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四十二話
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僕はヒカル君を羽交い締めして、お腹に力を入れて魔法の言葉を叫んだ。
「やめてよ! こんなの望んでない!」
僕が言い終わると同時に、ヒカル君はその場にペタリと座り込んだ。
座り込んだと言うよりは、糸の切れた操り人形のように地面に落ちた。と、表現する方が正しいかもしれない。
ランタンはガシャンと鈍い音を立てて、地面に転がった。
ヒカル君は肩を震わせながら、涙を流している。
その姿は初めて会った、幼稚園の入園式を彷彿とさせた。
ご両親が喧嘩していて、しのづか ひかる君は「ケンカ、やめてよぉ……」と繰り返し言いながら、ずっと泣いていたのだ。
僕はあの時から、篠塚 晄君のことが好きだった。
「ごめんなさい、静弥……。俺、また間違えた。いつも間違えてばかりで、ごめん。怒ってるよな? どうしたら、許してくれる? 静弥の小便飲んだら、良い……?」
雲雀丘君はランタンを拾い上げて、シノヅカ ヒカル君の頭をそれで殴った。
シノヅカ ヒカルの頭からは、血が出なかった。
雲雀丘君は、力をセーブしたんだろう。
シノヅカ ヒカルと違って。
「謝る相手が、ちげーだろ!! ふざけんな!! メンヘラカップルがよ!!」
雲雀丘君は滴る血を拭うことなく、篠塚 晄を睨みつける。
顔は怒りで赤くなっていて、今にも大噴火しそうだ。
それこそ「死ねよ!」とか自殺教唆に値する言葉が、口から出かねない勢い。
雲雀丘君は両拳を握り、その言葉をグッと堪えているようだった。
自分の言葉が、僕達のトリガーにならないように。
一人だけ蚊帳の外な父親が、スマートフォンを真新しいスーツのポケットから取り出して電話をかけ始めた。
落ち着いて父親を見てみれば革靴も綺麗に磨かれているし、髪も丁寧にセットされている。
父親のやり取りを聞くに、119番通報だろう。
「えーっと、ひばりおか君? 救急車呼んだけど、付き添い居る? 俺ら、予定あるんだよね。親御さんには、連絡出来る?」
そう言いながら、父親は僕を見た。
僕と父親二人の予定って、まさか……。
そう言えば誕生日に一緒に過ごした時に、二十五日に瀬良市のホテルのディナーを予約したとか言っていた、アレ……?
「静弥ー。急いで、支度しよう。シャワーとか浴びて、着替えて。ちゃんとした店だから、ドレスコードがあるんだよ」
「嫌だ!! 行きたくない!! 僕達がすべきなのは、雲雀丘君の付き添いでしょ!!」
「要らん要らん」
雲雀丘君は、心底要らなさそうに言う。
僕は着ている服の裾を鋏で切り裂いて、雲雀丘君の頭を縛る。
ヒカル君も慌ててタオルで、雲雀丘君の血を拭い出す。
何かの粗品の、ザラザラの手触りのタオル。傷口に塩を塗るような品質なのに、真っ赤に染まっていくタオルを見て自分のしでかしたことの重大さが漸く分かった。
雲雀丘君は「このメンヘラカップルがよ……」と言いながら、僕達にされるがままにされていた。
*
雲雀丘君は一人で救急車に乗り(付き添うと言ったけど、断固拒否されてしまった)、僕は数日ぶりに自宅に帰って来た。
時刻は夕方四時。橙色の夕陽が、腹立たしいほど綺麗だ。
西の山で、太陽が呑気に笑っている。
埃は舞っているし、鼠の糞は見つけてしまったし、今すぐにでも大掃除したい。
父親は僕にお風呂に入れようと、十五年ぶりに窯に火をくべようとしていたので強い拒否を示した。
「父さんは、いつも僕の言うこと聞いてくれないよね。僕、ディナーも行かないよ」
「え、行かないってどういうこと!? 体調悪いの!?」
台所に置かれたトマトのように赤いケトルでお湯を沸かしながら、父親は大袈裟に驚いてみせた。
あんなことがあったのに、元気な訳ないでしょ! 碌にご飯を食べてないのに、ホテルの食事が喉を通る訳ない! 貴方と行っても、楽しくない!
