スウィートカース(Ⅸ):ファイア・ホーリーナイト

湯上 日澄(ゆがみ ひずみ)

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第二話「雪明」

「雪明」(7)

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 サービスエリアのレストラン。

 午後一時十二分……

 うがいをした口と涙をていねいに拭きながら、エマはトイレをあとにした。

 アドレナリンに封じられていた嘔吐感は爆発し、もはや胃の中はスッカラカンだ。こんどからジェットコースターに乗る前のチンジャオロースは控えよう。

 席に戻ると、男がひとり、憮然と腕組みして座っていた。閉じた目の前には、やはり冷めゆくままのコーヒーが湯気を漂わせている。

 おもむろにジェイスの隣にすり寄ると、エマはほほ笑んだ。

「泣いていい?」

「よせ」

 ジェイスの反対を無視し、エマの号泣はレストランを切り裂いた。

 運転手の胸に思いきりしがみつき、パニック混じりに大声で泣きじゃくる。こちらを横目にするのは、離れた席にぽつんと座る親子連れだ。

「キャハハ! ダニエル! なにあれ~???」

「失礼だぞ、ホーリー。引っ込むんだ。いいかい、人間には恋愛という制御の難しい反射運動があってだね……」

 ソファに身を乗り出す幼い少女を、サングラスをかけた父親は咳払いでなだめた。

 その間にもエマは、ジェイスの懐でストレスを言葉にして発散している。

「も~頭がどうにかなりそう。うっうっ。犯人には撒かれちゃうし、おまけに高速道路のあの大事故よ。カンカンだわ、署長」

「…………」

「いまあたし、猛烈に後悔してるの。警察の道になんて進まず、気楽にタクシーの運転手でもやってればよかったって。ええもちろん、刑事とかが緊急で片手を上げても問答無用で乗車拒否よ」

「どけ」

 ジェイスの無感情な一言に、はっとエマは顔を赤らめた。

 ただの運転手の割には、意外とたくましい胸板だ。おずおずとジェイスのそばから退去すると、申し訳なさげに正面の自席へ戻る。

「ごめんなさい。泣いてスッキリしたわ。仲間が迎えに来るまで、すこし話していい?」

「…………」

 ジェイスに反応はなかったが、エマは勝手にここまでの経緯を語り始めた。話が先に進むにつれ、エマの表情は深刻さを増していく。

「なに言ってるか分からないでしょ。あたしも何がなんだかよく分かってない」

「…………」

 聞き手のジェイスは、眉根ひとつ動かさない。

 ただ、物語のふしぶしに現れる超常的な単語はなんだろう?

 ふたりが出会った付近の路地裏で、下水道から目のくらむ光が噴き出した。警察とマフィアの衝突現場に突如として乱入したのは、見たこともない球状の巨人だ。

 心の中だけでジェイスはささやいた。

 ジュズだ。

 深呼吸して意を決し、エマは打ち明けた。

「警察もマフィアも見境なしよ。マンホールをぶち破って突然湧いた球の怪物は、きょろきょろ動く目から燃える光線を発射した。あたりの人間は、あっという間に焼き切られていく。まるでバターでも溶かすみたいに」

 エマの手の震えは収まらなかった。

 ななめにナイフの傷跡が走った警察のバッジを、うつろに眺める。金属製のこれが、あの怪人の斬撃から彼女の命を救ったのだ。代わりに無力な自分は、まさしく警察の看板に傷をつけて泥を塗った。

「こんな客を相手にしたことはない? 大昔のピラミッドで見つかったみたいに、頭のてっぺんから爪先まで包帯ぐるぐる巻き。いつもプッツンした笑いを浮かべながら、息をするように人殺しと破壊を楽しむ。おかしな事件があれば全部こいつの仕業、っていうのが段取りのいい上司の警部のやり口ね。その名は〝スコーピオン〟……犯罪者の世界じゃ神と崇められてるテロのスペシャリストよ」

