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1章
17夜 アンダーグラウンド タップダンス
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暗がりを照らす明かりは、少し薄暗いくらいで善い。眩い光は、ただ心のナイフを鈍くするだけだ。
何時読んだかも忘れた、詩集の言葉だ。この言葉はまだオスカー レムレースの言葉でしかない。いつか自分自身の言葉となった時、本当の意味が分かるのだろう。
落下して来たパンプスは、キースが数年前にピターリオにプレゼントした物だ。
淡いピンクのパンプスは、義姉の白磁の肌に映える。
ストラップは引き千切られ、爪先のダイヤモンドは砕かれ、後ろのリボンは切り刻まれている。
パンプスの成れの果ては、義姉の宿痾を表すには充分だ。
今更もう怒りや、悲しみの感情は湧かない。
彼女がキースの右手の甲に炭火アイロンを、押し付けた張本人なのだから。
「あら。挨拶も、出来ないのかしら? 兵士になったと聞いたのに、家畜のままね」
澄み切った濁りのない、円舞曲のような声。泣く赤ん坊をあやす母親も、オペラを観ている貴族も、魔獣と対峙している魔獣退治部隊兵も、この声を聞くと振り返るだろう。
「こんばんは。そっちは、相変わらずの毒舌だね。聖フィオーレ女学園は、道徳の授業がなかったのかな?」
キースの嫌味すら、ピターリオは喉を鳴らして笑うだけであった。
「少しは語彙力が、ついたようね」
「それで、何の用かな? この後支援隊の人達と、ご飯に行くんだ」
ピターリオは、微笑を崩さない。まるで、人形のように。
「あら。私が世間話に来るのは、可笑しいかしら?」
「よく言うよ。加虐精神の権化の癖して」
ピターリオと話すだけで、まるで色とりどりのフルーツケーキをフォークとナイフでぐちゃぐちゃにされたような気分になる。
(この人俺にしたことを、忘れているのか……? どうして何も無かったみたいに、話せるんだ……?)
もしかしたら謝罪の言葉を、言ってくれるかもしれない。
少しでもそんな期待をした、自分が惨めに思えてしまう。
「特務部隊に、目をつけられているようね」
「……な」
何故、それを知っている!? キースはその言葉を、グッと飲み込んだ。
ミモザの言葉が、キースの脳裏で再生されたからである。
『仄めかすようなことを話すだけで、貴方の首は斬り落とされる』
キースは、黙秘権を使うことにした。
ピターリオはこちらの様子なんて、お構いなしに言葉を続ける。
「王都襲撃、お父様の失踪、貴方の世界保安団のスカウト。全てが不自然に、重なり過ぎてるのよ。私には、偶然に思えない」
「たまたまだと思うよ。何の影響力もない、一般市民だし」
「そうよ。私なら即刻打ち首にして、魔装武器を回収するわ。貴方が世界保安団兵になるのが最善の策だと、皆が当たり前に思って事が運んだのも妙なのよ。愚鈍にも、分かるように言って差し上げるわ。きっと強力な人の心を、操る魔術師が居る」
「そんな人の道を、外れたことをして良いのか!?」
ピターリオは、眉を顰める。
まずい。昔みたいに、来る。悪魔に憑かれたかのような、彼女の怒鳴り声が。
「今は倫理の授業を、しているんじゃないのよ。とにかく、全てを疑うくらいでいなさい。己も、ね」
「……へ?」
キースの想像と違い、彼女の声音は穏やかだった。どころか慈愛に満ちた、まるで母親みたいだった。
(いやいや、有り得ない。この人のことだ。たまたま機嫌が良かったとか、それこそ演技とかーー)
ピターリオは、キースの顔を覗き込んで来た。
ピターリオの瞳に自身の姿が映る程に、距離が近い。
「まぁ、良いわ。あとブロッサムの髪の特務の娘は、やめておきなさい。貴方と、相性最悪よ」
「ハァ!? 別に、そんなんじゃ……」
可愛いと思ったことも、見透かされているのだろう。恐ろしい、女だ。
「男なんて知らない天然の顔しながら、女の使い方を分かってるわよ。男を味方につける、方法もね」
あんな子供みたいな、女の人なのに……? キースは、疑問を禁じ得なかった。
(そもそも、女の使い方ってなんだ? 可愛いハンカチで男が怪我した時に、血を拭いてあげるとかかな?)
