『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第十二章

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筆と縁と

文政庁に戻った杜若は、以前とは少し違う視線を感じていた。
それは“噂”ではなく、“敬意”のまなざし。

「おかえりなさい、杜若さま」

「先日の記録、拝見しました。……胸が震えました」

若手官吏たちが、緊張しながらも真摯な声をかけてくる。
それに微笑みながら応える彼女の姿は、もはや庁内でも“名ばかりの補佐”ではなかった。

一方、景融は彼女を以前よりも一歩引いた場所から見守っていた。
その眼差しには、誇らしさと――わずかな迷いが浮かんでいる。

「……もう、私が教えることなどないかもしれないな」

ぽつりとつぶやいたその声は、誰にも届かなかった。



数日後。
杜家の屋敷に、文政庁経由の文書が届いた。

母・蘭芳が眉をひそめながら文を差し出す。

「……また縁談よ。今度は尚書省の左丞家。かなりの上位家門で、婿候補は年若いが聡明だと評判。あなたの名が政庁に届いた今、向こうも本気で迎えたいようね」

「……お断りして」

杜若の声は静かだった。

「私は、今は筆をとりたい。誰かの妻として家に入るために筆を学んだわけじゃありません」

蘭芳はため息をつく。

「そう言うと思ったわ。でも、これが都の現実。才ある女は“家のために使われる”の」

その夜。
杜若は庭の梅を見上げながら、独り静かに筆をとった。

(筆は、誰かのために折るものじゃない。私は――)

紙の上には、新たな記録の冒頭が綴られていく。
その文字には、迷いのない意志が宿っていた。



翌朝。景融は執務室で杜若を呼び止めた。

「……一つ、聞いてもいいか」

「はい?」

「君は……なぜ、筆にここまで心を込める?」

杜若はしばらく考え、こう答えた。

「きっかけは、小さな記録でした。飢えた村で、赤子を亡くした母がいました。『この子が生きた証を残してほしい』――その声を記録に残したとき、初めて“筆が人を救う”と知ったのです」

景融は黙って頷いた。

(君は、やはり“書くべき人間”だ)

だがその日、文政庁に一通の書簡が届く。

《杜若を左丞家に娶る縁談、内定とする。筆録官補の身分にあっても、婚姻による移籍は可能――》

景融の目が細められる。

「……何の、つもりだ」

庁内の静謐が、不穏に揺れ始める。



その夜。
景融はひとり、執務室で筆をとっていた。

《人の筆を奪い、才を封じるような婚姻が許されるのなら、それは筆録官の名に泥を塗ることと変わらない》

そう書かれた紙を見つめ、彼はふっと息を吐いた。

(私は……あの子の筆を、守れるだろうか)

そして、決意する。

(いや、守るべきだ。これはもう、ただの“教え子”の話ではない)

夜は更け、都に梅雨の気配が忍び寄っていた。

(第十二章 了)
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