言いたいことは、山のようにある。
口にしてしまえば、堰を切ったように際限なく言葉が出てくるだろう。
「僕、お父さんのこと嫌い」
心の何処かで血の繋がりのある人だから、分かってくれると思っていた。
全部は無理でも一ミリくらいは、僕のことを理解してくれると望んでいたんだ。
「嫌い」と言う言葉は、最後の砦のような気がしていた。
僕が怪物にならない為の、セーフワード。
だってみんなは、当たり前にご両親のことを普通に好きだと思うから。
その感情すらも無くしてしまったら、僕は人間でなくなる気がしていたんだ。
「俺は、静弥のこと好きだぞー。だから、こうして会いに来てるんじゃん」
「お父さんの機嫌の良い時だけ、優しくされたって意味ない! いつも優しくしてよ! 僕が辛い時側に居なかった人に優しくされても、信じられないんだよ!」
ヒカル君は「静弥、落ち着けって」と、僕を諌める。
「はっきりさせようよ。君は、誰の味方なの? 答えによったら、分かるよね?」
そう言って沸騰したケトルを、僕は台座から持ち上げて言う。
「なに……が」
シノヅカ ヒカルは、開きっぱなしの瞳孔で僕とケトルを交互にぼんやりと、見るだけだった。
まるで水中で話すみたいに、僕の声が届いていないように思う。
そっか。君じゃ、分からないんだね。
ダメだ! 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ! 動くな! 僕の手!
この行動を実行したら、雲雀丘君の言う反復活動をまたやらかしてしまう。
頭では分かっているのに、身体の制御が効かない。
僕はそのまま自分の空いている方の腕に、ケトルの注ぎ口を傾けた。
ビシャビシャビシャと一定のリズムで、お湯が僕の腕を滴る。
台所の床は水溜りが出来て、父親とヒカル君の顔は真っ青になっていく。
「な、何やってんだよ!! 静弥!!」
父親は僕の手からケトルを引き剥がして、左腕の袖を捲り流し台に連行した。
シノヅカ ヒカルは慌てながら、水道の蛇口を目一杯捻り水を放出させる。
父親は火傷ごと洗い流すかのように、僕に水を浴びせる。
こんなので痛みが引く訳がなく、僕はシノヅカ ヒカルを見つめる。
父親は僕のリストカット跡と首の跡を見て、何か言いたげな顔をして口を開きはするけど何も言わない。
僕の中で、プツンと何かが切れた気がする。
あーあ。もう、なんでもいいや。
右も左も、天も地も、赤も青も、善も悪も、全ての境界や差異がなくなった気がした。
「君、跡欲しがってたよね。つけてあげるよ。腕、出して」
シノヅカ ヒカルは、言われるがままに腕を出す。
本当に、お人形さんみたい。
可哀想な、シノヅカ ヒカル。
僕なんか、好きになったばかりに。
「逃げないの?」
「に、逃げない……。これで静弥の気が済むなら、それで良い。俺のこと、殺して良いから」
違う。そんな言葉が、欲しいんじゃない。
篠塚 晄君が全てを捨てて、僕を選んでくれることは僕の悲願だった。
彼の気持ちごと手に入れた筈なのに、どうしてこんなに哀しいんだ。
僕がお湯をかけないことに痺れを切らした晄君は、ぎこちなく左手を動かして僕の手からケトルを奪った。
そしてたどたどしく、自身の右腕に僕がしたようにお湯をかけるのだった。
まるで世界から僕達だけ切り離されたように、ゆっくりとゆっくりと時が流れたようだった。
ケトルからお湯が流れている時間は、とても長く感じた。
まるで十年分の時の流れを、見せつけられたかのようだ。
シノヅカ ヒカルは、わざとケトルをなだらかに傾けたのだと思う。
僕に、見せつける為に。
「何やってるんだよ……!! ダンス出来なくなっちゃうよ!? ダンスだけじゃない、日常生活も……!!」
「いいよ。静弥の信頼を得れるなら、なんでも」
僕を理由にした、思考放棄でしかない。
こんな状態のニンゲンを、人間と言えるのだろうか? 目の前のシノヅカ ヒカルを、篠塚 晄と言えるのだろうか。