そう言った経験がないキースは、女の使い方の意味が分からない。
ピターリオは踵を返し、階下へと降りて行った。
その場に彼女がつけている薔薇香る、オードトワレの香だけが残った。
*
同時刻。フェキュイルのネオン輝く、歓楽街の路地裏。
地面には煙草の吸い殻、ピンクチラシ、ウィスキーの空き瓶、注射器などが捨てられている。
派手な若い女は裸同然の格好で地面で寝ていて、恰幅の良いハンチング帽を被った老夫は古びた煉瓦の壁を背に泥酔している。
老人の前には木箱があり、その横には悪筆としか言いようがない文字で「靴みがき 一足三十フェルカ」と書かれた木製看板がある。
この路地裏は言葉通り、無法地帯なのだ。
ゴミも派手な女をも踏みながら、薄暗く細い路地裏を蛇のようにするすると抜けて行く訳あり連中たち。
カコン。木と木の摩擦音で、靴磨き屋の老夫は目を覚ました。
自分の目の前には、見慣れない東洋人の男が居る。
年は、四十代前半だろうか。
きっちりと着こなした使い古された翡翠色の着物に、鼻緒が折れた二枚歯桐下駄から察するに大和皇国人だろう。
艶めく緑の髪や鮮烈な赤紫の瞳からは、魔力持ちであることが分かる。
世捨て人のような服装をしている癖に、肌や髪は艶めかしい。
着物には皺一つないのに、下駄の歯や台はところどころ欠けている。
不潔と、清潔。神経質と、無頓着。余りにもチグハグ過ぎて、人となりが想像出来ない。
(帝国に来りゃ魔術師として、一発逆転のチャンスがある! とか、法螺吹かれたんだろ。儂の客じゃないな)
老夫はスキットルに口付け、ウォッカをガブ飲みしながら言う。
「儂は、靴磨き屋だぜ? 東の島国のスリッパの磨き方なんて、知らんなぁ。そこのパブから雑巾を借りて、拭いたらどうだ?」
歯を見せながら、嗤笑する老夫。
東洋人の男性は、ニコニコと微笑んでいる。
「あ~。お前ら、公用語が分からないんだっけか? カ、エ、レ! オ マ エ み た い な 猿 の 靴 は、み が か ね ぇ!」
これほど分かりやすく、発音してやったのだ。公用語のレベルが低い人種でも、分かるだろう。
逆を返せばこれで分からないなら、そもそも海外など行くべきでないのだ。
「可笑しいなぁ。帝国は、差別を許さない。って聞いたんだけど……」
とてもフランクで、優しい声音。初等学校の低学年の児童に話すような、そんな声だ。
しかもこの男は嫌味ではなく、本当に疑問に思っている様子だった。
「いいか、兄ちゃん。お前ら温室育ちは、知らないかもしれねぇけどな。人間誰もが、差別の心を持ってるんだぜ。容姿、学歴、人種、話し方、趣味嗜好……挙げりゃ無限にあるわな。脳味噌砂糖漬け野郎が、裏通りなんかに来るんじゃねぇ」
東洋人の男性は、ぐいと顔を近づけて来た。
東洋人は老夫の頭部に向かって、腕を伸ばす。
大和皇国人のパンチなど、止まって見えるし見切れる。
そもそもあいつらは、殴っては来ない。
老夫の予想通り、東洋人は暴力を振るわなかった。
老夫のハンチング帽を脱がし、輪郭をなぞるように頭を撫で始めたのだ。
「猿で脳味噌砂糖漬けで、おまけにそっちの人かよ! 気色悪ぃ!」
東洋人の顔に唾を飛ばす程に、激昂する老夫。
東洋人は、尚も笑顔を崩さない。
