『春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―』前日譚

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第四十五章

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焔に焼かれた帳

白帳が地に落ちたその瞬間、谷には沈黙が満ちた。
風が鳴り止み、鳥さえも声を潜めていた。

魏燕は、じっと帳を見つめていた。
その視線はいつもの冷酷さを欠き、むしろ――迷いに満ちていた。

「……声が、これほどまでに……」

その呟きは、自らに語りかけるようでもあり、誰かに懺悔するようでもあった。

杜若は一歩、彼に近づく。

「あなたも……本当は、帳に縛られた人だったんじゃないの?」

魏燕の目が、鋭く動く。だが、否定はしなかった。

「筆録庁で育った。帳こそが真実。筆がすべて――そう教わってきた。
だが……私の書いた帳は、誰にも読まれなかった。
いや、“読まれなかった”のではない。“読まれるべきでなかった”のだ」

彼は語り始めた。
かつて筆録庁で、無名の少年として学んでいたころのこと。
その帳には、人の弱さや哀しみ、誰にも知られぬ真実ばかりが書かれていた。

だがそれらは、上官にとって“不都合”だった。

「私は“燃やされた”。
私の書いた帳ごと、“在らざるもの”として処理された。
それが、あの夜の始まりだったのだ」

杜若の目が揺れる。

「……筆に裏切られたのね」

魏燕は黙って頷く。

「だから私は、“筆の力”を欲した。
帳を真実たらしめる力を、自らの手に取り戻すために。
そのためには、すべてを焼き尽くすしかなかった」

「……だけど、燃え残ったものがあるわ」

杜若の声は静かだった。

「あなたの中に、まだ残っていた。
語りたかった言葉。書きたかった物語。
……それが、わたしの声に揺れたの」

魏燕の拳が震えた。
地に落ちた白帳が、風に吹かれてゆっくりと開いた。

そこには――かつて彼が少年時代に書いた、初めての帳の筆致が、
微かに、風に乗って滲み出すように現れていた。

「……これは……」

「書いていないのに、記されている。
帳の力じゃない。心が、覚えていたのよ」

魏燕はしばらくその帳を見つめ、ようやく口を開いた。

「……敗けだ。
だが、帳の敗北ではない。
“記録”を愛した、かつての自分に――敗けたのだ」

彼はゆっくりと白帳を閉じ、杜若に向かって深く頭を下げた。

「……記し方は違えど、お前は“真実”を守った。
私の筆よりも、強く、優しく、確かに」

その瞬間、谷に春風が吹いた。

緊張していた空気がほどけ、鳥が歌い始め、人々の顔に安堵の色が戻る。

そして魏燕は、兵を伴わず、ひとり谷を後にした。

その背に、杜若はそっと語りかけた。

「……いつか、あなたの声も、誰かに届きますように」

(第四十五章 了)
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