【完結】君の為に翔ける箱庭世界

嘉神かろ

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最終章 君の為に

第125話 旅路の果てに

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◆◇◆
 頬を何かが掠めるこそばゆさで翔は目を覚ました。後頭部に感じるのは、彼もあまり感じた事のない柔らかさ。気怠さの原因を思いだそうとしても、彼の頭は未だ半分眠ったままだ。
 心地よい微睡みから出ることを拒否する瞼をこじ開け、薄らと目を開くと、黒くて大きな瞳が彼を覗き込んでいた。目が合うと、まつ毛の長いそれが細められる。

「おはよ、翔君」

 彼女が顔を上げたらしく、それまで長い濡れ羽色の髪で遮られていた陽の光が翔の視界に飛び込んできた。痛いくらいの眩しさに、思わず右手をかざす。彼にはまだ、その胸を満たす安堵の理由わけは分からない。

「起きたか」

 聞きなれない、壮年の男のような声が聞こえた。誰の声かと考えて、思いだす。

「カルガンシア様っ!?」

 柔らかな感触に名残惜しさを感じる間もないままに、翔は跳び起きた。慌てて立ち上がると、カルガンシアはその長い巨体を横たえて、彼にじっと視線を向けていた。戦闘態勢には無いようで、戦いの中辺りを覆っていた息が詰まりそうな程の威圧感は、その気配すらない。
 ――試練は、どうなったんだろう……。

 意識をなくす直前、自身の剣が火龍の鱗を引き裂いたような記憶はあった。だがそれが現実だったのか、はたまた彼の願望が見せる夢だったのか、今の翔に区別はつかない。

「翔君、はい、剣」
「あ、ありがとう」

 陽菜が差し出してきた剣に血は付いていない。美しい真っ白な剣身が彼ら二人を映している。

「案外早く起きたな」

 そう言う煉二の口調はどこか揶揄うようだ。不思議に思って彼を見れば、僅かにだが、珍しくニヤついているような色が見えて一層困惑する。寧音などは彼の隣であからさまにニヤニヤとしていた。

「どうでしたー? 陽菜ちゃんの膝枕はー」

 言われて思いだす。目が覚めた直後に後頭部に感じていた柔らかな感触。自身の頬が熱くなるのを感じる。

「あ、いや、その……」

 思わず試練の事を忘れてアタフタする翔に、いよいよ煉二もニヤニヤ笑いを隠さない。助けを求めて陽菜を見れば、照れながらもう一度するかと聞いてくる始末だ。
 未だに所謂には慣れていない翔がどうしようかと視線を彷徨わせていると、助け船は思わぬところから来た。

「話を進めるぞ」

 脳内に直接響く様な声に、四人の表情が引き締まる。声の主の方を見ると、彼は翔の目覚めた時と同じ体勢で彼らを見つめていた。

「まずは、見事この私に傷を付けたことに賞賛を送ろう。本気の死合でなく試練であったとは言え、僅かでも私に傷を付けられる者はこの世界に数えるほどしかいない」

 意識を失う直前の記憶が夢でなかったと知り、翔はほっと息を吐く。そして、込み上げてきた胸を熱くする感情を自覚した。

「カルガンシア様があくまで試練として在ってくださったお陰です」
「それでも、だ」
「それでも、ありがとうございます」

 礼を告げる翔に彼は鼻を鳴らす。
 もし、これが命を賭した殺し合いであったならば、真っ先に陽菜を狙うのが当然だ。彼女の力なくして、翔の刃がカルガンシアに届くことは無いのだから。
 だが彼はそうしなかった。あくまで試練として、翔達の全力を受け止める壁としてあったのだ。
 勿論彼の性格ならば死合であっても正面から受け止めたかもしれないが、ただ、翔は礼を言いたかった。

「カケルよ、試練を乗り越えた報酬として、お前たちをあのお方の下へ連れて行こう。さあ、乗れ」

 頭の位置を低くした火の龍に、翔達は視線を交わして頷き合った。

 四人を乗せた火の龍は、己の支配する大火山を離れ、ひたすら北へ向けて飛ぶ。天頂より陽の照らす地上を見れば、はるか上空にいる筈なのに矢ほどの速さで景色が流れていく。
 帝国を東西に分ける山脈を右手に見下ろし、アルジェの祖父が大地に刻んだと言う底の見えない裂け目も超えた。瞬く間に真横を過ぎて行ったのは、大陸中央に根を下ろす世界樹セフィロトだ。
 翔達の翔けた国々が、世界が、後ろに過ぎ去っていく。