「情報屋ダンさん。アクアエデンの下町出身。齢は、六十三歳。家族構成は、亡き両親と亡きお兄さん。配偶者も、子供も無し。その名前は、子供の頃に餌をあげていた野良犬の名前からですね。貴方が情報屋を始めたのは、十六の時。勤めていた工場が劣悪な労働環境だと、国から事業解体を命じられた。職を無くした貴方は、帝都を牛耳るマフィアが経営する飲食店で掃除の仕事を始める。そこで情報の売買が為されているのを見て、情報屋の仕事を始める」
「ま、待てっ……俺のことを調べていやがったのか!?」
情報屋ダンは、目に見えて狼狽えている。
情報を扱う存在だ。自身の命よりも、情報の方が重い。当然の反応と、言えるだろう。
「調べる? そんな古典的な方法、取りませんよ」
「さっきの、アレか……!」
ダンはどう逃げ切るかを、必死に考えていた。
(頭を撫でるだけで、人の記憶を読んだのか……! 化け物め! こんなもん、商売出来ないじゃねぇか! 今逃げても、こいつに顔は割れている。恐らく追跡する魔術とやらも、使えるだろう。こいつの要求を、聞くのが安牌だ)
情報屋ダンは地面に手をつき、頭を下げた。
例え演技でも誠意を込めて謝罪すれば、溜飲が下がる人種だ。
「今まで無礼を働いて、悪かった! 俺が今死ぬ訳には、いかねぇんだ! あんたが欲しい情報なら、なんでも話す。知らないことは、調べてやる。だから、どうか命だけは……!」
我ながらよくもまぁ、スラスラと言葉が出て来るもんだ。
「嫌だなぁ。一時の怒りで、殺人なんてしませんよ。死人は、情報も富も産まないでしょう」
「……は、ハハハ」
「あ。お腹減ったんで、定食屋連れて行ってくれませんか? 天麩羅食べたいとか言わないので、蕎麦とかオクラの和物とか蓮根の揚げ物とか食べたいですねぇ」
コイツ、絶対たかる気だ……。
ダンは情報屋として、他人と飯を食べないことを徹底している。
一緒に飯を食べれば、情が湧く。友人だと、思ってしまう。
情報を買った売った。自分と客にある関係は、それ以上でもそれ以下であってはならないのだ。
「お前ら向けの、定食屋なんてねぇよ。陳国料理の、龍神飯店にしとけ。天パのサングラスの若造に、手土産渡して儂の名前出したら言うこと聞いてくれるだろうよ」
「ありがとうございます。僕の依頼は、女房と倅を探して欲しくて」
「そっちが、本題だろうが! 先に、言わんかい! で、金はあるんだろうな?」
東洋人の男は、何が可笑しいのか歯を見せて笑い出した。
「ダンさん。貴方を殺しに、不良少年が来ますよ。時間は、四十八秒後」
「は?」
マフィアの恨みを買うことはしているが、子供の恨みなんて買うことをしたか?
ダンの思考を遮るように、歓楽街から悲鳴が上がった。
「誰か! 特殊警察部隊を!!」
「最近の子供は、どうなってるんだ!? ホームレスのおばあさんを、殺すなんて!!」
子供がホームレスの老婆を、殺した!?
少年達の笑い声が、近付いて来る。聞く者を、不快な気分にさせる下品な笑い声だ。
「お前、マジヤベェって……! ガチウケる」
「あんなばあさん、生きてる価値ねぇだろ! 社会ほうし? 社会こうけん? だっつの。あ! 今から裏通りの奴らも、殺そうぜ! ひゃははは!」
「よっしゃ! 誰が一番殺したか、勝負な!」
少年達は、全員で十人は居る。
こんな狭い路地裏に入って来られたら、袋の鼠だ。勝ち目なんて、ない。
薬物でもキメているのかと思ったが、意識も言葉もはっきりとしている。
まるで幼子の遊びのように、人を殺めるつもりらしい。
(イカれてやがる……!)
