『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第三十七章

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書かれし記憶、偽りの筆先

「……これは、わたしが書いたもの?」

深夜の筆録庁。
杜若は自室の帳を前に、呆然と佇んでいた。
そこには、自分では記した覚えのない一文があった。

『第六日未明、杜若は景融に密命を下す――“筆録庁を売れ”と。』

「そんなこと……わたしは言ってない……!」

けれど、筆跡は明らかに彼女のものだった。
さらに悪いことに、それを目にしたのは自分だけではなかった。

「……どういうことだ、杜若」

背後から低く響いた声に、彼女は振り返る。
そこにいたのは、景融だった。

彼は険しい目で帳を見つめ、その手には同じ記述が写された副本が握られていた。

「この写しは、筆録庁の備帳にも記されていた。つまり……主帳にも、副帳にも、“君がそう命じた”と書いてある」

「違う、わたしは……記してない。こんなの、誰かが……!」

「誰かが、君になりすまして書いたとでも?」

沈黙が落ちた。

景融の目に迷いはない。
けれど、その迷いのなさが、杜若には酷だった。
彼はただ、真実を知りたいのだ――疑いたくはないのに、疑わざるを得ない。

「……景融、信じて。わたしはそんな命令、出してない。記憶にもない」

「だが、“記録”があるんだ。君は、“記録こそが真実”だと教えてくれたじゃないか」

「……!」

杜若の胸に刺さったのは、自分がかつて口にした信条だった。
筆録官は、目で見たこと、耳で聞いたことだけを書く。
そこに私情は挟まない。だからこそ、その記録には意味があるのだと。

けれど、今――自分の記録が、自分の意志を裏切った。

彼女は机に突っ伏すように座り込み、震える声で呟いた。

「……じゃあ、わたしは……何を信じて、記せばいいの?」

景融は長く息を吐き、彼女の肩に手を置いた。

「記憶が信じられないなら――今を信じろ。
君がどうして筆を握ったのか、思い出してくれ。
“誰かの未来を守りたくて”書き始めたんだろ?」

「……うん」

「じゃあ、信じるべきは、君の“今の意志”だ」

その言葉に、杜若は顔を上げた。

景融の瞳は、揺れていない。

「……ごめんなさい、景融。わたし、ちょっと……弱気になってた」

「誰でもなるさ。
でも、君が筆を手放すなら、そのときは俺が記す。
君が戻って来るまで、俺が君の代わりに未来を守る」

「……ふふ、頼もしいわね。武官が帳を書くなんて」

「字は汚いがな。気持ちは書ける」

ふたりの間に、久しぶりに柔らかい笑みが戻った。

けれど、すべてが収まったわけではなかった。

その夜、杜若が眠りにつく直前、ふと帳をめくると――
そこには、また一文が浮かび上がっていた。

『杜若、近く“景融の命”と引き換えに庁を守る決意を固める。』

「……わたしは、そんなつもり、ない……でも、ほんとに……?」

静かに帳を閉じ、彼女は灯を消した。
筆の音が、遠くに聞こえた気がした。

それは――誰かが、別の帳に「彼女の未来」を書き記す音だった。

(第三十七章 了)
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