「…………」

 ジェイスの手首では、銀色の腕時計がときおり太陽を照り返している。女刑事の貴重な生の証言を、組織ファイアは逐一漏らさず盗聴しているはずだ。

 そんなことを知るよしもなく、エマは続けた。

「スコーピオンは結局、アタッシュケースをひとつ、嬉しそうに持っていった。マフィアが取り引きしかけてた不思議なケースよ。そういえば、一瞬だけ中身を見たわ。血管に似た根っこらしきものを、サンゴみたいに生やした気持ちの悪い〝花〟? 悪党の庭にはあんなのばかり咲いてるのかしら? 聞いた名前はたしか……ダリオン?」

 盗聴器の向こうで耳を澄ます政府の捜査官エージェントたちは、そろってイスからひっくり返った。

 その単語が秘める衝撃と驚愕を表に出さないのは、ジェイスだけだ。

「だからスコーピオンを追ってたってわけよ、あの血染めの現場でひとり生き残ったあたしは。しっかり罪を裁く場所に立たせるまで、あたしはあいつの追跡をやめない」

 エマの頬にはふと、また光るものが伝っている。ひどい虚無感だった。ぽっかり心から抜け落ちた大事な破片は、とうぶん拾えそうもない。

「さっきは休憩中、窓を割ってごめんね」

 エマは伝票を手に取り、腰を浮かせた。

 着脱式の赤色灯をつけたワゴンが、サービスエリアの駐車場に停まったのだ。S・K・P・Dの覆面パトカーが、迎えに参上したらしい。

 警察手帳にさらさらと何事かを記入すると、エマはジェイスへ切り取ったメモを手渡した。

「これ、あたしの部署の連絡先よ。あいた時間でいいから、コーヒーでも飲みに来て。簡単に調書を取ったあと、今度は警察があなたのタクシーの修理代を支払うわ。ここまでワガママに付き合ってくれてありがとう、ジェイス」

「…………」

 ジェイスの無言を返答として、エマは席を立った。

 レジで精算を終えると、うつむき加減に出口の扉をくぐる。エマが袖でぬぐう瞳の端には、涙でにじんだ街路樹が揺れていた。

「はあ。仲間のお葬式のときに着る制服、まだ寸法が合うといいな……ハイ、お迎えお疲れ様?」

 エマの挨拶を聞いて、ワゴンのドアに運転手の腕は垂れた。

 まだ勤務中だろうに、その指先ではニンジンみたいに太い葉巻が芳醇な紫煙をくゆらせている。怪我でもしているのか、その手に丹念に巻かれるのは幾重もの包帯だ。

 包帯、包帯、包帯……

 包帯?

 運転席の闇の奥、人影は思わせぶりに聞き返した。

「〝お・む・か・え〟?」

 こつんとエマの眉間に触れた44マグナム拳銃には、忠実な毒サソリの印象がデザインされている。

 銃口に視点を寄せ、エマは間の抜けた疑問符をこぼした。

「へ?」

「レッツゴー、火葬場!」

 銃声……

 その刹那、エマは勢いよく押し倒されていた。

 身をかがませた刑事を抱き、何者かが彼女ごとレストランへ飛び込んだのだ。

 一秒間に五万発。撃つ撃つ撃つ撃つ。謎の襲撃者が放った銃弾の雨は、店内の壁という壁をけたたましく食い破った。滝のごとく窓ガラスは砕け散り、装飾の花瓶は四散する。

 テーブルの下にエマを放り込むと、ジェイスも同じく体を伏せた。鼻先すれすれを掠め過ぎた跳弾にも、まばたきひとつしない。

 両腕で頭を守りつつ、エマは叫んだ。

「な、なになになに!? 戦争ッ!?」

「…………」

 耳をふさいだエマへ、ジェイスはそっと片手を差し出した。

 おお。女刑事が広げた掌に落としたのは、タクシーの鍵だ。

 戦場の中心部そのものの狂騒の中、エマは顔を強張らせた。

「う、裏口まで走れって言うの?」

「行け」

「行け、って……あなたは、あなたはどうする気?」

 頭上から手探りで運んできたコーヒーを一口すすり、ジェイスは静かに駐車場を見た。

「客だ」
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