ダンは東洋人を、見つめた。
東洋人はこんな状況でありながら、煙管に火をつけたではないか。
「お前さんの腕を見込んで、守ってくれんか」
「依頼料、負けて下さるなら」
「さ、三割負けてやる」
「駄目です。七」
「む、無理だ! せめて、五!」
「死ぬ訳には、いかないんでしょう?」
背に腹はかえられない。ダンは、無理矢理自身を納得させた。
「しゃあねぇ。六点五割負けてやる。頼むぜ……そういや、あんた名前は?」
「ああ。ロック」
「お前の何処が、ロックなんだよ……」
月明かりの下で、困ったようにロックは笑った。
「ロックは、あだ名です。本当は、ろ六十九って言うんです」
「番号? 家畜じゃあるまいしよ……」
「いえ。家畜以下の存在ですよ。ですから、人権を守った喧嘩は出来ません。予め、ご了承お願いしますね」
ろ六十九番は、不適に微笑む。
ダンは、直感した。
この存在は、一騎当千の魔術師様なんかじゃない。正真正銘の悪魔だ。
そして悪魔ほど味方にいる内は、安心出来る存在は居ない。
「さぁ。踊りましょうか、不良少年達」
何時読んだかも忘れた、詩集の言葉だ。この言葉はまだオスカー レムレースの言葉でしかない。いつか自分自身の言葉となった時、本当の意味が分かるのだろう。
落下して来たパンプスは、キースが数年前にピターリオにプレゼントした物だ。
淡いピンクのパンプスは、義姉の白磁の肌に映える。
ストラップは引き千切られ、爪先のダイヤモンドは砕かれ、後ろのリボンは切り刻まれている。
パンプスの成れの果ては、義姉の宿痾を表すには充分だ。
今更もう怒りや、悲しみの感情は湧かない。
彼女がキースの右手の甲に炭火アイロンを、押し付けた張本人なのだから。
「あら。挨拶も、出来ないのかしら? 兵士になったと聞いたのに、家畜のままね」
澄み切った濁りのない、円舞曲のような声。泣く赤ん坊をあやす母親も、オペラを観ている貴族も、魔獣と対峙している魔獣退治部隊兵も、この声を聞くと振り返るだろう。
「こんばんは。そっちは、相変わらずの毒舌だね。聖フィオーレ女学園は、道徳の授業がなかったのかな?」
キースの嫌味すら、ピターリオは喉を鳴らして笑うだけであった。
「少しは語彙力が、ついたようね」
「それで、何の用かな? この後支援隊の人達と、ご飯に行くんだ」
ピターリオは、微笑を崩さない。まるで、人形のように。
「あら。私が世間話に来るのは、可笑しいかしら?」
「よく言うよ。加虐精神の権化の癖して」
ピターリオと話すだけで、まるで色とりどりのフルーツケーキをフォークとナイフでぐちゃぐちゃにされたような気分になる。
(この人俺にしたことを、忘れているのか……? どうして何も無かったみたいに、話せるんだ……?)
もしかしたら謝罪の言葉を、言ってくれるかもしれない。
少しでもそんな期待をした、自分が惨めに思えてしまう。
「特務部隊に、目をつけられているようね」
「……な」
何故、それを知っている!? キースはその言葉を、グッと飲み込んだ。
ミモザの言葉が、キースの脳裏で再生されたからである。
『仄めかすようなことを話すだけで、貴方の首は斬り落とされる』
キースは、黙秘権を使うことにした。
ピターリオはこちらの様子なんて、お構いなしに言葉を続ける。
「王都襲撃、お父様の失踪、貴方の世界保安団のスカウト。全てが不自然に、重なり過ぎてるのよ。私には、偶然に思えない」
「たまたまだと思うよ。何の影響力もない、一般市民だし」
「そうよ。私なら即刻打ち首にして、魔装武器を回収するわ。貴方が世界保安団兵になるのが最善の策だと、皆が当たり前に思って事が運んだのも妙なのよ。愚鈍にも、分かるように言って差し上げるわ。きっと強力な人の心を、操る魔術師が居る」
「そんな人の道を、外れたことをして良いのか!?」
ピターリオは、眉を顰める。
まずい。昔みたいに、来る。悪魔に憑かれたかのような、彼女の怒鳴り声が。
「今は倫理の授業を、しているんじゃないのよ。とにかく、全てを疑うくらいでいなさい。己も、ね」
「……へ?」
キースの想像と違い、彼女の声音は穏やかだった。どころか慈愛に満ちた、まるで母親みたいだった。
(いやいや、有り得ない。この人のことだ。たまたま機嫌が良かったとか、それこそ演技とかーー)
ピターリオは、キースの顔を覗き込んで来た。
ピターリオの瞳に自身の姿が映る程に、距離が近い。
「まぁ、良いわ。あとブロッサムの髪の特務の娘は、やめておきなさい。貴方と、相性最悪よ」
「ハァ!? 別に、そんなんじゃ……」
可愛いと思ったことも、見透かされているのだろう。恐ろしい、女だ。
「男なんて知らない天然の顔しながら、女の使い方を分かってるわよ。男を味方につける、方法もね」
あんな子供みたいな、女の人なのに……? キースは、疑問を禁じ得なかった。
(そもそも、女の使い方ってなんだ? 可愛いハンカチで男が怪我した時に、血を拭いてあげるとかかな?)
