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第3章
9区
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時刻は午後11時。
国内屈指の観光地といえども、そろそろ多くの店が店じまいを始める時刻。
ところが、ここウエスカータ第9区はまさに今から、繁華街の名にふさわしい夜の盛を迎えんとしている。
荒っぽい声が響き渡る飲み屋が軒を連ね、大声で騒ぎ合う若者や、酔っ払い同士の喧嘩が絶えない大通り。
一歩路地を入れば、煌々と光る街頭に集まる蝶のように派手な見た目の女たちと艶のある声、そして、その蝶を捕まえては屋敷へと消えていく男たちの下卑た笑い声が響く。
ところどころ目にする薄暗い建物は、おそらくただの屋敷ではないのだろう。
目的の場所を探して歩いていたため、前から歩いてきた男とぶつかる。
饐えた匂いが鼻をつく。
「おいっ!どこ見て歩いてんだっ!」
「は?」
よくもそんな安芝居みたいな台詞が言えるな、と男を殺気のこもった目で見る。
それだけで、男はしっぽ切りのトカゲよろしく逃げていくのだから笑える。
金髪を無造作にしばり、薄汚れたシャツにスラックスという姿は、どこから見ても男にしか見えないだろう。
キアラには少し申し訳なく思いながらも、ジャンヌはこの状況を楽しんでもいた。
======================================
「9区に泊まる?急にどうしたんです?」
グレゴリオにお礼と別れを告げ、次の目的地へと向かうために乗り込んだ馬車の中。
馭者に行き先を告げる直前、ジャンヌは商会にいる時には既に考えておいた台詞を、さも今思いつきましたという顔で切り出した。
「結局、ベスへのお土産はまだ買ってないだろ?思ったよりも早く次の目的地が分かったし、今日は8区でもう少し観光をしてから、9区に泊まって、明日の朝にでも職人のところに行けばいいんじゃないかと思ったんだ。」
「でも、いいんですか?折角カフスボタンのことが分かりそうだったのに。」
「職人はたった一日でいなくならないよ。それに、ボタン1つに、深読みしすぎた気もしてきたんだ。なんせ、あのグレゴリオの知り合いだなんて、後ろ暗いことなんてなさそうじゃない?」
むしろ、あのグレゴリオの知り合いだからこそ、ジャンヌのアーロン氏への疑いは増々深くなっていたが、そんなことはおくびにも出さない。
案の定、キアラはグレゴリオを思い出してか、息を吐くように笑った。
「そうですね。私も、やっぱり考え過ぎなんじゃないかとは思います。」
「調査はもちろん続けるけど、せっかくこんなに賑やかな8区に来たんだし、キアラが言っていたみたいに少しくらい息抜きをしてもいいんじゃないかと思って。」
「ジャンヌがそう言うなら。」
「じゃあ、決まりだね。」
「やったー!キアラ、ベス姉さまへのお土産、ボクも選ぶ!」
「はい!」
嬉しそうな顔で笑うキアラ。
そんな純粋な彼女と、詰まることなく嘘が吐ける自分を他人事のように比べる自分がいる。
「でも…泊まりの用意なんてしてませんけど?」
「ああ、それならお金で解決するから大丈夫。」
そう言ってポケットを叩くと、キアラは聞き慣れない外国語を耳にしたような顔をした。
「ここは繁華街だし、必要なものは揃うと思うよ。俺が出すから、何でも言って。」
「…一体いくら…、いえ、聞きません。聞きたくありません。私だって手持ちくらいありますので。」
「レディに出させるわけにはいかないよ。」
「そのレディに、必要なものなんて聞かないでください!女性は色々と物入りって言うじゃないですか。あなたは偽物だから分からないかもしれませんが?」
「ああ、なるほど。」
純粋で、優しくて、でも時折頑なな彼女を見るとつい構いたくなってしまうのは、自分の良からぬ性癖だろうか。
ジャンヌは身を乗り出すと、キアラの顔のすぐ横、寄りかかるその背もたれを押すようにして片腕をつく。
そして、キアラの耳元に唇を寄せて囁いた。
「そういう物なら、俺が選んで買ってこようか?」
あ、#本音_きもち__#を乗せすぎたかも、と思った次の瞬間、車内にパンっと乾いた音が響き渡った。
======================================
その後は、キアラの機嫌をうかがいながら奔走した。