彼をそんな状態にしたのは、他ならぬ沼黒 静弥だ。
彼を早く、僕から解放してあげなくちゃ。
可哀想だよ。
「もういいんだよ、ヒカル君。勝本君達への復讐は済んだし、駒として置くメリットが無くなっちゃった。君のこと、ずっと大嫌いだったんだよ。能天気だし、ガサツだし、下品だし」
嘘だよ。
何も無くてもこっちまでいい気分になれるような明るさに救われていたし、晄君の雑なところを見て少しだけ肩の力を抜けたし、晄君が下品だから自分の汚い感情も吐き出せた。
そんなの、言える訳ないじゃないか。
何もかも壊しちゃった、僕が言える訳ないじゃないか。
父親はキレながら、店にキャンセルの電話をしている。
大声で「店の人に、当たるなよ!! 子供と信頼関係結んでない癖に、見栄だけ張るお前が悪いんだろ!! 僕も普通のお父さんなら、一緒に行ってたよ!!」
と、父親に怒鳴りつける。
父親は鼻息を荒くしながら僕の頬をピシャリと打って、聞かせるように足音を鳴らしながら台所を出ていく。
十五年前と、何も変わってない。
お店の人、ごめんなさい。僕の所為で、こんな屑に怒鳴られてしまって。
僕がまともに生きていたら、父親とご飯を食べる数時間くらい耐えられただろうに。
ごめんなさい。僕が、弱いばかりに。
父親が次に現れるとしたら、また十五年後かなぁ。
その時沼黒 静弥は、三十六歳。どんな人間になっているのか、想像つかないや。
そもそも生きているのかすら、分からない。
シノヅカ ヒカルは、僕をぼんやりと見つめている。
「静弥~。お父さん帰ったから、セックスしよう」
言葉が、通じていない。
普通あんなことを言われたなら、怒って帰るだろう。
自分の欲しい言葉しかインストールしない、シノヅカ ヒカルのお母さんみたいだ。なんて、思ってしまった。
なんで父親の方が、まともに見えてしまうんだ?
そう言って、シノヅカ ヒカルは服を脱ぎ出す。
「やめて……!! やめてよ!! やめろよ!!」
僕はシノヅカ ヒカルに体当たりをして、馬乗りになって必死に止める。
怖い。気持ち悪い。僕がひかる君を、こんな風に堕としてしまった。自分の理屈で、ひかる君の邪魔をした。僕は、どこで間違えたんだろう。やまにゃんに石を落とさなければ、みんなと仲良く出来た? 年中さんの時に、ひかる君を好きだと言わなければ? 存在自体が、間違いだった?
今からでも「洗脳罪」とか「他者破滅誘導罪」とか「人格破壊妨害罪」とか公布されないかな。
心と身体は一つになっているなんて、嘘だ。
こんなにぐしゃぐしゃで、最低で最悪な気分なのに僕のペニスは勃起している。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。己の快楽の為に、普通の状態じゃない人間すら使おうとする身勝手さ。最低だ。起き上がりこぼしや赤べこのような無意味な反復活動を繰り返すだけの肉塊。
終わらせなきゃ。この物語を。
醜くて、気持ち悪くて、誰にも理解されない恋を。
「さようなら」
昔から、物語が好きだった。主人公達がどんな窮地に陥っても、ほぼ必ずと言って良い程ハッピーエンドで終わるから。自分の人生もいつかは……と、救いを見出せたから。
昔から、物語が嫌いだった。物語の主人公は最後は救われるのに、僕は救われないから。まるで僕は、倒されるべき悪役だと言われている気がしたから。
シノヅカ ヒカルを、殺すしかない。
僕はシノヅカ ヒカルの首を、ギュッと締め上げる。
今度こそ、ちゃんとやるんだ。僕の力で息の根を止められないなら、ベルトとかを使って殺すんだ。
僕の手の熱を冷ますように、ひやっとした感触を感じた。
手の先を見ると、ペアネックレスのチェーンが当たっている。
『I want to be forgiven only by you.』
と、刻印されたあのペアネックレスが、シノヅカ ヒカルの首にかかっていた。
どうして、どうして、なんで、なんでなんだよ!