そう言った経験がないキースは、女の使い方の意味が分からない。
ピターリオは踵を返し、階下へと降りて行った。
その場に彼女がつけている薔薇香る、オードトワレの香だけが残った。
*
同時刻。フェキュイルのネオン輝く、歓楽街の路地裏。
地面には煙草の吸い殻、ピンクチラシ、ウィスキーの空き瓶、注射器などが捨てられている。
派手な若い女は裸同然の格好で地面で寝ていて、恰幅の良いハンチング帽を被った老夫は古びた煉瓦の壁を背に泥酔している。
老人の前には木箱があり、その横には悪筆としか言いようがない文字で「靴みがき 一足三十フェルカ」と書かれた木製看板がある。
この路地裏は言葉通り、無法地帯なのだ。
ゴミも派手な女をも踏みながら、薄暗く細い路地裏を蛇のようにするすると抜けて行く訳あり連中たち。
カコン。木と木の摩擦音で、靴磨き屋の老夫は目を覚ました。
自分の目の前には、見慣れない東洋人の男が居る。
年は、四十代前半だろうか。
きっちりと着こなした使い古された翡翠色の着物に、鼻緒が折れた二枚歯桐下駄から察するに大和皇国人だろう。
艶めく緑の髪や鮮烈な赤紫の瞳からは、魔力持ちであることが分かる。
世捨て人のような服装をしている癖に、肌や髪は艶めかしい。
着物には皺一つないのに、下駄の歯や台はところどころ欠けている。
不潔と、清潔。神経質と、無頓着。余りにもチグハグ過ぎて、人となりが想像出来ない。
(帝国に来りゃ魔術師として、一発逆転のチャンスがある! とか、法螺吹かれたんだろ。儂の客じゃないな)
老夫はスキットルに口付け、ウォッカをガブ飲みしながら言う。
「儂は、靴磨き屋だぜ? 東の島国のスリッパの磨き方なんて、知らんなぁ。そこのパブから雑巾を借りて、拭いたらどうだ?」
歯を見せながら、嗤笑する老夫。
東洋人の男性は、ニコニコと微笑んでいる。
「あ~。お前ら、公用語が分からないんだっけか? カ、エ、レ! オ マ エ み た い な 猿 の 靴 は、み が か ね ぇ!」
これほど分かりやすく、発音してやったのだ。公用語のレベルが低い人種でも、分かるだろう。
逆を返せばこれで分からないなら、そもそも海外など行くべきでないのだ。
「可笑しいなぁ。帝国は、差別を許さない。って聞いたんだけど……」
とてもフランクで、優しい声音。初等学校の低学年の児童に話すような、そんな声だ。
しかもこの男は嫌味ではなく、本当に疑問に思っている様子だった。
「いいか、兄ちゃん。お前ら温室育ちは、知らないかもしれねぇけどな。人間誰もが、差別の心を持ってるんだぜ。容姿、学歴、人種、話し方、趣味嗜好……挙げりゃ無限にあるわな。脳味噌砂糖漬け野郎が、裏通りなんかに来るんじゃねぇ」
東洋人の男性は、ぐいと顔を近づけて来た。
東洋人は老夫の頭部に向かって、腕を伸ばす。
大和皇国人のパンチなど、止まって見えるし見切れる。
そもそもあいつらは、殴っては来ない。
老夫の予想通り、東洋人は暴力を振るわなかった。
老夫のハンチング帽を脱がし、輪郭をなぞるように頭を撫で始めたのだ。
「猿で脳味噌砂糖漬けで、おまけにそっちの人かよ! 気色悪ぃ!」
東洋人の顔に唾を飛ばす程に、激昂する老夫。
東洋人は、尚も笑顔を崩さない。
「情報屋ダンさん。アクアエデンの下町出身。齢は、六十三歳。家族構成は、亡き両親と亡きお兄さん。配偶者も、子供も無し。その名前は、子供の頃に餌をあげていた野良犬の名前からですね。貴方が情報屋を始めたのは、十六の時。勤めていた工場が劣悪な労働環境だと、国から事業解体を命じられた。職を無くした貴方は、帝都を牛耳るマフィアが経営する飲食店で掃除の仕事を始める。そこで情報の売買が為されているのを見て、情報屋の仕事を始める」
「ま、待てっ……俺のことを調べていやがったのか!?」
情報屋ダンは、目に見えて狼狽えている。
情報を扱う存在だ。自身の命よりも、情報の方が重い。当然の反応と、言えるだろう。
「調べる? そんな古典的な方法、取りませんよ」
