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第三十八章
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禁域、記されざる記録
筆録庁の奥に、誰も近づかぬ扉がある。
“過去帳の間”――そこは、歴代筆録官によって記された帳の山が眠る、禁じられた空間。
杜若は、灯を手に扉の前に立っていた。
「禁を破れば、筆録官としての資格を問われる……でも、今はそれよりも――」
彼女は小さく息を吐き、扉に手をかける。
重い音を立てて開いたその先は、無数の帳が収められた暗く静かな空間だった。
筆の音も、人の声もない。
ただ、帳の背表紙が時を積み重ねたように、沈黙を保っていた。
杜若は慎重に歩を進め、自分の名前が記された帳を探す。
見つけたのは、“杜若 初記録”と墨で記された一冊。
「わたしの、筆録官としての最初の帳……」
彼女は震える指でそれを開いた。
『初筆録。歳不詳。身元不詳。拾われし子。筆録官候補として保護。』
「……歳不詳? 身元不詳……?」
そこから先の記録が、妙に簡素だった。
まるで彼女が“どこから来たのか”を誰も知らなかったかのように。
さらにめくっていくと、奇妙な空白のページにたどり着いた。
何も書かれていない――いや、書かれた“形跡”がうっすら残っている。
「……これは、誰かが、消した?」
ふと棚の奥から一冊の帳が滑り落ちた。
それは“禁筆帳”――記録から抹消された内容が封じられた、筆録庁最奥の帳だった。
彼女は躊躇なくその帳を開く。
そして、そこに記された一文を目にした瞬間、息が止まる。
『杜若、かつて操筆の一族の預かり子。
幼き日に“帳を操る力”を発現し、封印のため筆録庁に送致。』
「……わたしが……?」
さらに続く記述があった。
『この力が再び目覚めれば、帳は意思を持ち、未来を狂わせる恐れあり。
ゆえに、本人には記録を知らせぬこと。
筆録官として育て、自己の力と錯覚させること。』
「……わたしは、“育てられた”んじゃなくて、“封じられていた”の……?」
頭がぐらりと揺れた。
今まで筆を執ってきた理由、誰かの未来を守るという使命――
すべてが“封印のために用意された道具”だったとしたら……?
――カサ……。
帳の間から、小さな影が動いた。
気配に気づいた杜若が顔を上げると、そこには一人の老筆録官が立っていた。
その顔には、見覚えがあった。
「……あなたは……」
「覚えておらぬか。お前を庁に迎えた、その者だよ」
老筆録官は手に一冊の帳を抱えていた。
「それは……?」
「お前の“未来帳”だ。……本当のな」
そして、彼は静かに帳を開いた。
『杜若、自身の出自を知り、筆を捨てる――が、再び手にし、“新たな記録”を選び取る。』
「……選び取る?」
「未来は定めではない。記す者が、意志で書き換えるものだ。
お前が何者であれ――選べ。己の筆で、何を書くのかを」
杜若は帳を閉じ、自分の筆を取り出した。
「……なら、わたしは決めた。
過去に“封印された”筆なら、今この瞬間から“解く”筆にする。
わたしは、“帳に書かれた未来”より、“誰かが生きようとする今”を記す」
そして、静かに一筆書いた。
『杜若、自らの意志で、禁を破り、新たな筆録の章を開く。』
帳が温かく震えた。
そして――長い間眠っていた記録たちが、わずかに音を立てて、彼女の筆に応え始めた。
(第三十八章 了)
筆録庁の奥に、誰も近づかぬ扉がある。
“過去帳の間”――そこは、歴代筆録官によって記された帳の山が眠る、禁じられた空間。
杜若は、灯を手に扉の前に立っていた。
「禁を破れば、筆録官としての資格を問われる……でも、今はそれよりも――」
彼女は小さく息を吐き、扉に手をかける。
重い音を立てて開いたその先は、無数の帳が収められた暗く静かな空間だった。
筆の音も、人の声もない。
ただ、帳の背表紙が時を積み重ねたように、沈黙を保っていた。
杜若は慎重に歩を進め、自分の名前が記された帳を探す。
見つけたのは、“杜若 初記録”と墨で記された一冊。
「わたしの、筆録官としての最初の帳……」
彼女は震える指でそれを開いた。
『初筆録。歳不詳。身元不詳。拾われし子。筆録官候補として保護。』
「……歳不詳? 身元不詳……?」
そこから先の記録が、妙に簡素だった。
まるで彼女が“どこから来たのか”を誰も知らなかったかのように。
さらにめくっていくと、奇妙な空白のページにたどり着いた。
何も書かれていない――いや、書かれた“形跡”がうっすら残っている。
「……これは、誰かが、消した?」
ふと棚の奥から一冊の帳が滑り落ちた。
それは“禁筆帳”――記録から抹消された内容が封じられた、筆録庁最奥の帳だった。
彼女は躊躇なくその帳を開く。
そして、そこに記された一文を目にした瞬間、息が止まる。
『杜若、かつて操筆の一族の預かり子。
幼き日に“帳を操る力”を発現し、封印のため筆録庁に送致。』
「……わたしが……?」
さらに続く記述があった。
『この力が再び目覚めれば、帳は意思を持ち、未来を狂わせる恐れあり。
ゆえに、本人には記録を知らせぬこと。
筆録官として育て、自己の力と錯覚させること。』
「……わたしは、“育てられた”んじゃなくて、“封じられていた”の……?」
頭がぐらりと揺れた。
今まで筆を執ってきた理由、誰かの未来を守るという使命――
すべてが“封印のために用意された道具”だったとしたら……?
――カサ……。
帳の間から、小さな影が動いた。
気配に気づいた杜若が顔を上げると、そこには一人の老筆録官が立っていた。
その顔には、見覚えがあった。
「……あなたは……」
「覚えておらぬか。お前を庁に迎えた、その者だよ」
老筆録官は手に一冊の帳を抱えていた。
「それは……?」
「お前の“未来帳”だ。……本当のな」
そして、彼は静かに帳を開いた。
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「……選び取る?」
「未来は定めではない。記す者が、意志で書き換えるものだ。
お前が何者であれ――選べ。己の筆で、何を書くのかを」
杜若は帳を閉じ、自分の筆を取り出した。
「……なら、わたしは決めた。
過去に“封印された”筆なら、今この瞬間から“解く”筆にする。
わたしは、“帳に書かれた未来”より、“誰かが生きようとする今”を記す」
そして、静かに一筆書いた。
『杜若、自らの意志で、禁を破り、新たな筆録の章を開く。』
帳が温かく震えた。
そして――長い間眠っていた記録たちが、わずかに音を立てて、彼女の筆に応え始めた。
(第三十八章 了)
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