『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』の番外編

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月下の誓い、逃げる旅路に咲く花

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夜明け前の砦は、まだ夜の名残を抱いて静かだった。

黎花は、包みをいくつか用意しながら、胸の奥に沸き立つ不安と決意を抑えきれずにいた。

「本当に、逃げるしかないのですね……」

「都の命に背いた。もはや、ここにいれば貴女も危険だ」

背後から杜若の低く落ち着いた声が響いた。
彼の声は、変わらずに芯を持ち、強く、そして優しかった。

黎花はそっと彼を振り返る。

「杜若様。私、すべてを捨てても悔いはありません。ただ……あなたが傷つくのは、耐えられない」

「私もだ、黎花。だが、今は生き延びることが第一だ」

ふたりは静かに頷き合い、荷をまとめ、砦を離れる決意を固めた。



かつて兵の行進が響いた山道は、今や静寂の森へと変わっていた。

黎花と杜若は、旅衣を身にまとい、人目を避けるようにして山深くへと歩みを進めていた。

昼は隠れ、夜に歩く。

そんな逃避行の日々のなかで、ふたりは幾度となく身を寄せ合った。

とある満月の夜――

ふたりは小さな山寺の軒下に身を隠していた。

「静かですね……」

黎花は、空を見上げながら呟いた。

「追われる身なのに、不思議と心が穏やかだわ」

杜若は火を起こしながら、彼女にそっと布をかける。

「それは、隣に私がいるからだろう」

「ふふっ。ずいぶん自信家ですね」

「……ならば、もっと確かにしてやろう」

杜若は腰の小刀を抜き、懐から短冊のような紙を取り出した。

「これは?」

「婚誓の文だ。……官には認められずとも、我らの誓いに嘘はない」

そこには、ふたりの名と「終生共に在らん」と筆で綴られていた。

「私のすべてを、貴女に捧げよう。たとえ、都に名を奪われようと」

黎花の瞳が揺れる。

「……杜若様。私も、あなたに心を捧げます」

ふたりは月下、紙を焼き、その煙を空へと送った。

それは、誰にも見せぬ契り。

炎と煙は夜空へ舞い、月明かりに吸い込まれていった。



しかし、平穏は続かなかった。

数日後、小さな村の宿に潜んでいたふたりのもとへ、急報が届いた。

「将軍……都では、“杜若将軍、逆賊に堕ちた”と触れ回られております」

旧臣の一人が息を切らしながら告げた。

「逆賊、だと……?」

杜若はその言葉に眉をひそめた。

「王は、私に“謀反の企てあり”との濡れ衣をかぶせ、討伐令を下したようです」

「このままでは、将軍の故郷の村までも、巻き込まれます」

「……!」

黎花は、即座に杜若の顔を見た。

「戻るおつもりですか?」

「否――戦のために戻るのではない。真実を告げ、民を守るためだ」

「都に抗えば、討たれます……!」

「だが、私はただ逃げるだけの男ではない」

その眼差しには、武人の誇りが宿っていた。

黎花は、そっとその手を取った。

「ならば、私も行きます」

「……危険だ」

「危険でも、あなたのそばにいたいのです」

そのとき、杜若は初めて、彼女の額にそっと唇を落とした。

「……共に行こう。必ず、生きて戻ろう」



ふたりの逃避行は、ただの愛の旅では終わらなかった。
やがて彼らの歩みは、再び王都と、民と、そして真実を揺るがす大きなうねりとなってゆく――
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