『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第五章

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風は春より来たる

春まだ浅き南都。
空は晴れていても、風はひやりと肌を刺した。

その日、杜若は予修館の外へ出るよう命じられていた。
用件は、筆試で高位を取った者に与えられる「外試(がいし)」――
すなわち、実務官の補佐としての文書写しの試験である。

行き先は、「文政庁」――
若き官吏たちが集う、政の中心のひとつだった。



庁内に案内された杜若は、机と一束の文書を前に座る。

「これを清書してもらうが、ただ写すのではなく――誤字や矛盾があれば訂してもよい。」

そう命じたのは、冷静で理知的な若者だった。
その名を、謝 景融(しゃ・けいゆう)という。

(この人が、謝 景融……)

沈翊の話では、まだ二十代にして官の筆頭補佐に就く逸材。
かつての名家出身だが、奢らず、鋭く、そして――冷たい眼をしている。

杜若は挨拶し、黙って筆を取った。



時が流れた。
景融は、黙って杜若の作業を横目で見ていた。

(筆運びに無駄がない……が、それだけではないな)

彼の目がわずかに細められる。

杜若は、一通の報告文を読みながら、眉をひそめた。
そして、筆を止め、確認するように景融を見た。

「この文、末尾にある数字と前段の内容が一致していません。
里ごとの戸数報告にずれがあるようです。」

景融は、口元だけで微笑んだ。

「……そこに気づく者は、滅多にいない。」

「数字は人の命を映す鏡です。ずれていれば、見落とされた誰かがいるということです。」

きっぱりとした言葉。
景融は、それにしばし沈黙を返した後、ぽつりと言った。

「君のような者が、もっと早くここに来ていれば……」

杜若は首を傾げた。

「何か、あったのですか?」

景融の眼が、遠くを見つめた。

「三年前の飢饉。救援物資の記録に、小さな誤記があり……それだけで、ある村が配給から外された。
報告者は罷免され、だが命を落とした村人は、戻らない。」

静かな声。
そして、冷徹に見えた男の瞳に、わずかな痛みが滲んでいた。

杜若は、静かに頭を下げた。

「……私は、その人たちのためにも、間違えたくありません。」

その瞬間、景融の目がしっかりと杜若を見据えた。
まるで、何かを確かめるように。

「名は?」

「杜若です。」

「――いい筆だ。」

その言葉が、褒め言葉であることを悟るのに、彼女は少しだけ時間がかかった。



夕暮れ。庁舎を出た杜若に、春風が吹き抜けた。

(この風は……潯陽にいた頃とは違う)

都の風は冷たい。
だが、そこに混じるほんの少しの温もりを、彼女は確かに感じた。

それは、誰かの言葉が生んだもの。

「いい筆だ」

思いがけず受け取ったその評価が、杜若の胸に小さな灯をともした。

その日から――
彼女は、文をただ学ぶ者から、「誰かに伝える者」へと、変わり始めていた。

(第五章 了)
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