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西の月、咲かぬ花
しおりを挟む夜が明けぬうちに旅立った者がいた。
それは剣を帯びぬ戦士であり、血よりも深き“誓い”を背負った者。
西の空にかかる月は静かに、しかし確かに、帝国の運命を照らし始めていた。
⸻
黎翔の命を受け、蘇白明は西方・雲南へ向けて密使として発った。
同行するのは沈懐風から派遣された文吏一名と、変名を使った護衛役の兵数名。
険しい山道と複雑な地形を越えて五日後、彼らは雲南王国の外縁にある密会所へたどり着く。
その夜、静かに現れたのは、黒衣の青年――蒼蓮であった。
「お前が……蘇白明か」
「久しいな。蒼蓮。いや、“雲南王子”と呼ぶべきか」
「名などどうでもいい。我が求めるのは“正統”だ。帝国が帝国であるための、血の系譜を守ることだ」
「正統……か。だがそれは、民が望んだか?」
蒼蓮の眉がわずかに動く。
「貴様らが“民意”を盾に、王権を削いできたのではないか。文官政治、后の冊立……すべて“民意”を語るが、それは実のところ、一握りの者たちの意志に過ぎぬ」
「だから戦を起こすのか? 瑠璃を貶め、帝を追う。お前の正統は、憎しみに塗れた剣だ」
「違わぬ。だが、帝も剣を執ったではないか。ならば我も執る」
二人はしばし睨み合い、やがて蒼蓮がふと視線を外す。
「……本音を言えば、私もまた迷っている。国を守りたいのか、血の誇りを守りたいのか。いや、そのどちらも……すでに失っているのかもしれぬ」
白明は静かに問いかけた。
「ならば選べ。戦で奪うか、語り合いの中で築くか。俺たちは……今ならまだ選べる」
その言葉が、蒼蓮の胸にわずかな葛藤を残した。
「……明日の朝まで考えよう。私の幕舎に来い。答えはそのとき出す」
⸻
その夜、白明は簡素な客間で眠りについた。
だが、深夜。何者かがそっと忍び寄る気配。
「誰だ」
目を開けた白明の前に現れたのは、一人の少女だった。
年の頃は十五、六。だがその瞳は年齢を超えた哀しみと聡明さを湛えていた。
「あなたが、蘇白明……なのですね」
「……そうだ。お前は?」
「私は、蒼蓮様の侍女・花澄(かすみ)と申します。けれど、かつては都に住まっておりました」
「都?」
「ええ。父はかつて、帝に仕えておりました。……が、紫雲閣に連なる疑いをかけられ、処刑されました」
「……」
「私は、蒼蓮様に拾われたのです。けれど、今も都を憎むことはできません。私は、蒼蓮様にも、帝にも、瑠璃様にも……誰にも、血を流してほしくない」
白明は静かに座り直した。
「花澄。お前のような者がいる限り、きっとこの国はまだ終わらない。だから……俺は、話をしに来た」
花澄は頷き、そっと白明の前に紙片を差し出す。
「蒼蓮様が……この戦を決断した理由。私には分かる気がします。読んでください」
そこには、蒼蓮が密かに記した日記の断片があった。
“我が母は、都で忘れられた妃だった。
ただ王家の血を持つというだけで、帝からも民からも遠ざけられた。
その母が死ぬ間際に残した言葉がある。
『もし都に戻るなら、誰よりも強くあれ』と――”
白明は目を閉じた。
(蒼蓮よ、お前もまた、愛に飢えていたのだな)
⸻
一方その頃、都では新たな動きがあった。
瑠璃の指揮による後宮の整備が進む中、再び不審な動きが発覚する。
「密書です。紫雲閣の残党と思われる者からのもの。蒼蓮王子に成り代わり、“都を焚く”との記述があります」
沈懐風が厳しい表情で告げる。
「つまり、蒼蓮とは無関係に、都での暴動を仕掛ける者が動いている」
「はい。蒼蓮王子は“象徴”にされている可能性が高い」
瑠璃は静かに決断を下す。
「沈懐風、すぐに都の巡察を強化して。紫雲閣の動きを封じなければ、白明殿の交渉も水泡に帰す」
「御意」
瑠璃の背は細い。
だがその芯は、誰よりも強くなっていた。
⸻
翌朝、白明は蒼蓮の幕舎を訪れた。
「答えを聞こう、蒼蓮」
蒼蓮は一枚の紙を差し出す。
それは、都へ宛てた和平の書状だった。
「私は、戦を選ばぬ。
だがこの書状は、お前に託す。黎翔が読むまで、誰にも渡すな」
「……なぜ、俺に?」
「お前は信じられる。……私の中で、まだ残る“咲かぬ花”のような希望だ」
そのとき、外に激しい叫び声が響いた。
「敵襲――! 都より刺客が――!」
「何……っ」
白明と蒼蓮はすぐに外へ出る。
そこにいたのは、紫雲閣の紋をつけた兵たち。
「蒼蓮様、我らが代わりに血路を拓きましょう!」
「退け! 私は和平を選んだのだ!」
だが兵たちは聞き入れず、逆に蒼蓮に刃を向けた。
「もはや貴方に価値はない。我らは“焔の王”を立てる」
裏切り――。それは、もっとも近しい顔をしていた。
白明は剣を抜き、蒼蓮を守るように前に出る。
「話は終わった。ここから先は、俺の剣が語る」
そして、彼は立ち上がる。
友のために。帝のために。瑠璃のために。
そして、まだ咲かぬ未来の花のために。
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