赦して欲しいのは、僕の方なのに!
僕は普通じゃないから、親に優しくされないような無価値な人間だから、僕と関わっても誰も何も残らないものだと思ってた。
だけど、そうじゃないんだ。
親に愛されなかった過去も変わらないし、きっとまたあの父親はまた僕を振り回すだろうし、首の跡とかリストカットの跡も火傷跡もーー何も無かったことにはならない。
生きると言うことは、何かを残すこと。
残るから、忘れられないから、悲しいんだ。
僕の手は汚れていて、他人に触れてはいけないものかもしれない。
僕が他人の目が怖いように、他人だって僕のことを不気味に思っているんだろう。
僕は「沼黒 静弥が、ここに居て良い」と言う証が、欲しかった。
みんなはきっと「そんなの、考えたことないわー」とか、言うんだろう。
それは人との関わりで、積み上げるものなんだ。
僕が自発的に、気付くべきことだった。
下らないことに固執して、他人が言ってもないことを妄想して、自分の殻に閉じ籠っている間にみんなが手にしている自信。
普通にとか、ちゃんととか、まともにとか、そんなのはもう要らない。
一人の男として、篠塚 晄の横を歩けるようになりたい。
一念発起したからと言って、他人の視線も話し声の恐怖が消え去る訳じゃない。
ざわめく声に、足を止めたりはしない。
その先にある未来を、晄君と掴むと決めたから。
「やめてよ! こんなの望んでない!」
僕が言い終わると同時に、ヒカル君はその場にペタリと座り込んだ。
座り込んだと言うよりは、糸の切れた操り人形のように地面に落ちた。と、表現する方が正しいかもしれない。
ランタンはガシャンと鈍い音を立てて、地面に転がった。
ヒカル君は肩を震わせながら、涙を流している。
その姿は初めて会った、幼稚園の入園式を彷彿とさせた。
ご両親が喧嘩していて、しのづか ひかる君は「ケンカ、やめてよぉ……」と繰り返し言いながら、ずっと泣いていたのだ。
僕はあの時から、篠塚 晄君のことが好きだった。
「ごめんなさい、静弥……。俺、また間違えた。いつも間違えてばかりで、ごめん。怒ってるよな? どうしたら、許してくれる? 静弥の小便飲んだら、良い……?」
雲雀丘君はランタンを拾い上げて、シノヅカ ヒカル君の頭をそれで殴った。
シノヅカ ヒカルの頭からは、血が出なかった。
雲雀丘君は、力をセーブしたんだろう。
シノヅカ ヒカルと違って。
「謝る相手が、ちげーだろ!! ふざけんな!! メンヘラカップルがよ!!」
雲雀丘君は滴る血を拭うことなく、篠塚 晄を睨みつける。
顔は怒りで赤くなっていて、今にも大噴火しそうだ。
それこそ「死ねよ!」とか自殺教唆に値する言葉が、口から出かねない勢い。
雲雀丘君は両拳を握り、その言葉をグッと堪えているようだった。
自分の言葉が、僕達のトリガーにならないように。
一人だけ蚊帳の外な父親が、スマートフォンを真新しいスーツのポケットから取り出して電話をかけ始めた。
落ち着いて父親を見てみれば革靴も綺麗に磨かれているし、髪も丁寧にセットされている。
父親のやり取りを聞くに、119番通報だろう。
「えーっと、ひばりおか君? 救急車呼んだけど、付き添い居る? 俺ら、予定あるんだよね。親御さんには、連絡出来る?」
そう言いながら、父親は僕を見た。
僕と父親二人の予定って、まさか……。
そう言えば誕生日に一緒に過ごした時に、二十五日に瀬良市のホテルのディナーを予約したとか言っていた、アレ……?
