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第十章
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筆に映る宿命
筆録官補として都中に名が広まった杜若(とじゃく)は、喜びよりも先に、日々の忙しさと視線の重さに追われるようになっていた。
「お前があの“筆の少女”か。なかなかの器量だな」
「才があっても、礼儀を欠けば浮ついた娘に見えるぞ。気をつけることだ」
文政庁を出た後も、道を歩けば通行人の視線が追ってくる。
その中には賞賛もあったが、同じくらいの好奇と嫉妬が混ざっていた。
ある日、執務室で柳采琳(りゅう・さいりん)が紙束をドンと机に置き、ため息をついた。
「……これ、すべて君宛てよ」
「私に……?」
「杜家に直接届いた縁談の申し出。あんたが“才ある娘”として上級官吏の家に嫁げば、家も出世が見込めるって評判になってる。まあ、見事な打算よね」
采琳の言葉に、杜若はそっと目を伏せた。
「……誰も、私の“筆”を見ていない」
そう呟いた彼女に、采琳は少し驚いた顔で言った。
「でもあんた、自分の筆が誰かの心に届くと信じてたんじゃなかった?」
杜若は黙った。
心に、少しだけ迷いが差していた。
*
その夜。
文政庁の書庫に、一人の影が灯の下で紙を見つめていた。
景融(けい・けいゆう)だった。
彼の手にあるのは、古びた一巻の文案。
「……あの時、私は書けなかった」
月明かりが、紙の上に落ちる。
数年前。彼がまだ若手筆録官だった頃。
都西部で発生した民衆蜂起を巡る記録の中に、景融が直接目にした“不当な鎮圧”があった。
その事実を記録に残そうとしたとき――
上層部からの圧力により、彼は筆を折らされ、以後“都合のよい筆録”として扱われてきた。
「誰かが筆を折ると、真実は紙の外で風化していく」
彼は目を閉じた。
(だが、あの子は……杜若は、それでも書こうとする)
灯火が小さく揺れた。
*
翌日。
景融は執務室に入ってきた杜若に、静かに紙の一枚を差し出した。
「これは……?」
「私が、かつて書けなかった文案だ。都西部での鎮圧に関する“真実”を、記すことなく封じた記録」
杜若は、その紙を両手で受け取った。
「……これを、私に託すのですか?」
「君なら書ける。いや、君にしか書けない。“恐れずに記す筆”を、私は見てきた」
沈黙の中、杜若はそっと頷いた。
「……私にとって、筆は、ただの記録ではありません。人の声を、誰にも奪わせたくない。……だから、書きます」
ふたりの視線が重なった。
それは、真実を記す者同士の“誓い”のようだった。
*
その夜、杜若は机に向かい、筆をとる。
紙の上に、景融が託した“書けなかった真実”を、ひと文字ずつ、慎重に記していく。
(この筆が、誰かのために生きるのなら――)
夜が深まる中、書き続ける筆音だけが静かに響いていた。
(第十章 了)
筆録官補として都中に名が広まった杜若(とじゃく)は、喜びよりも先に、日々の忙しさと視線の重さに追われるようになっていた。
「お前があの“筆の少女”か。なかなかの器量だな」
「才があっても、礼儀を欠けば浮ついた娘に見えるぞ。気をつけることだ」
文政庁を出た後も、道を歩けば通行人の視線が追ってくる。
その中には賞賛もあったが、同じくらいの好奇と嫉妬が混ざっていた。
ある日、執務室で柳采琳(りゅう・さいりん)が紙束をドンと机に置き、ため息をついた。
「……これ、すべて君宛てよ」
「私に……?」
「杜家に直接届いた縁談の申し出。あんたが“才ある娘”として上級官吏の家に嫁げば、家も出世が見込めるって評判になってる。まあ、見事な打算よね」
采琳の言葉に、杜若はそっと目を伏せた。
「……誰も、私の“筆”を見ていない」
そう呟いた彼女に、采琳は少し驚いた顔で言った。
「でもあんた、自分の筆が誰かの心に届くと信じてたんじゃなかった?」
杜若は黙った。
心に、少しだけ迷いが差していた。
*
その夜。
文政庁の書庫に、一人の影が灯の下で紙を見つめていた。
景融(けい・けいゆう)だった。
彼の手にあるのは、古びた一巻の文案。
「……あの時、私は書けなかった」
月明かりが、紙の上に落ちる。
数年前。彼がまだ若手筆録官だった頃。
都西部で発生した民衆蜂起を巡る記録の中に、景融が直接目にした“不当な鎮圧”があった。
その事実を記録に残そうとしたとき――
上層部からの圧力により、彼は筆を折らされ、以後“都合のよい筆録”として扱われてきた。
「誰かが筆を折ると、真実は紙の外で風化していく」
彼は目を閉じた。
(だが、あの子は……杜若は、それでも書こうとする)
灯火が小さく揺れた。
*
翌日。
景融は執務室に入ってきた杜若に、静かに紙の一枚を差し出した。
「これは……?」
「私が、かつて書けなかった文案だ。都西部での鎮圧に関する“真実”を、記すことなく封じた記録」
杜若は、その紙を両手で受け取った。
「……これを、私に託すのですか?」
「君なら書ける。いや、君にしか書けない。“恐れずに記す筆”を、私は見てきた」
沈黙の中、杜若はそっと頷いた。
「……私にとって、筆は、ただの記録ではありません。人の声を、誰にも奪わせたくない。……だから、書きます」
ふたりの視線が重なった。
それは、真実を記す者同士の“誓い”のようだった。
*
その夜、杜若は机に向かい、筆をとる。
紙の上に、景融が託した“書けなかった真実”を、ひと文字ずつ、慎重に記していく。
(この筆が、誰かのために生きるのなら――)
夜が深まる中、書き続ける筆音だけが静かに響いていた。
(第十章 了)
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