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其の四
しおりを挟む牧宗親が家人とともに、亀の住まいを襲い、柱一本残して打ち壊したという大事件が、鎌倉の人々の耳目を驚かせたのは、それから一月余り経ってからのことである。
「いかに何でもやりすぎじゃ。格子の一枚くらいならともかく」
「そもそも御台さまが、亀の前を後妻打ちとは、筋が通らぬではないか」
後妻(うわなり)打ちというのは、夫が新しい妻を娶ったり愛人を囲ったりした為に、見向きされなくなった先妻や本妻が、家族や家来に命じて新しい女性の住まいを襲わせ、家屋の一部を壊したり、家財道具を持ち出したりする、いささか野卑びた慣習である。
相手の家屋敷を柱一本にしたという激しい例はあまり聞かない。
その上、頼朝がいくら亀を寵じたところで、政子とすげかえようなどと考えるはずもなく、それどころか嫡男を産んだ御台所政子は、ますます重んぜられる一方なのだから、筋が通らないと言われるのも道理である。
しかも壊されたのは亀の前の家ではなく、頼朝の命で彼女の世話をしていた伏見広綱という御家人の邸だった。
降ってわいたような災いに、広綱は亀を連れ、ほうほうの体で逃げ出し、三浦一族の大多和義久の邸に身を寄せた。
激怒したのは頼朝である。
政子が出産で自分の側から離れる隙を狙い、昔なじみの亀を鎌倉に呼び寄せ、なるべく御所から離れた伏見広綱の邸に囲うというのは、我ながらせこいやり方だとはわかっている。
しかし何はさておき、万事はこの鎌倉の主、頼朝のはからいである。
それを、いくら政子に命ぜられたからとはいえこの乱暴極まりない所業でもって、亀を叩き出すとは何事か。
聞けば、彼女は恐ろしさのあまり口も聞けず、誰にも会おうとしないという。
すぐさま、大多和義久の館に駆けつけ、か細い体を震わせ怯えている愛しい人を慰め、事の仔細を広綱に確かめると、すぐさま牧宗親を召し出した。
「御台所を重んじ奉ることは結構だが、このような狼藉に至る前になぜ一言注進せなんだかっ。そなたは自らの主を誰と心得るっ」
普段は青白い顔を真っ赤にし、やや下膨れの顔の頬をぶるぶる震わせながら、頼朝は庭先にひれ伏す宗親の顔を、足でもって地面にこすりつけ
「そなたの顔なんぞ、二度と見とうないわっ。どこへなりとも行くがよいっ」
やおら懐の短刀を抜き、宗親の髻をばっさり切り落としてしまったのである。
宗親は、首を締め上げられた鶏のような、哀れな叫び声を上げ、脱兎のごとく大多和邸から姿を消した。
髻を切るという行為は、覚悟の切腹の前か、発心の上の出家前にするもの、それを他人から切られる者は、処刑前の罪人か、それに類する者と決まっていた。
「髪は女の命」とよく言われたものだが、男にとってもある意味命だったのである。
当然、北条家は盆の水をひっくり返したような騒ぎになった。
「兄は、このままでは御所さまに殺されると思ったそうでございます…かくなる恥辱を受けては鎌倉に居ることはかなわぬと、駿河に戻りました。お館さまはいつも、御所さまの今日があるのは、我が北条家が全力でお守りしたからだと、北条は別格だと、いつもおっしゃっているではありませんか…その御所さまに、お身内がこのような仕打ちを受け、悔しくはございませんのか…」
いつも通りの達者な口先で、時政をかき口説いているのは、牧の方である。
(わしゃ、なんも知らん)
時政は苦りきっていた。
自分の知らぬところで、娘と、妻と、妻の兄がとんだことをしでかしてくれたものだと思う。
(御所さまも御所さまじゃ)
頼朝の面目を潰された怒りは最もながら、宗親をにわか召し出して髻を切るという過激な行為に及ぶ前に、なぜ一言自分に言ってくれなかったものか。
事が事だけに政子の身内には言い出しづらかったものか、おかげでこちらの面目も丸つぶれである。
「何せ、わずか三十騎で山木を血祭りに上げ、平家に目にもの見せてくれたのは、他でもないこのわしなのだからな」
一の谷も三草山も屋島も、このわしの山木攻めあっての戦よと、事あるごとにその数少ない武功話をのたまわっている時政は、若い牧の方にめっぽう弱い。
北条家が頼朝の盟友であるのに間違いはないが、牧の方に話すについては少々誇張している節は否めない。
北条家は、武勇の家ではないのである。
当たり前ではあるが、時政やその身内が何をやっても許されるなどということは、決してあり得ない。
若妻の気持ちを鎮め、失った「御所さまも御舅殿」の面目を取り戻すためには、どうすべきか。
時政は、四角い顔を真っ赤にし、太く、短い四肢を踏んばって懸命に考えた。
足元には可愛い牧の方が、しどけない姿で泣き崩れている。
そうして考えぬいて下した、伊豆に引き上げるという決断は、立ち回り上手な時政にしては、お粗末なものであった。
「荷物をまとめい。手勢も集めるのじゃ。何ひとつ残すな」
唖然とする家人を急き立て、決して多くはない一族郎党引き連れて鎌倉を発つ、やや滑稽なその姿をみた人々は
「北条殿ご謀反か。まさかいくさにはなるまいの」
「あれしきの兵では戦にもならぬて」
「しかしまあ、お妾ひとりがとんだ騒ぎになったものじゃ」
面白半分、不安半分に鎌倉随一の夫婦喧嘩の飛び火を見守った。
(父上はどれだけ牧どのに甘いのか)
実家のただならぬ様子に、御所の政子へのご機嫌伺いもそこそこに、駆けつけた定子はがらんどうになった実家を見て、茫然としていた。
「本当に、ほんとうに誰も残っていないのですか」
留守居を命ぜられたという家人に尋ねると
「いえ、それが…」
と妙に口ごもっている。
「あ、姉上。いらしてたのですか」
定子と家人のやり取りを聞きつけたものか、ふらりと現れ出た背の高い人影を見て、定子は驚きのあまり絶句した。
「小四郎っ。そなた、父上と一緒では…」
北条殿は、一族郎党引き連れて伊豆に去なさった。
館はもぬけのからじゃ。
そんな噂を聞きつけて、とるものもとりあえずやって来たのである。
誰も嫡男の義時が、残っている事に気づかなかったと言うのだろうか。
さすが父上、最後の一片の冷静を失わず、主に完全に背く形になるのを避けるため、弟を残していったのかと、納得しかけたが、どうやらそういう事でもないらしい。
「多分、今頃馬の上で気づいて、驚いているんでしょうかね。父上は」
義時本人はけろっとしている。
(まさか、ここまで影が薄いとは)
定子は頭を抱えたくなった。
「まあ、いいじゃないですか。皆、伊豆に行ってしまったらそれこそ謀反ですよ」
「それはそうだけだど…」
ぼそぼそ呟くように言って自分の曹司に、さっさと引きこもってしまった弟の背中を眺めながら
(もしかしたらあの子は、ものすごい利口者なのかもしれない…)
定子は、空恐ろしさを感じていた。
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