 それでも案内人は止まらない。間もなくどこか日本を思わせる、巨大な都市の上空を通過すると、彼は徐々に速度を落としていく。

「着くぞ」

 それはきっと、彼の優しさだ。お前の旅の終着点はもうすぐそこだと、心の準備は良いかと言外に伝えてくれているのだろう。少なくとも、翔はそう受け取った。
 ――……最後の旅は、一瞬だったな。

 視線を彼方に見える広大な森林へ向け、振り返る。

 彼らがこの世界に連れ去られたのは、ほんの二年前だ。何も分からないままに放り出された非日常で、真っ白な鎧に身を包んだグラヴィスに助けられたのが始まりだった。
 その後元の世界に帰る為だとアルジェを討ちに行かされ、彼女に敗れて真実を知り、彼女の弟子となった。
 ――もしあの時、アルジェさんの提案を断っていたら、とっくに死んじゃってたかもなぁ。

 彼女の指導はどこまでも厳しいものだったが、それだけ、翔達に力を与えた。
 
 それから親友である祐介を失い、壁として立ちふさがったグラヴィスを超えて、陽菜を助け出した。
 祐介を助けられなかった事は、今でも深い傷として、彼の心に残っている。もっと自分に才能があって、もう少し早く辿り着けていたならと、ずっと悔やんでいる。
 それでも当時よりは、ずっと前を見ている。
 ――朱里が怒ってくれなかったら、きっと陽菜まで失ってた。

 陽菜をちらりと見る。彼女は翔の視線に気が付いて、微笑んだ。釣られて、翔も笑みを浮かべる。
 今この時間があるのは、アルジェや朱里のおかげだ。
 ――思えば、朱里にも助けられてばっかだったね……。

 それなのに、商人ナイルに導かれた砂漠の旅で彼女を失ってしまった。力不足と、油断が原因だった。
 朱里を星の元へ送った夜、もう誰も失わないと、翔は自分に誓った。彼女の姉に彼女の日記を届けるという目標が出来たのも、この時だ。

 次の旅は、手に入れた手がかりを元に世界樹の迷宮に挑む旅だった。
 結局、迷宮のあるじであり異世界アーカウラの【管理者】セフィロスですら彼らを元の世界に返すことは叶わなかったが、日記を届けるという目的は叶えられた。

 そして、今回の旅だ。
 ――二年、か。アルジェさん達【調停者】や、それでなくても長命種の人たちには、一瞬なんだろうけれど、それでも、色んな事があったなぁ。

 辛いことも、嬉しいことも。
 
「本当、長かった」
「そうだね……」

 しみじみと呟いた翔に、陽菜が返す。

「ああ」
「ですねー……」

 煉二と寧音の肯定が、空に消える。

 降下を始めたカルガンシアの頭上で振り返れば、広大な世界が二つの陽の光を跳ね返し、キラキラと輝いていた。

◆◇◆
 カルガンシアの降り立ったのは、最北の魔境、竜魔大樹海からそれほど離れていない位置にある大きな街の中だった。西洋の街並みに日本の色を混ぜた様な大通りを、多種多様な人種が行き来している。お昼時とあってか、飲食店に入っていく人が多く見える。それでも、街の規模の割には人影が少ないように思えた。

「一番奥の席だ」

 龍形態と同じ、燃えるような赤髪と揺れる炎のようなグラデーションの瞳をした美丈夫が指したのは、一件の宿屋。食事処にもなっているようで、街の人間と思しき者たちが連れ立って入っていく。屋号を示す看板には『星の波止場亭』と書かれていた。

 カルガンシアは付いてくる気が無いらしく、腕を組んだまま近くの壁にもたれ掛かって動かない。

 行き交う人々の隙間を抜け、木で出来た古い扉を押し開くと、日本人なら中学生くらいで熊の獣人の血が入っているらしい女の子が、いらっしゃいと挨拶をしてきた。溌溂とした彼女に待ち合わせをしているのだと伝えてから、一番奥を目指す。
 狭い間隔で置かれた席の殆どは埋まっており、『人族』に『吸血族』、『龍人族ドラゴニユート』、『猫人族キヤツトピープル』、更には『森妖精エルフ族』まで、多種多様な種族が同じ机を囲み、料理を楽しんでいた。中には昼間からお酒に頬を赤くしているものまでおり、店内は賑やかだ。
 その隙間を一列になって、迷いなく通り抜ける。翔の視線の先には、一人で七人掛けの席に座る男がいた。
 何故かは分からないが、見覚えのあるその男こそ探すべき相手だと、確信があった。

