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第五章
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風は春より来たる
春まだ浅き南都。
空は晴れていても、風はひやりと肌を刺した。
その日、杜若は予修館の外へ出るよう命じられていた。
用件は、筆試で高位を取った者に与えられる「外試(がいし)」――
すなわち、実務官の補佐としての文書写しの試験である。
行き先は、「文政庁」――
若き官吏たちが集う、政の中心のひとつだった。
*
庁内に案内された杜若は、机と一束の文書を前に座る。
「これを清書してもらうが、ただ写すのではなく――誤字や矛盾があれば訂してもよい。」
そう命じたのは、冷静で理知的な若者だった。
その名を、謝 景融(しゃ・けいゆう)という。
(この人が、謝 景融……)
沈翊の話では、まだ二十代にして官の筆頭補佐に就く逸材。
かつての名家出身だが、奢らず、鋭く、そして――冷たい眼をしている。
杜若は挨拶し、黙って筆を取った。
*
時が流れた。
景融は、黙って杜若の作業を横目で見ていた。
(筆運びに無駄がない……が、それだけではないな)
彼の目がわずかに細められる。
杜若は、一通の報告文を読みながら、眉をひそめた。
そして、筆を止め、確認するように景融を見た。
「この文、末尾にある数字と前段の内容が一致していません。
里ごとの戸数報告にずれがあるようです。」
景融は、口元だけで微笑んだ。
「……そこに気づく者は、滅多にいない。」
「数字は人の命を映す鏡です。ずれていれば、見落とされた誰かがいるということです。」
きっぱりとした言葉。
景融は、それにしばし沈黙を返した後、ぽつりと言った。
「君のような者が、もっと早くここに来ていれば……」
杜若は首を傾げた。
「何か、あったのですか?」
景融の眼が、遠くを見つめた。
「三年前の飢饉。救援物資の記録に、小さな誤記があり……それだけで、ある村が配給から外された。
報告者は罷免され、だが命を落とした村人は、戻らない。」
静かな声。
そして、冷徹に見えた男の瞳に、わずかな痛みが滲んでいた。
杜若は、静かに頭を下げた。
「……私は、その人たちのためにも、間違えたくありません。」
その瞬間、景融の目がしっかりと杜若を見据えた。
まるで、何かを確かめるように。
「名は?」
「杜若です。」
「――いい筆だ。」
その言葉が、褒め言葉であることを悟るのに、彼女は少しだけ時間がかかった。
*
夕暮れ。庁舎を出た杜若に、春風が吹き抜けた。
(この風は……潯陽にいた頃とは違う)
都の風は冷たい。
だが、そこに混じるほんの少しの温もりを、彼女は確かに感じた。
それは、誰かの言葉が生んだもの。
「いい筆だ」
思いがけず受け取ったその評価が、杜若の胸に小さな灯をともした。
その日から――
彼女は、文をただ学ぶ者から、「誰かに伝える者」へと、変わり始めていた。
(第五章 了)
春まだ浅き南都。
空は晴れていても、風はひやりと肌を刺した。
その日、杜若は予修館の外へ出るよう命じられていた。
用件は、筆試で高位を取った者に与えられる「外試(がいし)」――
すなわち、実務官の補佐としての文書写しの試験である。
行き先は、「文政庁」――
若き官吏たちが集う、政の中心のひとつだった。
*
庁内に案内された杜若は、机と一束の文書を前に座る。
「これを清書してもらうが、ただ写すのではなく――誤字や矛盾があれば訂してもよい。」
そう命じたのは、冷静で理知的な若者だった。
その名を、謝 景融(しゃ・けいゆう)という。
(この人が、謝 景融……)
沈翊の話では、まだ二十代にして官の筆頭補佐に就く逸材。
かつての名家出身だが、奢らず、鋭く、そして――冷たい眼をしている。
杜若は挨拶し、黙って筆を取った。
*
時が流れた。
景融は、黙って杜若の作業を横目で見ていた。
(筆運びに無駄がない……が、それだけではないな)
彼の目がわずかに細められる。
杜若は、一通の報告文を読みながら、眉をひそめた。
そして、筆を止め、確認するように景融を見た。
「この文、末尾にある数字と前段の内容が一致していません。
里ごとの戸数報告にずれがあるようです。」
景融は、口元だけで微笑んだ。
「……そこに気づく者は、滅多にいない。」
「数字は人の命を映す鏡です。ずれていれば、見落とされた誰かがいるということです。」
きっぱりとした言葉。
景融は、それにしばし沈黙を返した後、ぽつりと言った。
「君のような者が、もっと早くここに来ていれば……」
杜若は首を傾げた。
「何か、あったのですか?」
景融の眼が、遠くを見つめた。
「三年前の飢饉。救援物資の記録に、小さな誤記があり……それだけで、ある村が配給から外された。
報告者は罷免され、だが命を落とした村人は、戻らない。」
静かな声。
そして、冷徹に見えた男の瞳に、わずかな痛みが滲んでいた。
杜若は、静かに頭を下げた。
「……私は、その人たちのためにも、間違えたくありません。」
その瞬間、景融の目がしっかりと杜若を見据えた。
まるで、何かを確かめるように。
「名は?」
「杜若です。」
「――いい筆だ。」
その言葉が、褒め言葉であることを悟るのに、彼女は少しだけ時間がかかった。
*
夕暮れ。庁舎を出た杜若に、春風が吹き抜けた。
(この風は……潯陽にいた頃とは違う)
都の風は冷たい。
だが、そこに混じるほんの少しの温もりを、彼女は確かに感じた。
それは、誰かの言葉が生んだもの。
「いい筆だ」
思いがけず受け取ったその評価が、杜若の胸に小さな灯をともした。
その日から――
彼女は、文をただ学ぶ者から、「誰かに伝える者」へと、変わり始めていた。
(第五章 了)
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