎花、お前はこの戦の要だ」
「いえ。あなたが、この筆を信じてくれたから」
ふたりの間に、またひとつ確かな絆が生まれた。
⸻
数日後、敵将・蕭涼(しょうりょう)は文を受け取り、和議の席に現れた。
だがそこは、すでに杜若が布陣を終えた罠だった。
戦わずして勝つ――策は見事に成功した。
敵軍は撤退し、戦は回避された。
その夜、黎花は再び紅梅の前にいた。
杜若が隣に立ち、ふたり、風に揺れる紅を見上げる。
「あなたが守ったのです。この地も、兵も……そして、私も」
「いや。貴女の筆が、戦を止めた」
「将軍。……いえ、杜若様。今夜、ひとつだけお願いがあります」
「なんだ?」
「この紅梅の下で、短い約定を。たとえ未来がどれほど遠くても、再び、この紅梅の下で……共に笑える日が来るように」
杜若は、そっと彼女の手を取った。
「約定しよう。たとえ戦が千年続こうとも、私は君を守り抜く」
凛と咲く紅梅の花弁が、ふたりを包むように舞った。
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