「さっきの、アレか……!」
ダンはどう逃げ切るかを、必死に考えていた。
(頭を撫でるだけで、人の記憶を読んだのか……! 化け物め! こんなもん、商売出来ないじゃねぇか! 今逃げても、こいつに顔は割れている。恐らく追跡する魔術とやらも、使えるだろう。こいつの要求を、聞くのが安牌だ)
情報屋ダンは地面に手をつき、頭を下げた。
例え演技でも誠意を込めて謝罪すれば、溜飲が下がる人種だ。
「今まで無礼を働いて、悪かった! 俺が今死ぬ訳には、いかねぇんだ! あんたが欲しい情報なら、なんでも話す。知らないことは、調べてやる。だから、どうか命だけは……!」
我ながらよくもまぁ、スラスラと言葉が出て来るもんだ。
「嫌だなぁ。一時の怒りで、殺人なんてしませんよ。死人は、情報も富も産まないでしょう」
「……は、ハハハ」
「あ。お腹減ったんで、定食屋連れて行ってくれませんか? 天麩羅食べたいとか言わないので、蕎麦とかオクラの和物とか蓮根の揚げ物とか食べたいですねぇ」
コイツ、絶対たかる気だ……。
ダンは情報屋として、他人と飯を食べないことを徹底している。
一緒に飯を食べれば、情が湧く。友人だと、思ってしまう。
情報を買った売った。自分と客にある関係は、それ以上でもそれ以下であってはならないのだ。
「お前ら向けの、定食屋なんてねぇよ。陳国料理の、龍神飯店にしとけ。天パのサングラスの若造に、手土産渡して儂の名前出したら言うこと聞いてくれるだろうよ」
「ありがとうございます。僕の依頼は、女房と倅を探して欲しくて」
「そっちが、本題だろうが! 先に、言わんかい! で、金はあるんだろうな?」
東洋人の男は、何が可笑しいのか歯を見せて笑い出した。
「ダンさん。貴方を殺しに、不良少年が来ますよ。時間は、四十八秒後」
「は?」
マフィアの恨みを買うことはしているが、子供の恨みなんて買うことをしたか?
ダンの思考を遮るように、歓楽街から悲鳴が上がった。
「誰か! 特殊警察部隊を!!」
「最近の子供は、どうなってるんだ!? ホームレスのおばあさんを、殺すなんて!!」
子供がホームレスの老婆を、殺した!?
少年達の笑い声が、近付いて来る。聞く者を、不快な気分にさせる下品な笑い声だ。
「お前、マジヤベェって……! ガチウケる」
「あんなばあさん、生きてる価値ねぇだろ! 社会ほうし? 社会こうけん? だっつの。あ! 今から裏通りの奴らも、殺そうぜ! ひゃははは!」
「よっしゃ! 誰が一番殺したか、勝負な!」
少年達は、全員で十人は居る。
こんな狭い路地裏に入って来られたら、袋の鼠だ。勝ち目なんて、ない。
薬物でもキメているのかと思ったが、意識も言葉もはっきりとしている。
まるで幼子の遊びのように、人を殺めるつもりらしい。
(イカれてやがる……!)
ダンは東洋人を、見つめた。
東洋人はこんな状況でありながら、煙管に火をつけたではないか。
「お前さんの腕を見込んで、守ってくれんか」
「依頼料、負けて下さるなら」
「さ、三割負けてやる」
「駄目です。七」
「む、無理だ! せめて、五!」
「死ぬ訳には、いかないんでしょう?」
背に腹はかえられない。ダンは、無理矢理自身を納得させた。
「しゃあねぇ。六点五割負けてやる。頼むぜ……そういや、あんた名前は?」
「ああ。ロック」
「お前の何処が、ロックなんだよ……」
月明かりの下で、困ったようにロックは笑った。
「ロックは、あだ名です。本当は、ろ六十九って言うんです」
「番号? 家畜じゃあるまいしよ……」
「いえ。家畜以下の存在ですよ。ですから、人権を守った喧嘩は出来ません。予め、ご了承お願いしますね」
ろ六十九番は、不適に微笑む。
ダンは、直感した。
この存在は、一騎当千の魔術師様なんかじゃない。正真正銘の悪魔だ。
そして悪魔ほど味方にいる内は、安心出来る存在は居ない。
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