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第三話「雪花」

「雪花」(11)

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 蹴り開けられた通気孔の蓋は、けたたましく床を躍った。

 天井裏から真下へ、重たい気配が落ちる。着地失敗だ。しこたま尾底骨を打ち据えたらしく、モニカは尻もちをついたまま痺れて動けない。

 モニカがたどり着いたのは、広い研究室だった。暗がりのあちこちで明滅するのは、難解な実験機材たちだ。移動中も化学の仕事に専念できるよう、アイホートにはこんな部屋まで用意されている。

 そのアイホートの飛行も、それなりに安定していた。幸運にも機体は、操縦士の手を離れて無人制御に移ったらしい。

 痛む腰をさすり、モニカは起き上がった。

 ヒビの走ったメガネを正しつつ、彼女が一目散に駆け寄ったのは最寄りのキャビネットだ。千差万別の薬液に満たされた容器を集める、集める、かき集める。一見無造作にも思える動きだが、選別するその手つきに誤りはない。

 作る。ダリオンを枯死させる特殊な薬……毒を。

 毒の名前が植物を齧り食う〝青虫ケルタプラ〟とは、発明者にもユーモアがある。こんなことになるのなら、最初から作り溜めておくべきだった。

 遠心分離機や加圧瀘過機に、モニカは足早に電源を入れていく。聞こえてきたのは、徐々に高まる機械の起動音だ。

 ある機材に触れかけたモニカの指先は、不意に止まった。

「なに、これ?」

 こんこんとその表面をノックしたモニカの拳を、鋼鉄特有の冷気が這った。

 ひっそりと化学機器の山に混じって佇むのは、解読不能な注意書きで埋め尽くされた大きな箱だ。ちょうど人ひとりが収まる寸法にも見えるが、固く封じられたそれには覗き窓の類はついていない。

 それは文字どおり、機械でできた棺桶だった。

 こんなものを組織ファイアに注文した覚えはない。モニカ自身、いくら死の寝床に片足を突っ込んでいるとはいえだ。

 空気の圧搾する響きとともに、研究室の自動扉が開いたのはそのときだった。

 血相を変え、モニカはとっさに振り向いている。

「!」

 律動的に鼓膜を打ったのは、ハンマーで金属を叩くような強い靴音だった。

 明るみに踏み出した馬鹿でかい特注のブーツは、モニカの記憶にも新しい。天井に届くか否かという大柄な人影は、出入口の暗闇に無言で屹立している。

 くわしく姿は見えないが、間違いない。ドルフだ。医務室で寝込んでいると聞いたが?

 モニカは安堵に、胸を撫で下ろした。

「脅かさないでよ、もう。ヒーローが突然おいでなすったわけね?」

 また一歩前進したドルフへ、モニカは惚れ込んだ顔で続けた。

「説明は後回しよ。病み上がりのところ悪いけど、さっそく仕事して。武器は持ってるわね。あたしの作業が終わるまで、なにも来ないか通路を見張って……」

 床に降り注いだ唾液の滝は、モニカを絶句させた。

 見よ。強張った表情で後退したモニカを追い、暗黒から完全に抜け出したドルフを。

 なぜ迷彩服が血まみれなのだろう。筋繊維や血管を垂らす巨躯を押しのけ、なぜ硬い甲殻が覗いているのだろう。がりがりと床をこすって這う尻尾が、なぜ珍しい〝卵管〟の形状をしているのだろう。

 押し殺した悲鳴を縫い、モニカは結論付けた。

「寄生された……!?」

 無数のフラスコを払い落とし、モニカはテーブルへ跳んだ。

 襲いかかった勢いそのままに、外れたダリオンの鉤爪は背後の機材を貫いている。例の謎めいた棺桶を、鋼鉄製にも関わらず紙のように破壊したのだ。

 机上でもがくモニカを、背骨じみたギザギザの物体が翳らせた。くぐもった呻きを漏らしたモニカの喉首は、鋭い尻尾に巻き取られている。そのままモニカは、常識離れした膂力で一気に宙へ引きずり上げられた。

「…………」

 ドルフの顔は、黙ってモニカの鼻先に迫った。眼球は両方ともない。必死にそむけられたモニカの頬を、生臭い鼻息が打つ。

 続いて、ドルフの口は開いた。いや、開くというレベルではない。

 顎の関節をちぎり、顔面の肉を裂くや、頭蓋骨を突き破って現れたのは、血まみれの巨大なつぼみだ。ドリル状の蕾の先端は、涎の糸を残して生々しく花開く。

 異次元の呼吸にあわせ、ダリオンの花弁は静かに波打った。気道を絞められて焦点の定まらないモニカの瞳から、ひとすじ流れた涙は絶望の色をしている。

「!?」

 威嚇らしきダリオンの咆哮とともに、モニカの身は不可解にも投げ出された。床をバウンドし、力なくあえぐ。

 なにが起こった?

