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第十六章
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再会と、守るべきもの
都に戻った杜若が、文政庁に足を踏み入れたとき、朝の空気はまだ冷えきっていた。
だが心は、奇妙な熱を帯びていた。
(……景融さまに、伝えなければ)
調査の結果ではない――
彼の不在中、彼のいない日々の中で自分が何を思い、どう変わったのかを。
彼の執務室の前に立ち、呼吸を整える。
だが扉を開けたとたん、目に飛び込んできたのは、見知らぬ女官の姿だった。
「――お戻りでしたか。景融さまは今、李元台さまの邸にて会議に出られています」
杜若は軽く頭を下げ、静かに扉を閉めた。
胸の奥に、説明のつかない重さが残る。
(どうして……この胸のうずきは、筆を握っても消えないの?)
*
その夜。
ようやく邸に戻った景融は、書斎で杜若の報告書を開いていた。
(正確な観察。簡潔な筆致。――この書きぶりは、もう“補佐”ではない)
扉をノックする音。
「入れ」
入ってきたのは、報告書を書いた本人――杜若だった。
「あの……お時間、よろしいでしょうか」
「君の報告書は拝読した。簡潔かつ的確。よくやった」
「ありがとうございます」
それだけで、会話が止まる。
沈黙。だが、互いに言いたいことは山ほどあった。
「景融さま。お伝えしたいことがあります」
「……私もだ。だが、君から先に聞こう」
杜若は軽く息を吸い、目を閉じて、そして言った。
「私は、もう“守られる筆”ではありません。――“並び立つ筆”でありたいのです」
景融は、目を見開いた。
「あなたに学び、あなたの下で働き、私はいつしか“筆を持つこと”が自分自身の道だと信じるようになりました。
でもそれと同じくらい、あなたに伝えたいことがあるのです」
彼女の瞳はまっすぐだった。
「景融さま、私は……あなたが好きです」
静かな告白。
書簡でも筆でもなく、ただの一人の女としての言葉。
景融は、ふっと息を吐いた。
立ち上がり、ゆっくりと彼女の前に歩み寄る。
「……それは、私が言うはずだった」
「え?」
「君が“誰かを守る筆”に育ったこと、それが何より嬉しい。だが私は、それ以上に――君を一人の人間として愛している」
彼はそっと、彼女の手に自分の手を重ねた。
「だが、この想いを形にするには、越えねばならぬ壁がある。李家の名、官の慣習、そして……君自身の覚悟も」
杜若は、うなずいた。
「越えてみせます。私の筆も、心も――あなたと共に在りたいから」
二人の間に、長い長い沈黙があった。
それはもう、苦しさではなく、確かな想いの沈黙だった。
*
その翌朝。
景融は、自身の異動願を上奏した。
《筆録官・景融、筆録監督職を辞し、文政庁監察官として筆録制度改革に尽力することを願い出る》
筆録官という“筆の護り手”から、制度そのものを見直す“筆の創り手”へ。
それは、杜若の存在があったからこそ選べた新たな道だった。
(第十六章 了)
都に戻った杜若が、文政庁に足を踏み入れたとき、朝の空気はまだ冷えきっていた。
だが心は、奇妙な熱を帯びていた。
(……景融さまに、伝えなければ)
調査の結果ではない――
彼の不在中、彼のいない日々の中で自分が何を思い、どう変わったのかを。
彼の執務室の前に立ち、呼吸を整える。
だが扉を開けたとたん、目に飛び込んできたのは、見知らぬ女官の姿だった。
「――お戻りでしたか。景融さまは今、李元台さまの邸にて会議に出られています」
杜若は軽く頭を下げ、静かに扉を閉めた。
胸の奥に、説明のつかない重さが残る。
(どうして……この胸のうずきは、筆を握っても消えないの?)
*
その夜。
ようやく邸に戻った景融は、書斎で杜若の報告書を開いていた。
(正確な観察。簡潔な筆致。――この書きぶりは、もう“補佐”ではない)
扉をノックする音。
「入れ」
入ってきたのは、報告書を書いた本人――杜若だった。
「あの……お時間、よろしいでしょうか」
「君の報告書は拝読した。簡潔かつ的確。よくやった」
「ありがとうございます」
それだけで、会話が止まる。
沈黙。だが、互いに言いたいことは山ほどあった。
「景融さま。お伝えしたいことがあります」
「……私もだ。だが、君から先に聞こう」
杜若は軽く息を吸い、目を閉じて、そして言った。
「私は、もう“守られる筆”ではありません。――“並び立つ筆”でありたいのです」
景融は、目を見開いた。
「あなたに学び、あなたの下で働き、私はいつしか“筆を持つこと”が自分自身の道だと信じるようになりました。
でもそれと同じくらい、あなたに伝えたいことがあるのです」
彼女の瞳はまっすぐだった。
「景融さま、私は……あなたが好きです」
静かな告白。
書簡でも筆でもなく、ただの一人の女としての言葉。
景融は、ふっと息を吐いた。
立ち上がり、ゆっくりと彼女の前に歩み寄る。
「……それは、私が言うはずだった」
「え?」
「君が“誰かを守る筆”に育ったこと、それが何より嬉しい。だが私は、それ以上に――君を一人の人間として愛している」
彼はそっと、彼女の手に自分の手を重ねた。
「だが、この想いを形にするには、越えねばならぬ壁がある。李家の名、官の慣習、そして……君自身の覚悟も」
杜若は、うなずいた。
「越えてみせます。私の筆も、心も――あなたと共に在りたいから」
二人の間に、長い長い沈黙があった。
それはもう、苦しさではなく、確かな想いの沈黙だった。
*
その翌朝。
景融は、自身の異動願を上奏した。
《筆録官・景融、筆録監督職を辞し、文政庁監察官として筆録制度改革に尽力することを願い出る》
筆録官という“筆の護り手”から、制度そのものを見直す“筆の創り手”へ。
それは、杜若の存在があったからこそ選べた新たな道だった。
(第十六章 了)
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