「あなたが、だったんですね。驚きました」

 商人らしき格好をした、異様なほどに黒い彼に、翔は言った。

「驚いているようには見えませんね。まあ、一先ずお座りください。せっかくの料理が冷めてしまう」

 振り返らないままに彼が言う。テーブルには確かに、所狭しと料理が並んでいた。翔は陽菜たちを視線で促してから座るが、皿には手を伸ばさない。

「お久しぶりです、ナイルさん」

 そこに居たのは、砂漠の国で出会った商人、ナイルだった。
 ナイルは食事の手を止め、覚えにあるのとは全く違う無機質な笑みを青年へ向ける。
 
「ええ、お久しぶりです。と言っても、私はずっと見ていましたがね。それこそ、あなた方が我々の箱庭にやってくる、その前から」

 やっぱり、と翔は思う。上位者たちの言葉を思いだせば、寧音でなくても分かる。神々の掌で踊る、神々の王の慰み者、神々の箱庭……。【選ばれし者】とはつまり――

「あなた方の玩具おもちやとして、俺たちは、十分役割を果たせましたか?」
「だからこそ、この機会が与えられたのですよ」

 深くなった笑みに、翔の蟀谷こめかみを汗が伝う。気配は以前から知るナイルのそれと変わらないはずなのに、彼の本能もスキルも、何も警告を発していないというのに、目の前の存在に恐怖してしまう。訳が分からなかった。何もわからなかった。だからこそ、恐ろしい。

「さて」

 思わず翔は手を握りしめる。

「場所を変えましょうか。ここでは風情がない」

 彼女たちに文句を言われそうですしね、と彼の続けた言葉の意味は分からない。いや、考える余裕は無かった。
 闇が塗りつぶしていく。壁も、天井も、周囲で騒ぐ者たちも、その全てを闇が覆い隠す。やがて残ったのは、彼らと彼らの囲むテーブルのみ。ナイルは相変らず料理に舌鼓を打っている。

「これで良いでしょう。改めて、自己紹介を」

 彼は食器を置き、四人に向き直る。

「私はこの地で『宰相』と呼ばれる者。他にも色々とかおはありますが、あなた方が知る必要はないでしょう」

 恭しく見える態度で礼をする『宰相』だが、その声音も口調も、四人を見下している事をこれ以上なく伝えるものだ。
 だが、そんなことは気にならない。寧ろ見下されて当然だとも翔は思う。『宰相』と名乗った彼は、原初の三柱に数えられる神なのだから。
 それなのに、そのような存在が眼前にあるのに、翔は何も感じられない。彼の喉がゴクリとなる。

「そう緊張しなくても良い、と言っても無理でしょうね。まずは旧交を温めようかとも思いましたが、あなた方の持つ僅かばかりの時間を奪ってしまっては忍びない。早速契約の履行といきましょう」

 宰相はそこで一度言葉を区切り、いつの間にか白目まで黒く染まった目を翔に向けた。感情が窺えない視線に、彼は胸が苦しくなる。それでもここで怖気づいてどうするのかと、必死に自分を奮い立たせる。もう、追い求めていたモノが目の前にあるのだ。

「こうして私の下に辿り着いた事に対してあなた方の求める対価は、今生きている【選ばれし者】たちの存在を元の世界に帰す、という事でよろしいですね?」

 返事をする前に翔は一度、深呼吸をする。その脳裏にふと、毒島の顔が過った。

「……希望者だけを、というのは可能ですか?」

 それを聞くだけの事で掌がぐっしょりと湿り、動悸が激しくなる。

「まあ、その程度なら良いでしょう。付け加える条件はもうありませんね?」

 はい、とそう答えようとして、何か引っかかった。〈直感〉スキルは何も反応を示していない。彼生来の勘が、何かに気付いた。しかしそれが何かは分からない。

「翔君……?」

 宰相は何も言わず、沈黙を保っている。何を考えているのか、翔には分からない。募る焦りを無視して、考える。思いだす。宰相の言葉を、一言一句。
 ――そういえば……。

「どうして、わざわざ今生きているって、条件を付けたんですか?」

 口の中が乾くのを感じる。もう彼の耳に届くのは自身の心音だけだ。真っ黒な闇に塗りつぶされている筈の世界が、更に暗くなる。それでも、聞かなければいけない気がした。
 正面に座る一柱をじっと見る。その目が僅かに細められたように見えた。

