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第四十四章
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筆なき挑戦
谷の朝は、淡い霧に包まれていた。
杜若は小高い丘の上で、風の流れを感じながら竹の管を手にしていた。
昨日届いた魏燕の言葉――
『声は、記されずとも、焔を呼ぶ』
それは、ただの警告ではなかった。
杜若には、魏燕が“声の力”に気づき、恐れているようにも感じられた。
「帳の力にすがるばかりだった人が、声を恐れるなんて……おかしいわよね」
「それだけ、君の声が届いてるってことさ」
景融は微笑んで言った。
「昔の魏燕なら、こんな曖昧な言葉で済ませたりしない。
わざわざ“筆でなく、声に反応した”ってことは……君の物語が、彼の心を動かしたんだよ」
「動かした……?」
「逆の意味で、ね。怖れを生んだ。だから、挑戦してくる」
その言葉の通り、間もなく谷の東の道に、一団の影が現れた。
黒衣の兵に囲まれた魏燕が、かつてのような威風堂々とした歩みで近づいてくる。
谷の人々は怯え、子どもたちは母親の背に隠れた。
杜若は前へ出る。
声は震えていたが、目は逸らさない。
「……帳を捨て、声を選んだ女よ。
風に乗せた言葉の余波が、都に届いたぞ。
貴様の語った物語が、筆録庁の記録と食い違っていた。
ならば、どちらが真実か――帳か、声か。試してみるか?」
魏燕が懐から取り出したのは、筆ではなかった。
一枚の帳――だがそれは、真っ白なままの“白帳”だった。
「これから起こることを、帳に記す。貴様の声と、どちらが人の心に刻まれるか――見せてみろ」
彼は白帳を掲げ、兵たちを従えて広場を囲ませた。
「……これは挑戦よ」
杜若は竹の管を握りしめ、静かに息を吸う。
「ならば、語ってみせる。
筆ではなく、帳ではなく――ただ、わたしの“声”で」
老婆がゆっくりと頷く。
景融がそっと背に手を添える。
そして、杜若は語り始めた。
それは――筆録庁の炎の夜。
帳のすべてが燃え尽きても、人が人を想うことをやめなかったあの夜の話。
彼女の声は最初、震えていた。
だが言葉を重ねるごとに、谷に住まう人々の目が変わっていく。
魏燕の兵たちまでもが、剣を下ろし、耳を澄ませていた。
「焔の中で、わたしは誓ったの。
もう帳に頼らない。けれど、決して忘れない。
語って、伝えて、守る――この心だけは、失わない」
その瞬間、風が吹いた。
谷を渡る風が、杜若の声をすくい上げるように、天へと運んでいった。
魏燕はその場に立ち尽くしていた。
白帳は、まだ白いままだった。
「なぜ……なぜ、書き記していないのに……」
彼の手から、帳が滑り落ちた。
それは、敗北を意味していた。
(第四十四章 了)
谷の朝は、淡い霧に包まれていた。
杜若は小高い丘の上で、風の流れを感じながら竹の管を手にしていた。
昨日届いた魏燕の言葉――
『声は、記されずとも、焔を呼ぶ』
それは、ただの警告ではなかった。
杜若には、魏燕が“声の力”に気づき、恐れているようにも感じられた。
「帳の力にすがるばかりだった人が、声を恐れるなんて……おかしいわよね」
「それだけ、君の声が届いてるってことさ」
景融は微笑んで言った。
「昔の魏燕なら、こんな曖昧な言葉で済ませたりしない。
わざわざ“筆でなく、声に反応した”ってことは……君の物語が、彼の心を動かしたんだよ」
「動かした……?」
「逆の意味で、ね。怖れを生んだ。だから、挑戦してくる」
その言葉の通り、間もなく谷の東の道に、一団の影が現れた。
黒衣の兵に囲まれた魏燕が、かつてのような威風堂々とした歩みで近づいてくる。
谷の人々は怯え、子どもたちは母親の背に隠れた。
杜若は前へ出る。
声は震えていたが、目は逸らさない。
「……帳を捨て、声を選んだ女よ。
風に乗せた言葉の余波が、都に届いたぞ。
貴様の語った物語が、筆録庁の記録と食い違っていた。
ならば、どちらが真実か――帳か、声か。試してみるか?」
魏燕が懐から取り出したのは、筆ではなかった。
一枚の帳――だがそれは、真っ白なままの“白帳”だった。
「これから起こることを、帳に記す。貴様の声と、どちらが人の心に刻まれるか――見せてみろ」
彼は白帳を掲げ、兵たちを従えて広場を囲ませた。
「……これは挑戦よ」
杜若は竹の管を握りしめ、静かに息を吸う。
「ならば、語ってみせる。
筆ではなく、帳ではなく――ただ、わたしの“声”で」
老婆がゆっくりと頷く。
景融がそっと背に手を添える。
そして、杜若は語り始めた。
それは――筆録庁の炎の夜。
帳のすべてが燃え尽きても、人が人を想うことをやめなかったあの夜の話。
彼女の声は最初、震えていた。
だが言葉を重ねるごとに、谷に住まう人々の目が変わっていく。
魏燕の兵たちまでもが、剣を下ろし、耳を澄ませていた。
「焔の中で、わたしは誓ったの。
もう帳に頼らない。けれど、決して忘れない。
語って、伝えて、守る――この心だけは、失わない」
その瞬間、風が吹いた。
谷を渡る風が、杜若の声をすくい上げるように、天へと運んでいった。
魏燕はその場に立ち尽くしていた。
白帳は、まだ白いままだった。
「なぜ……なぜ、書き記していないのに……」
彼の手から、帳が滑り落ちた。
それは、敗北を意味していた。
(第四十四章 了)
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