 ダリオンはといえば、視覚なき視覚で向こうを睨んでいる。正確には、不思議な棺桶に埋もれたままの我が腕を。

 力任せに身じろぎするも、ダリオンの爪はいっこうに抜ける気配がない。なにかに引っかかったか?

 かすかに笑ったのは、小鳥のさえずるような声だった。

 くくく、と。

「いい夢見てたんですがね」

 棺桶の外装をひん曲げ、ダリオンの片腕はついに抜けた。おお。その太い手首を、なにかが掴んでいる。

 人の手だ。

 未知のそれを振り払うべく、ダリオンは逆の腕を一閃させた。なんと、目にも留まらぬスピードで受け止められる。こんどは、棺桶を内側からぶち破った正体不明の掌にだ。

 見えない手の主は、首を傾げたようだった。

「変ですね。搭乗前の検査では、あなたには何一つ不審な点はありませんでしたよ。もしかして、探知機に引っかからないように進化しました? ねえ、ロドリゲスさん?」

「!」

 ダリオンは、痛みに絶叫した。

 尋常ならざる敵の握力が、ダリオンの両手を圧したではないか。まるでプレス機だ。同時に放たれた何者かの前蹴りが、棺桶の蓋ごと怪物の巨体を吹き飛ばす。

 ダリオンの激突した壁を背景に、モニカは目撃した。

 霞んだ冷気の底から伸びた何者かの足を。メンテナンス装置という名の棺桶のふちを掴む人の指を。

 極彩色の配線を全身にまとわりつかせ、ほのかな照明の下に身を起こした若者を。

 光沢のある前髪を振り、ヘリオはささやいた。

「やれやれ、とんだ眠り姫です。やっと機体の充電と整備ができると思ったら、こんな尖ったキスで叩き起こされるなんて。おや?」

 床にへたり込む知人を認め、ヘリオはたずねた。

「スチュワートさん、お熱の具合は?」

 小刻みに震える手でヘリオを指差し、モニカは反論した。

「そ、そんなこと言ってる場合!? きみはいったい……危ない!」

 躍りかかったダリオンの爪に対し、ヘリオは軽く片腕をかざしただけだった。

 硬質の衝突音に続いたのは、猛烈な火花だ。深い亀裂の走ったヘリオの足もとは、ダリオンの一撃の凄まじさを物語っている。そんな怪力を腕一本で食い止めながら、しかしヘリオに動じる様子はない。

 間髪入れず、ヘリオの横っ面をたくましい尻尾が薙ぎ払った。直撃に大きく仰け反ったものの、やはりヘリオは倒れない。ヘリオの足裏から床に打ち込まれた固定用スパイクの性能を、モニカやダリオンには知る由もなかった。

 倒れる? 人体の常識からすればヘリオのこの姿勢、まず背骨が粉砕する角度だ。

 平然ともとの位置に戻り、ヘリオはにこやかにダリオンへ念押しした。

「訴えないでくださいね?」

 轟音……テーブルを二つ三つへし折り、ダリオンは遠くまで転がった。とんでもない飛距離だ。お見舞いした握り拳を引き戻すや、ヘリオの両手には異変が生じている。

 なんだこれは?

 微細な駆動音とともに、ヘリオの腕の甲が左右とも外側へ割れたではないか。展開したその内部からそれぞれ倒れ込んで戦闘位置についたのは、二振りの巨悪な輝きだ。

 それは、研ぎ澄まされたヘリの回転翼ローターブレードを思わせた。刃の根本の部分には、きっちり二挺ぶんの機関銃が埋め込まれている。それらをまっすぐダリオンへ照準するや、ヘリオは反動に備えて踏ん張った。

「マタドールシステム・タイプヘリオ基準演算機構オペレーションクラスタ擬人形式ステルススタンスから狩人形式ハンタースタンス変更シフトします……射撃開始ファイア

「!」

 ダリオンの苦鳴は、轟音に飲まれた。

 撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。ヘリオの両腕の先端、高速で燃え盛るのは猛烈な銃火だ。これはたまらない。自動扉を破って廊下へ転がり出したダリオンを追い、壁は、機材は、端から端へ蜂の巣と化す。吐き出される排薬莢の雨は、ヘリオの足もとで止めどなく鈴音を鳴らした。

