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第四章
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【第四章】
墨香(ぼっこう)の試練
予修館での生活が始まり、数日が経った。
朝は鶏の鳴き声よりも早く起き、筆を磨き、経書を写す。
昼は館の一角で文官の実務補佐。夜はまた灯火のもとで、書の稽古と読書。
――決して優しい日々ではなかったが、杜若は一度も筆を置かなかった。
「……この子、ほんとに休まないのね。変わり者。」
遠巻きに眺める若者たちの声は冷たくもあり、しかし、どこか興味を含んでいた。
中でも、あの柳采琳だけは一切距離を詰めず、ただ時折、鋭い眼差しを向けてくるばかりだった。
*
ある日、予修館の館主・欧陽老(おうようろう)が自ら教室に現れた。
「諸君。来月、春季筆試(しゅんきひっし)を行う。」
静かな一言に、教室はざわめいた。
「筆試……って、もう?」
「早くないか? 入門者もまだ落ち着いていないのに……」
欧陽老は静かに掌を上げる。
「この国の筆は、時を待たぬ。鍛えずして国を支えられる者など、ひとりもおらぬ。――課題は、“時と人とを語る文”。七百字以内、書式自由。」
「自由……?」
杜若は、無意識に小さく呟いた。
「そう。自由。だが、それゆえに難しい。己の筆で何を書くか――お前たちの“内”が問われる。」
目の奥に何かを宿した欧陽老は、そのまま去っていった。
*
その夜。
杜若は筆を前にして、何度も紙を替えていた。
(“時と人とを語る文”……。私は、何を知っている?)
潯陽の村で生きてきた十余年。
名もなき村人の暮らし。飢えに耐え、病に倒れ、夢を持つことすら奪われる日々。
(私は、あの人たちの声を、都に伝えたくてここに来た――)
筆先が震えたが、やがて、迷いを捨てるように書き始めた。
「時は静かに流れる。だが、人は時に抗い、生きてゆく。
雨が降れば、土を耕し直し、
病が蔓延すれば、薬草を求めて山を登る。
文がなければ、口伝えに祈りを残す。
私の知る“人”は、そうやって時を超えてきた。
筆はその声をすくいあげる器――
私は、その器になりたい。」
静かに書き終えたとき、杜若の胸には奇妙な昂ぶりがあった。
初めて、「伝えた」という手応えを持ったのだ。
*
筆試当日。
生徒たちは次々と巻物を提出していく。
「ふん、見せびらかすような文なんて、誰でも書けるのよ。」
采琳の声が聞こえたが、杜若は応えなかった。
ただ、自分の書いた巻子を机の上に静かに差し出した。
そして、数日後――
予修館の門に張り出された筆試の結果は、驚くべきものだった。
第一位・杜若。
館内にざわめきが走る。
「女が……?」
「いや、まさか。あの子が……あの村出の?」
「……ほんとうに、あの文を自分で書いたのか?」
疑いと賞賛が交錯するなか、柳采琳だけは静かだった。
「……ふぅん。やるじゃない。少しだけ……興味が湧いてきたかも。」
その夜。
廊下を歩いていた杜若に、采琳が声をかけた。
「杜若。次の筆試、私も出るわ。今度は、負けないから。」
杜若は、一瞬驚いた後、微笑んだ。
「……お手柔らかに。」
ふたりの視線が交わる。
そこにあったのは、冷たさではない。互いの筆を認める者同士の、微かな敬意だった。
そしてその頃――
別の館で、その筆試の巻物を読んだ青年が、密かに唇の端を上げていた。
「面白い……この文を書いた者、ぜひ一度、会ってみたい。」
それは、後に杜若の運命を大きく動かす存在――
若き宰相候補、**謝 景融(しゃ・けいゆう)**であった。
(第四章 了)
墨香(ぼっこう)の試練
予修館での生活が始まり、数日が経った。
朝は鶏の鳴き声よりも早く起き、筆を磨き、経書を写す。
昼は館の一角で文官の実務補佐。夜はまた灯火のもとで、書の稽古と読書。
――決して優しい日々ではなかったが、杜若は一度も筆を置かなかった。
「……この子、ほんとに休まないのね。変わり者。」
遠巻きに眺める若者たちの声は冷たくもあり、しかし、どこか興味を含んでいた。
中でも、あの柳采琳だけは一切距離を詰めず、ただ時折、鋭い眼差しを向けてくるばかりだった。
*
ある日、予修館の館主・欧陽老(おうようろう)が自ら教室に現れた。
「諸君。来月、春季筆試(しゅんきひっし)を行う。」
静かな一言に、教室はざわめいた。
「筆試……って、もう?」
「早くないか? 入門者もまだ落ち着いていないのに……」
欧陽老は静かに掌を上げる。
「この国の筆は、時を待たぬ。鍛えずして国を支えられる者など、ひとりもおらぬ。――課題は、“時と人とを語る文”。七百字以内、書式自由。」
「自由……?」
杜若は、無意識に小さく呟いた。
「そう。自由。だが、それゆえに難しい。己の筆で何を書くか――お前たちの“内”が問われる。」
目の奥に何かを宿した欧陽老は、そのまま去っていった。
*
その夜。
杜若は筆を前にして、何度も紙を替えていた。
(“時と人とを語る文”……。私は、何を知っている?)
潯陽の村で生きてきた十余年。
名もなき村人の暮らし。飢えに耐え、病に倒れ、夢を持つことすら奪われる日々。
(私は、あの人たちの声を、都に伝えたくてここに来た――)
筆先が震えたが、やがて、迷いを捨てるように書き始めた。
「時は静かに流れる。だが、人は時に抗い、生きてゆく。
雨が降れば、土を耕し直し、
病が蔓延すれば、薬草を求めて山を登る。
文がなければ、口伝えに祈りを残す。
私の知る“人”は、そうやって時を超えてきた。
筆はその声をすくいあげる器――
私は、その器になりたい。」
静かに書き終えたとき、杜若の胸には奇妙な昂ぶりがあった。
初めて、「伝えた」という手応えを持ったのだ。
*
筆試当日。
生徒たちは次々と巻物を提出していく。
「ふん、見せびらかすような文なんて、誰でも書けるのよ。」
采琳の声が聞こえたが、杜若は応えなかった。
ただ、自分の書いた巻子を机の上に静かに差し出した。
そして、数日後――
予修館の門に張り出された筆試の結果は、驚くべきものだった。
第一位・杜若。
館内にざわめきが走る。
「女が……?」
「いや、まさか。あの子が……あの村出の?」
「……ほんとうに、あの文を自分で書いたのか?」
疑いと賞賛が交錯するなか、柳采琳だけは静かだった。
「……ふぅん。やるじゃない。少しだけ……興味が湧いてきたかも。」
その夜。
廊下を歩いていた杜若に、采琳が声をかけた。
「杜若。次の筆試、私も出るわ。今度は、負けないから。」
杜若は、一瞬驚いた後、微笑んだ。
「……お手柔らかに。」
ふたりの視線が交わる。
そこにあったのは、冷たさではない。互いの筆を認める者同士の、微かな敬意だった。
そしてその頃――
別の館で、その筆試の巻物を読んだ青年が、密かに唇の端を上げていた。
「面白い……この文を書いた者、ぜひ一度、会ってみたい。」
それは、後に杜若の運命を大きく動かす存在――
若き宰相候補、**謝 景融(しゃ・けいゆう)**であった。
(第四章 了)
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