「静弥ー。急いで、支度しよう。シャワーとか浴びて、着替えて。ちゃんとした店だから、ドレスコードがあるんだよ」
「嫌だ!! 行きたくない!! 僕達がすべきなのは、雲雀丘君の付き添いでしょ!!」
「要らん要らん」
雲雀丘君は、心底要らなさそうに言う。
僕は着ている服の裾を鋏で切り裂いて、雲雀丘君の頭を縛る。
ヒカル君も慌ててタオルで、雲雀丘君の血を拭い出す。
何かの粗品の、ザラザラの手触りのタオル。傷口に塩を塗るような品質なのに、真っ赤に染まっていくタオルを見て自分のしでかしたことの重大さが漸く分かった。
雲雀丘君は「このメンヘラカップルがよ……」と言いながら、僕達にされるがままにされていた。
*
雲雀丘君は一人で救急車に乗り(付き添うと言ったけど、断固拒否されてしまった)、僕は数日ぶりに自宅に帰って来た。
時刻は夕方四時。橙色の夕陽が、腹立たしいほど綺麗だ。
西の山で、太陽が呑気に笑っている。
埃は舞っているし、鼠の糞は見つけてしまったし、今すぐにでも大掃除したい。
父親は僕にお風呂に入れようと、十五年ぶりに窯に火をくべようとしていたので強い拒否を示した。
「父さんは、いつも僕の言うこと聞いてくれないよね。僕、ディナーも行かないよ」
「え、行かないってどういうこと!? 体調悪いの!?」
台所に置かれたトマトのように赤いケトルでお湯を沸かしながら、父親は大袈裟に驚いてみせた。
あんなことがあったのに、元気な訳ないでしょ! 碌にご飯を食べてないのに、ホテルの食事が喉を通る訳ない! 貴方と行っても、楽しくない!
言いたいことは、山のようにある。
口にしてしまえば、堰を切ったように際限なく言葉が出てくるだろう。
「僕、お父さんのこと嫌い」
心の何処かで血の繋がりのある人だから、分かってくれると思っていた。
全部は無理でも一ミリくらいは、僕のことを理解してくれると望んでいたんだ。
「嫌い」と言う言葉は、最後の砦のような気がしていた。
僕が怪物にならない為の、セーフワード。
だってみんなは、当たり前にご両親のことを普通に好きだと思うから。
その感情すらも無くしてしまったら、僕は人間でなくなる気がしていたんだ。
「俺は、静弥のこと好きだぞー。だから、こうして会いに来てるんじゃん」
「お父さんの機嫌の良い時だけ、優しくされたって意味ない! いつも優しくしてよ! 僕が辛い時側に居なかった人に優しくされても、信じられないんだよ!」
ヒカル君は「静弥、落ち着けって」と、僕を諌める。
「はっきりさせようよ。君は、誰の味方なの? 答えによったら、分かるよね?」
そう言って沸騰したケトルを、僕は台座から持ち上げて言う。
「なに……が」
シノヅカ ヒカルは、開きっぱなしの瞳孔で僕とケトルを交互にぼんやりと、見るだけだった。
まるで水中で話すみたいに、僕の声が届いていないように思う。
そっか。君じゃ、分からないんだね。
ダメだ! 止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ! 動くな! 僕の手!