「ターゲット消失ロスト……お大事に」

 ヘリオのつぶやきとともに、銃声はやんで濃い硝煙を漂わせた。

 双剣状の機関銃は、勢いよく前後スライドして空の弾倉を振り落とす。じわじわと床を焼き溶かすのは、ダリオンの足跡を描いて残った強燃性の血液だ。

 頭をかばったまま、物陰から顔を覗かせる人物がいた。驚愕に、モニカの目尻はまだ痙攣している。

「ええっとね、その、あれよ、男女くん。すこしお話できるかし……」

 轟いた閃光に、モニカはふたたび引っくり返ることになった。

 盛大に噴射されたスプリンクラーの雨は、凶器の鮮血を、燃え広がりつつあった炎をゆっくりと鎮めていく。天井を狙ったヘリオの片腕は、真っ赤な灼熱の軌跡をひいて下ろされた。

 冷静に聞き返したのはヘリオだ。

「人間そっくりでしょ?」

 素早く銃剣を収納状態にした手を、ヘリオは感触を試すように開け締めした。無造作に引き抜いた全身の配線が、しのつく水溜まりに触れて火花をまたたかせる。

「でも、みなさんを動かす痛みと、私の原動力はすこし違いますね。私に大切なのは、ひとつの命令と、百の歯車、そして千の敵です」

 ガラス球じみたヘリオの瞳の奥の奥……高解像度の視界モニターには、いまも情報の嵐が吹き荒れていた。

 ヘリオが捕捉するモニカは、人型の熱や振動の塊として表示されている。立ち上がりかけるモニカの心音の波形は、ひどく激しい。

 微笑みを絶やさず、ヘリオは告げた。

「私は特殊情報捜査執行局〝ファイア〟のマタドールシステム・タイプH……エージェント・ヘリオと呼ばれています」

「マタドール……!? エージェント……!?」

 モニカは唖然と反すうした。

 どこかで聞き覚えのある単語だ。そう。バナンの廃墟で自爆した〝それ〟の絶対領域ブラックボックスを探し求めるべく、モニカたち調査隊は特別に編成されたのだ。

 モニカの脳裏を、洪水のごとく記憶の怒涛が駆け巡った。マッドサイエンティストで鳴らした遠いあの時代のことを。

 完全防護の気密服を装備して、淡々とダリオンの標本を解剖する研究員たちを、いつもどこかから眺める者の存在は知っていた。天井の四隅で、油断なく回転する監視カメラの眼差しのことだ。

 なぜいままで気づかなかったのだろう。ごく限られた役職者のみを内部に受け入れる認証機が、自動扉を開閉するたびに発するあの声だった。人間工学に基づいて最大限、耳に心地よく調律されたあの中性的な合成音声……よくよく思い起こせば、あれとヘリオの声は一致する。

 言うことを聞かないダリオンめがけて、超高温の熱線をぶっ放す部屋のことは忘れようもない。モニカの思い出の中、燃える血を浴びた強化ガラスに、束の間、楽しげな笑顔が反射した気がした。それは眼前のヘリオの相貌をしている。

 ダリオンの研究を多角的に補佐するそのAIの名称もまた、マタドールシステムだ。

 めまいのする眉間を押さえ、モニカは落胆を言葉にした。

人型自律兵器アンドロイドの、しかも医者のふりをした捜査官エージェントだったのね、きみ……あたしはダリオンの監視システム、いえ、組織ファイアのあの研究所そのものと会話してたらしいわ。まさか過去の悪夢が足を生やして、ここまで追っかけてくるなんて」

「くくく、ご安心を。スチュワートさんへ酷いことをするようには、まだ入力インプットされていません。ええ、例えばあなたが、みなの悲しむような裏切り行為にでも走らない限りは」

 ヘリオの脅迫に、モニカは目つきを悪くした。悔しげに歯ぎしりしつつ、言い返す。

「マタドールシステム……人類の天敵がダリオンだとすれば、ダリオンの天敵はまさしくきみたちよ。なら、やつらを野放しにした責任は組織ファイアにあるわ」

「ですのでこうして私も、研究所のAIという内勤から、この機体に魂を移して外回りに異動し、花狩りに注力している次第です。それに責任どころか、ダリオンはそもそも政府自体が……おっと、口が滑るところでした。くくく」

「バナンで自爆した弁護士も、きみの系列機?」

「はい。タイプブレイドのシヨは、私の姉にあたります」

「なぜ廃墟の戦いで、そのマタドールの戦闘力を発揮しなかったの?」

 銀色に輝く手首の腕時計を示し、ヘリオは答えた。

「無理です。敵の物量が多すぎました。あの場で私が圧倒される危険性は非常に高く、その際はみなさんや最重要の回収物サンプルを巻き添えにして自爆せねばならなかったでしょう」

「あそこからアイホートへ、あたしたちを運んだのもきみね?」

「そうです」

「いったいどうやって……」

 スプリンクラーの水滴が伝うモニカのメガネは、ちょっとだけヘリオを見て戻った。濡れた前髪を掻き上げながら、疲れた面持ちで提案する。

「とりあえず、なにか着たら?」
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