「さあ、どうしてでしょうか」

 答える気はないが、同時に、何かあるのだとソレは言外に言ったのだ。再び思考の海に沈もうとして、その前に、寧音が口を開いた。

「存在を……、もしかして、でも、だとしたら……」

 普段の間延びした口調ではない。彼女がこうなったのを、翔は何度か見ている。彼女が、これ以上なく動揺している時に。

「寧音、どういう事? ……教えて」

 聞いてしまえば、何かが終わる気がした。それでも聞かない訳にいかなかった。

「存在を帰すと、宰相さんは言いました。つまり、今、地球のある世界に私たちの存在は無いという事です」

 まだ翔にはその意味が分からない。当然の事を言っているようにしか思えない。それが顔に出たのだろう。寧音は続ける。

「地球の、日本に、私たちが居たという事実が消滅しているという事です。お母さんも、お父さんも、地球の誰一人、私たちの事を覚えていないという事です」

 思わず目を見開いたのは、翔ばかりでない。陽菜も、煉二も、同じように寧音を見返す。彼女は三人に沈痛な表情を見せるばかりで、口を閉ざしている。
 間違いであって欲しいと翔は宰相を見た。もしそれが本当なら、既に死んでいる祐介や毒島の事を地球の家族が思い出すことは無いのだから。もし、それが本当なら、朱里の日記を受け取ったはずの彼女の姉は、誰の物とも知らない思いを突然渡されたことになるのだから。
 
 一縷の望みに縋って視線を向けた無機質で黒い顔に、血のように赤い月が浮かんだ。

「ご明察です」

 宰相はぱちぱちと大げさに拍手してみせる。乾いた音がどこまで続くとも知れぬ闇に響く。彼の人生で、これほど喜びを感じられない祝福は無かった。
 己の頬の濡れる感触。視界が歪み、宰相が闇に溶ける。
 何も考えられなかった。考えたくなかった。彼の戦ってきた目的は、決して果たされぬことだと、知りたくなかった。

 手が震える。恐怖ではない。
 分かってはいるのだ。地球に帰ったなら、いずれ知っていた事。そんな事は、翔にも分かっている。
 それでも湧き上がってくるソレに、吐きそうになる。

 不意に、自分の手を掴まれる感覚がして、その手の持ち主の方を見た。そこにいた、彼の思った通りの人は、瞳を揺らしながらも強い光を宿したまま、彼をじっと見る。

「翔君、過ぎてしまったものは、どうしようもない。今は、これからどうするかを決めないと。皆が朱里ちゃんたちの事を忘れてしまって居たとしても、帰らない選択をした人たちの事を思いだせないとしても、私たちはあっちに帰るか、残るかを。そうでないなら、別の事を願うかを」

 彼女の両手に包まれた翔の左手が震える。
 ――違う、陽菜の手が震えてるんだ……。

 陽菜もショックを受けているには違いないのだ。それでも、翔に前を向いてほしいと願って、彼を照らす。

「当然、私は翔君について行くよ。翔君がどの道を選んでもね」
「陽菜……」

 少しばかり、闇に塗りつぶされた世界が明るくなったように感じた。
 
「私たちもですよー! ねー、煉二君ー?」
「ああ、ここまで来て別れるつもりはない。最後まで付き合うぞ」

 ありがとう、と呟いた翔に、三人は笑みを返す。それからはっきり姿の見えるようになった宰相へ向き直った。

「言っておきますが、死んだ者たちを生き返らせるには対価が足りませんよ。魂が残っているのなら兎も角」

 正直、翔が期待していなかったかと言えば嘘になる。だが同時に、悩まなくて良いと安堵もした。どっちを選んでもきっと彼は後悔すると自分で分かっているのだ。

「……分かりました。なら願いはそのままで大丈夫です」

 他に願うことは無い。

「ふむ、良いでしょう。では一つ、自力で真実に辿り着いたご褒美に良い事を教えて差し上げましょう。日記をあちらに送った時点で、間錐まきり朱里の存在はあちらに帰っています。因果に矛盾が生まれてはいけませんから」

 良かったと、息を吐いた。少なくとも彼女の思いは届けることが出来たから。少し心が軽くなる。
 そして、自分たちがどうするかも決まった。

 数秒の間瞑目して、迷う心を押さえつける。

「陽菜」
「うん?」

 彼女と繋いだままだった手に少し、力が籠った。

「カルガンシア様と戦ってる時にさ、陽菜がいなくても大丈夫なようにもう少し自分を信じるって言ったよね」

 これから伝えるのは、紛れもない彼の本心。迷って迷って、決めた事。
 
「けど、その上で、陽菜には側にいて欲しいんだ。例え、その為に何を失う事になったとしても」

 無理に共依存を止めるのは、しないという選択。
 その意味の分からない陽菜ではない。

 彼女は一瞬嬉しそうに笑おうとして、それから複雑そうに表情を歪めた。それでも最後に浮かべたのは、一点の曇りもない、透き通った、お日様のような笑みだった。
 最愛の人に翔は真っ直ぐな笑みを返し、そして、宰相に告げる。

「宰相様、俺たちは――」







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