この行動を実行したら、雲雀丘君の言う反復活動をまたやらかしてしまう。
頭では分かっているのに、身体の制御が効かない。
僕はそのまま自分の空いている方の腕に、ケトルの注ぎ口を傾けた。
ビシャビシャビシャと一定のリズムで、お湯が僕の腕を滴る。
台所の床は水溜りが出来て、父親とヒカル君の顔は真っ青になっていく。
「な、何やってんだよ!! 静弥!!」
父親は僕の手からケトルを引き剥がして、左腕の袖を捲り流し台に連行した。
シノヅカ ヒカルは慌てながら、水道の蛇口を目一杯捻り水を放出させる。
父親は火傷ごと洗い流すかのように、僕に水を浴びせる。
こんなので痛みが引く訳がなく、僕はシノヅカ ヒカルを見つめる。
父親は僕のリストカット跡と首の跡を見て、何か言いたげな顔をして口を開きはするけど何も言わない。
僕の中で、プツンと何かが切れた気がする。
あーあ。もう、なんでもいいや。
右も左も、天も地も、赤も青も、善も悪も、全ての境界や差異がなくなった気がした。
「君、跡欲しがってたよね。つけてあげるよ。腕、出して」
シノヅカ ヒカルは、言われるがままに腕を出す。
本当に、お人形さんみたい。
可哀想な、シノヅカ ヒカル。
僕なんか、好きになったばかりに。
「逃げないの?」
「に、逃げない……。これで静弥の気が済むなら、それで良い。俺のこと、殺して良いから」
違う。そんな言葉が、欲しいんじゃない。
篠塚 晄君が全てを捨てて、僕を選んでくれることは僕の悲願だった。
彼の気持ちごと手に入れた筈なのに、どうしてこんなに哀しいんだ。
僕がお湯をかけないことに痺れを切らした晄君は、ぎこちなく左手を動かして僕の手からケトルを奪った。
そしてたどたどしく、自身の右腕に僕がしたようにお湯をかけるのだった。
まるで世界から僕達だけ切り離されたように、ゆっくりとゆっくりと時が流れたようだった。
ケトルからお湯が流れている時間は、とても長く感じた。
まるで十年分の時の流れを、見せつけられたかのようだ。
シノヅカ ヒカルは、わざとケトルをなだらかに傾けたのだと思う。
僕に、見せつける為に。
「何やってるんだよ……!! ダンス出来なくなっちゃうよ!? ダンスだけじゃない、日常生活も……!!」
「いいよ。静弥の信頼を得れるなら、なんでも」
僕を理由にした、思考放棄でしかない。
こんな状態のニンゲンを、人間と言えるのだろうか? 目の前のシノヅカ ヒカルを、篠塚 晄と言えるのだろうか。
彼をそんな状態にしたのは、他ならぬ沼黒 静弥だ。
彼を早く、僕から解放してあげなくちゃ。
可哀想だよ。
「もういいんだよ、ヒカル君。勝本君達への復讐は済んだし、駒として置くメリットが無くなっちゃった。君のこと、ずっと大嫌いだったんだよ。能天気だし、ガサツだし、下品だし」
嘘だよ。
何も無くてもこっちまでいい気分になれるような明るさに救われていたし、晄君の雑なところを見て少しだけ肩の力を抜けたし、晄君が下品だから自分の汚い感情も吐き出せた。
そんなの、言える訳ないじゃないか。
何もかも壊しちゃった、僕が言える訳ないじゃないか。
父親はキレながら、店にキャンセルの電話をしている。
大声で「店の人に、当たるなよ!! 子供と信頼関係結んでない癖に、見栄だけ張るお前が悪いんだろ!! 僕も普通のお父さんなら、一緒に行ってたよ!!」
と、父親に怒鳴りつける。
父親は鼻息を荒くしながら僕の頬をピシャリと打って、聞かせるように足音を鳴らしながら台所を出ていく。
十五年前と、何も変わってない。
お店の人、ごめんなさい。僕の所為で、こんな屑に怒鳴られてしまって。
僕がまともに生きていたら、父親とご飯を食べる数時間くらい耐えられただろうに。
ごめんなさい。僕が、弱いばかりに。
父親が次に現れるとしたら、また十五年後かなぁ。
その時沼黒 静弥は、三十六歳。どんな人間になっているのか、想像つかないや。
そもそも生きているのかすら、分からない。
シノヅカ ヒカルは、僕をぼんやりと見つめている。
「静弥~。お父さん帰ったから、セックスしよう」
言葉が、通じていない。
普通あんなことを言われたなら、怒って帰るだろう。
自分の欲しい言葉しかインストールしない、シノヅカ ヒカルのお母さんみたいだ。なんて、思ってしまった。
なんで父親の方が、まともに見えてしまうんだ?