すっかりジャンヌを警戒し、「女には女の買い物があります。変態には分からないでしょうが。」と真っ赤な顔で別行動を求めるキアラを、ウィリアムとともに説得して「店の目の前のカフェで待つ」という妥協案を容認してもらったり、ベスのお土産はキアラが出すと言うので譲歩したり、様々な食物で釣ってみたり(これが一番効いた気がする)。
ただ、最終的にはウィリアムとともに楽しそうに観光して、9区でも治安の良い地域に見繕ったオテルの食堂で夕食をとるときには、すっかり元に戻っていた。
結局彼女はお人好しなのだ。
まあ、ジャンヌからすれば、怒っているときの彼女もただの可愛い生き物でしかないのだが。
「キアラ様、流石に疲れました?」
「あ、すみません。そうですね、今日は慣れないことをして…緊張も、していたかもしれません。」
食後にお茶で一息ついているとき、気づくとキアラがうつらうつらと船を漕いでいた。
「そうですよね。遅い時間まで引っ張り回してすみません。今日はしっかり休んでくださいね。」
「いいえ、結局楽しんでしまいましたし…ありがとうございます。」
ジャンヌは、これなら、今夜はすっかり眠ってしまうだろうと薄く笑う。
そして、食後のココアを飲んでいるウィリアムをちらりと見ると、何かを察した神童はキアラの袖を引っ張る。
「ボク、今日はキアラ姉さんの部屋で一緒に寝たいなぁ。何だか、寂しくなっちゃった…。」
「まあ…!ええ、私でよければ一緒に寝ましょう!」
ジャンヌからみればあざとい、キアラからみたら幼気なおねだりがクリーンヒット。
早速上機嫌で部屋に戻ったキアラは、ウィリアムの着替えなどをジャンヌから受け取ると、眠気でぼんやりとした顔を緩ませて言った。
「おやすみなさい、ジャンヌ。よい夢を。」
「…おやすみ。」
その無防備な顔で隣の部屋へと消えるキアラに、2度目の平手をもらいそうな行動をとらなかったのは、奇跡だと思えた。
そこからジャンヌは外出用の格好に着替え、護身用にといくつかの道具を服に仕込むと、躊躇うことなくバルコニーから外に出た。
客としての姿と違う今、堂々とオテルの玄関から出て行けるわけもない。
しかし、少し考えたあと、隣のバルコニーとの距離を目測し、助走をつけて手すりを飛び移った。
トンっと軽い音とともに着地すると、針金をつかって鍵を開けた。
夜も更けた時間帯、淑女の部屋に入るのは明らかなルール違反だと承知の上だが、一応キアラが寝ていること確認しておこうと思ったのだ。
断じて、やましい気持ちはない。
「あ、やっぱり来ると思った。」
「…なんだ、お前はまだ起きていたのか。」
そろりと起き上がった小さな影は、もちろんウィリアム。
一瞬驚きに声が出そうだったのは、断じて、やましい気持ちがあったからではない。
「キアラなら、すっかり寝てるから大丈夫だよ。」
「あ、そう…」
声を潜めて話すこの5歳時は、すっかり何でもお見通しらしい。
来ることを見越して寝ずの番をするなど、やはりベアトリスの差し金。
本当に5歳時なのかと疑っていると、暗闇の中、弱々しい声が小さく落ちる。
「気をつけてね…」
ジャンヌはそれで、自分の誤解を知る。
ウィリアムは、何でも分かっているからこそ、ジャンヌが心配で眠れなかったのだろう。
己の無力を知りつつ、それを我慢するしかない悔しさは、ジャンヌにも痛いくらいに覚えがある。
「分かってるよ。なるべく早く帰ってくる。」
ジャンヌは暗闇に慣れてきた目でその姿を捉えると、ウィリアムの頭を撫で、頬に優しくキスをしてやる。
ウィリアムは少し安心したのか、隣を気にしながらベッドに潜り直す。
「ボクは寝てるから、キアラにもしていいよ。」
「何を?」
「おやすみのキス。」
「………」
前言撤回。
いや、本当、誰に教わるんだ。
ブツブツ言いながらもしっかり反対側に回り込むと、すっかり暗闇に慣れた目にその姿を映す。
夢でも見ているのか、ピクリと動く瞼につられて、長いまつ毛が微かに震える。
わずかに開いた唇からは、規則正しく甘い息が漏れて、それに合わせて上下する身体には掛け布がかかってたことは僥倖か。
だが、ジャンヌはその寝姿に、醜い欲望とは裏腹の、どこか神聖なものへの畏怖を感じていた。
頬にかかる柔らかな髪をそっとよけると、ジャンヌは身をかがめた。
何かを懇願するかのように、女神に祈りを捧げるように、優しく触れるだけの口づけを落とす。
