『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第九章

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筆に宿る声

文政庁・夏の政会――。
それは、年に一度、各庁筆録が一堂に会し、君主・朝帝の御前で文案と記録を正式に納める重要な日。

杜若は補佐役として筆録の一部を任され、会議場の片隅に控えていた。

「……緊張してる?」

柳采琳が横目で囁く。

「少し。でも、逃げません」

杜若は手にした細筆を握りしめた。
震えていた。けれど、その震えすら「書く者の責任」と思えるようになっていた。

開会の鐘が鳴り響いた――。

会場には、諸官、宰相、筆録、そして朝帝。
壮麗な帳の向こうに、若き君主がその姿を現す。

「開会の儀、始めよ」

その声にあわせ、諸官たちがそれぞれの進言と報告を述べはじめた。

杜若の任務は、景融と共に要点を筆に記し、記録書にまとめること。
だが、ある局面で予期せぬ事態が起こった。

「……書簡が、紛失しました」

内政庁からの重要進言文が、会場で見当たらない。
沈黙が走る。

「筆録よ、その内容を即座に起こせるか?」

朝帝の声が低く響いた。
場の注目が景融に集まる。が、彼は目を伏せて言った。

「私が草案したものではなく、内容を完全には記憶しておりません」

重い空気が張りつめる――そのとき。

「わたくしが、書き記しておりました」

杜若が一歩、前に出た。

「草案の補筆として、別紙に筆録してございます」

驚きとざわめきが広がる中、杜若は静かに巻物を取り出し、堂々と読み上げはじめた。

「――第二節、都南市街の排水整備に関する議案。近隣三郡の協力体制の整備については……」

語るように、響くように、書の流れが口をついて出る。

まるで、筆そのものに心が宿っていたかのように。

会場がしんと静まり返る。
景融はその横顔を見つめながら、かすかに笑みを浮かべていた。

(ああ――この声は、人の心に届く)

読み終えた瞬間、朝帝が言った。

「良い筆録だ。名は?」

杜若は深く一礼し、名乗った。

「南郊予修館出身、杜若(とじゃく)と申します」

短い沈黙の後、朝帝が微笑んだ。

「記録役を逸するな。今日より、筆吏名簿に名を記すこととする」

静かに、しかし確かにその場に記された名。
杜若は、ついに「筆録官補」として、名を都に知られることとなった。



その夜。文政庁の一角で、景融が声をかけてきた。

「やはり、君は“書く者”だな」

「……まだまだ、私は未熟です」

「未熟だからこそ、人の声を聞ける。だからこそ、強い」

景融の手が、そっと杜若の肩に触れた。

「君が筆をとる限り、私もまた筆を捨てずにすむ。……ありがとう」

それは、静かな告白だった。

杜若の胸に、言葉ではない感情がじんわりと広がっていく。

(この筆が、誰かの心と通じ合えたなら――)

都の空に、夏の星がまたたいていた。

(第九章 了)
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