そう言って、シノヅカ ヒカルは服を脱ぎ出す。
「やめて……!! やめてよ!! やめろよ!!」
僕はシノヅカ ヒカルに体当たりをして、馬乗りになって必死に止める。
怖い。気持ち悪い。僕がひかる君を、こんな風に堕としてしまった。自分の理屈で、ひかる君の邪魔をした。僕は、どこで間違えたんだろう。やまにゃんに石を落とさなければ、みんなと仲良く出来た? 年中さんの時に、ひかる君を好きだと言わなければ? 存在自体が、間違いだった?
今からでも「洗脳罪」とか「他者破滅誘導罪」とか「人格破壊妨害罪」とか公布されないかな。
心と身体は一つになっているなんて、嘘だ。
こんなにぐしゃぐしゃで、最低で最悪な気分なのに僕のペニスは勃起している。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。己の快楽の為に、普通の状態じゃない人間すら使おうとする身勝手さ。最低だ。起き上がりこぼしや赤べこのような無意味な反復活動を繰り返すだけの肉塊。
終わらせなきゃ。この物語を。
醜くて、気持ち悪くて、誰にも理解されない恋を。
「さようなら」
昔から、物語が好きだった。主人公達がどんな窮地に陥っても、ほぼ必ずと言って良い程ハッピーエンドで終わるから。自分の人生もいつかは……と、救いを見出せたから。
昔から、物語が嫌いだった。物語の主人公は最後は救われるのに、僕は救われないから。まるで僕は、倒されるべき悪役だと言われている気がしたから。
シノヅカ ヒカルを、殺すしかない。
僕はシノヅカ ヒカルの首を、ギュッと締め上げる。
今度こそ、ちゃんとやるんだ。僕の力で息の根を止められないなら、ベルトとかを使って殺すんだ。
僕の手の熱を冷ますように、ひやっとした感触を感じた。
手の先を見ると、ペアネックレスのチェーンが当たっている。
『I want to be forgiven only by you.』
と、刻印されたあのペアネックレスが、シノヅカ ヒカルの首にかかっていた。
どうして、どうして、なんで、なんでなんだよ!
赦して欲しいのは、僕の方なのに!
僕は普通じゃないから、親に優しくされないような無価値な人間だから、僕と関わっても誰も何も残らないものだと思ってた。
だけど、そうじゃないんだ。
親に愛されなかった過去も変わらないし、きっとまたあの父親はまた僕を振り回すだろうし、首の跡とかリストカットの跡も火傷跡もーー何も無かったことにはならない。
生きると言うことは、何かを残すこと。
残るから、忘れられないから、悲しいんだ。
僕の手は汚れていて、他人に触れてはいけないものかもしれない。
僕が他人の目が怖いように、他人だって僕のことを不気味に思っているんだろう。
僕は「沼黒 静弥が、ここに居て良い」と言う証が、欲しかった。
みんなはきっと「そんなの、考えたことないわー」とか、言うんだろう。
それは人との関わりで、積み上げるものなんだ。
僕が自発的に、気付くべきことだった。
下らないことに固執して、他人が言ってもないことを妄想して、自分の殻に閉じ籠っている間にみんなが手にしている自信。
普通にとか、ちゃんととか、まともにとか、そんなのはもう要らない。
一人の男として、篠塚 晄の横を歩けるようになりたい。
一念発起したからと言って、他人の視線も話し声の恐怖が消え去る訳じゃない。
ざわめく声に、足を止めたりはしない。
その先にある未来を、晄君と掴むと決めたから。
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