「おやすみ…良い夢を。」
ジャンヌはもう一度バルコニーに出ると、今度こそ外へと抜け出した。
国内屈指の観光地といえども、そろそろ多くの店が店じまいを始める時刻。
ところが、ここウエスカータ第9区はまさに今から、繁華街の名にふさわしい夜の盛を迎えんとしている。
荒っぽい声が響き渡る飲み屋が軒を連ね、大声で騒ぎ合う若者や、酔っ払い同士の喧嘩が絶えない大通り。
一歩路地を入れば、煌々と光る街頭に集まる蝶のように派手な見た目の女たちと艶のある声、そして、その蝶を捕まえては屋敷へと消えていく男たちの下卑た笑い声が響く。
ところどころ目にする薄暗い建物は、おそらくただの屋敷ではないのだろう。
目的の場所を探して歩いていたため、前から歩いてきた男とぶつかる。
饐えた匂いが鼻をつく。
「おいっ!どこ見て歩いてんだっ!」
「は?」
よくもそんな安芝居みたいな台詞が言えるな、と男を殺気のこもった目で見る。
それだけで、男はしっぽ切りのトカゲよろしく逃げていくのだから笑える。
金髪を無造作にしばり、薄汚れたシャツにスラックスという姿は、どこから見ても男にしか見えないだろう。
キアラには少し申し訳なく思いながらも、ジャンヌはこの状況を楽しんでもいた。
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「9区に泊まる?急にどうしたんです?」
グレゴリオにお礼と別れを告げ、次の目的地へと向かうために乗り込んだ馬車の中。
馭者に行き先を告げる直前、ジャンヌは商会にいる時には既に考えておいた台詞を、さも今思いつきましたという顔で切り出した。
「結局、ベスへのお土産はまだ買ってないだろ?思ったよりも早く次の目的地が分かったし、今日は8区でもう少し観光をしてから、9区に泊まって、明日の朝にでも職人のところに行けばいいんじゃないかと思ったんだ。」
「でも、いいんですか?折角カフスボタンのことが分かりそうだったのに。」
「職人はたった一日でいなくならないよ。それに、ボタン1つに、深読みしすぎた気もしてきたんだ。なんせ、あのグレゴリオの知り合いだなんて、後ろ暗いことなんてなさそうじゃない?」
むしろ、あのグレゴリオの知り合いだからこそ、ジャンヌのアーロン氏への疑いは増々深くなっていたが、そんなことはおくびにも出さない。
案の定、キアラはグレゴリオを思い出してか、息を吐くように笑った。
「そうですね。私も、やっぱり考え過ぎなんじゃないかとは思います。」
「調査はもちろん続けるけど、せっかくこんなに賑やかな8区に来たんだし、キアラが言っていたみたいに少しくらい息抜きをしてもいいんじゃないかと思って。」
「ジャンヌがそう言うなら。」
「じゃあ、決まりだね。」
「やったー!キアラ、ベス姉さまへのお土産、ボクも選ぶ!」
「はい!」
嬉しそうな顔で笑うキアラ。
そんな純粋な彼女と、詰まることなく嘘が吐ける自分を他人事のように比べる自分がいる。
「でも…泊まりの用意なんてしてませんけど?」
「ああ、それならお金で解決するから大丈夫。」
そう言ってポケットを叩くと、キアラは聞き慣れない外国語を耳にしたような顔をした。
「ここは繁華街だし、必要なものは揃うと思うよ。俺が出すから、何でも言って。」
「…一体いくら…、いえ、聞きません。聞きたくありません。私だって手持ちくらいありますので。」
「レディに出させるわけにはいかないよ。」
「そのレディに、必要なものなんて聞かないでください!女性は色々と物入りって言うじゃないですか。あなたは偽物だから分からないかもしれませんが?」
「ああ、なるほど。」
純粋で、優しくて、でも時折頑なな彼女を見るとつい構いたくなってしまうのは、自分の良からぬ性癖だろうか。
ジャンヌは身を乗り出すと、キアラの顔のすぐ横、寄りかかるその背もたれを押すようにして片腕をつく。
そして、キアラの耳元に唇を寄せて囁いた。
「そういう物なら、俺が選んで買ってこようか?」
あ、#本音_きもち__#を乗せすぎたかも、と思った次の瞬間、車内にパンっと乾いた音が響き渡った。
======================================
その後は、キアラの機嫌をうかがいながら奔走した。
すっかりジャンヌを警戒し、「女には女の買い物があります。変態には分からないでしょうが。」と真っ赤な顔で別行動を求めるキアラを、ウィリアムとともに説得して「店の目の前のカフェで待つ」という妥協案を容認してもらったり、ベスのお土産はキアラが出すと言うので譲歩したり、様々な食物で釣ってみたり(これが一番効いた気がする)。
ただ、最終的にはウィリアムとともに楽しそうに観光して、9区でも治安の良い地域に見繕ったオテルの食堂で夕食をとるときには、すっかり元に戻っていた。
結局彼女はお人好しなのだ。
まあ、ジャンヌからすれば、怒っているときの彼女もただの可愛い生き物でしかないのだが。
「キアラ様、流石に疲れました?」
「あ、すみません。そうですね、今日は慣れないことをして…緊張も、していたかもしれません。」
食後にお茶で一息ついているとき、気づくとキアラがうつらうつらと船を漕いでいた。
「そうですよね。遅い時間まで引っ張り回してすみません。今日はしっかり休んでくださいね。」
「いいえ、結局楽しんでしまいましたし…ありがとうございます。」
ジャンヌは、これなら、今夜はすっかり眠ってしまうだろうと薄く笑う。
そして、食後のココアを飲んでいるウィリアムをちらりと見ると、何かを察した神童はキアラの袖を引っ張る。
「ボク、今日はキアラ姉さんの部屋で一緒に寝たいなぁ。何だか、寂しくなっちゃった…。」
「まあ…!ええ、私でよければ一緒に寝ましょう!」
ジャンヌからみればあざとい、キアラからみたら幼気なおねだりがクリーンヒット。
早速上機嫌で部屋に戻ったキアラは、ウィリアムの着替えなどをジャンヌから受け取ると、眠気でぼんやりとした顔を緩ませて言った。
「おやすみなさい、ジャンヌ。よい夢を。」
「…おやすみ。」
その無防備な顔で隣の部屋へと消えるキアラに、2度目の平手をもらいそうな行動をとらなかったのは、奇跡だと思えた。
そこからジャンヌは外出用の格好に着替え、護身用にといくつかの道具を服に仕込むと、躊躇うことなくバルコニーから外に出た。
客としての姿と違う今、堂々とオテルの玄関から出て行けるわけもない。
しかし、少し考えたあと、隣のバルコニーとの距離を目測し、助走をつけて手すりを飛び移った。
トンっと軽い音とともに着地すると、針金をつかって鍵を開けた。
夜も更けた時間帯、淑女の部屋に入るのは明らかなルール違反だと承知の上だが、一応キアラが寝ていること確認しておこうと思ったのだ。
断じて、やましい気持ちはない。
「あ、やっぱり来ると思った。」
「…なんだ、お前はまだ起きていたのか。」
そろりと起き上がった小さな影は、もちろんウィリアム。
一瞬驚きに声が出そうだったのは、断じて、やましい気持ちがあったからではない。
「キアラなら、すっかり寝てるから大丈夫だよ。」
「あ、そう…」
声を潜めて話すこの5歳時は、すっかり何でもお見通しらしい。
来ることを見越して寝ずの番をするなど、やはりベアトリスの差し金。
本当に5歳時なのかと疑っていると、暗闇の中、弱々しい声が小さく落ちる。
「気をつけてね…」
ジャンヌはそれで、自分の誤解を知る。
ウィリアムは、何でも分かっているからこそ、ジャンヌが心配で眠れなかったのだろう。
己の無力を知りつつ、それを我慢するしかない悔しさは、ジャンヌにも痛いくらいに覚えがある。
「分かってるよ。なるべく早く帰ってくる。」
ジャンヌは暗闇に慣れてきた目でその姿を捉えると、ウィリアムの頭を撫で、頬に優しくキスをしてやる。
ウィリアムは少し安心したのか、隣を気にしながらベッドに潜り直す。
「ボクは寝てるから、キアラにもしていいよ。」
「何を?」
「おやすみのキス。」
「………」
前言撤回。
いや、本当、誰に教わるんだ。
ブツブツ言いながらもしっかり反対側に回り込むと、すっかり暗闇に慣れた目にその姿を映す。
夢でも見ているのか、ピクリと動く瞼につられて、長いまつ毛が微かに震える。
わずかに開いた唇からは、規則正しく甘い息が漏れて、それに合わせて上下する身体には掛け布がかかってたことは僥倖か。
だが、ジャンヌはその寝姿に、醜い欲望とは裏腹の、どこか神聖なものへの畏怖を感じていた。
頬にかかる柔らかな髪をそっとよけると、ジャンヌは身をかがめた。
何かを懇願するかのように、女神に祈りを捧げるように、優しく触れるだけの口づけを落とす。
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