夢占

水無月麻葉

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其の一

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折しも京の都では平清盛を初めとする平家一門が、栄耀栄華を極めていた頃、治承元(1177)年四月某日。
坂東は伊豆国田方郡に居する、在庁官人北条時政が娘、夜叉王が見た極めて暗示的な夢の話である。

 夜叉王は夢を見た。不思議な夢だった。
 辺りは一面の藍色だった。
 夜叉王の住む、この伊豆でも指折りの大豪族伊東祐親が、彼女たちの祖父であった。
 その祖父の家に遊びに行ったときに見た、真夜中の海がちょうどこんな色をしていた。
 「怖い?」
 風が唸るような音を立てる、星の美しい夜であった。
 海はその風を受けてうねっていた。
 大人たちには内緒で彼女を海岸の岩場まで連れ出した従兄弟たちは、伊豆の内陸部で育った夜叉王と弟の五郎が、見たこともないような外海(そとつみ)の荒々しい躍動に怯えているのを察していた。
 小さな手と手とを繋ぎあったときの温もりを、今でもはっきり覚えている。
 
「一万さまっ、筥王さまっ」
 ここがあのときの海ならば、従兄弟たちがいるはずである。夜叉王は夢中で彼らの名を呼んだ。
 「五郎っ」
 弟もいない。もしかしたら、今、自分は一人ぼっちなのかも知れない。
そういえば、あのときの、あの恐ろしい風音もない。ここは一体どこだと言うのだろう。
 急に夜叉王は不安になった。
 「姉うえ、大姉うえっ、大兄うえっ、助けてっ」
 上も下も右も左もない、暗い青色に塗りつぶされた空間で、夜叉王は不意に自分のからだが、何処かへ落とされていくような目まぐるしい感覚に襲われた。
 (こわい、こわい、こわい)
 かたく目をつぶり、どのくらい経ったであろうか。
 おそるおそる目を開けると、青い闇の彼方に小さな金色の点が見えた。
 点はどんどん大きくなっていき、何であるか分かるほどの大きさになったとき、夜叉王は驚きのあまり目を見張った。
 
 それは、巨大な龍であった。
 燃えさかる炎のような双眸(そうぼう)、四肢にしっかりと握られた色の宝玉、金色に輝く鱗。
 そして、背中に乗っているのはほかでもない、夜叉王の家族であった。
 先頭に乗っているのは家長の父ではなく、なぜか長姉の政子である。その後ろに父の時政。
 なぜか、夜叉王の大好きな長兄の宗時の姿はなく、次兄の小四郎、弟の五郎、四人の姉たちに続いた最後尾に、龍から振り落とされまいと必死にしがみつく夜叉王自身の姿があった。
 「待って。みんなどこに行くの」
 濁流のような動きを見せて目前を通り過ぎていく龍に乗った、家族ともうひとりの自分を追いかけようとしたそのとき、夜叉王はここに存在しているのが自分たちだけではないことに、初めて気づいた。

 闇の中にうごめく無数の影。人の顔であった。
 数え切れぬそれらの中には、夜叉王のよく知っているものもあれば、そうでないものも多く混じっていた。
 「お祖父(じい)さま、一万さま、筥(はこ)王(おう)さま、大兄うえ…」
 「顔」は、ほとんどが恨みがましい、そうでなくとも苦痛に満ちた、恐ろしい表情を浮かべていた。
 武士の家に生まれたとはいえ、戦を知らない夜叉王にとって、それは未知の修羅場であった。
 悲鳴を上げ、顔を背けようとした夜叉王は、呪いと怨念の「顔」たちの中にただひとつ、何とも奇妙な表情を浮かべているものが混じっているのに気づいた。
 
それは、夜叉王よりだいぶ年かさであろうか、端整な目鼻立ちをした少年らしい顔であった。
 「彼」は、呪いも恨みも訴えなかった。
 蝋でかためたような無表情である。
 ただし目だけは別で、澄んだ円らな瞳が何とも物問いたげで、また物言いたげであった。
 一体、誰なのだろう?
 奇妙なことに、少年の「顔」とぶつかったとき、夜叉王の恐怖は消えていた。
 
 そして目が覚めた。朝であった。
 「おはよう、夜叉王。加減はどう?」
 長姉の政子が冷たく濡らした手ぬぐいをもち、心配そうな顔でのぞきこんでいた。夜叉王はここ三日というもの、風邪をこじらせて高熱にうなされ続けていたのだ。
 「大姉うえ。夜叉王はゆめを見たのです」
 夜叉王は今目覚めたばかりの夢の話を姉に語って聞かせた。
 ただし、あの恐ろしい「顔」たちのことは省いた。
 その中に、祖父や従兄弟、兄までもが混じっていたことが、幼心にも具合悪く感じられたからである。
 見知らぬ不思議な少年の話もしなかった。
 
「ちい姫さま(夜叉王)が、黄金の龍の夢をみなすったと」
 「旦那さまは吉兆に違いないと、さっそく江ノ島の巫女さまのところに行かれたげな」
 北条家の使用人たちの間にたちまちこんな噂が広まった。
 いくら吉兆と騒いだところで、伊豆の片田舎で猫の額ばかりの土地を有しているに過ぎない時政に、たいした祝事が起こるわけもなく、巫女だ占者だと大仰に夢解きをして一体どうなるのだ。
 誰もがそう思い、ものをはっきり言う性質(たち)の長女の政子などは
 「四つの子供がうなされて見たまやかしごとに…何を踊らされていますやら」
 表だって非難する始末である。
 それでも、江ノ島から帰ってきた時政は上機嫌であった。
 大切にしまっておいた上等の酒と、肴は味噌の塊を出してきて、長男の宗時に話したところによれば、
 「わしの子孫が七代、権力をほしいままに握り、国の政(まつりごと)を動かすそうじゃ…そうそう、家紋も新しく決めてまいったほどに…ほれ、龍の鱗にちなんで、こんな三鱗はどうかの」
 時政は手近にあった紙と筆とを手に取り、大小の三角を組み合わせた「三鱗」を描いて見せた。
 「父上、めったなことを申されますな。平家は間者を放ち、市井(しせい)の民草に至るまで反心を持つものをくまなく知らせるよう計っているそうです。みやこでは禿(かむろ)と申す童(わらわ)姿(すがた)の者どもらしゅうございますが、いくら東国でも油断はできませぬ…」
 「なあに、こんな田舎のけちな親父のたわ言など、誰がかまうものか」
 (少しくらい父親の遊びに付き合ってもよいではないか。まさか、本気でもないものを)

 時政は、自分が親子ほど年の離れた後妻を都の大番役から連れ帰ってからというもの、この宗時が
 「最近父上は若い後妻(うわなり)どのに夢中で、うわついておられる。あれではあまりにも心もとない」
誰かれとなくこぼしているのを知っていた。
 すでに二十歳を超えており、もう小さな子の一人や二人いてもおかしくない年頃の宗時だが、未だ独り身である。  
 浮いた噂のひとつもない。
 (ほんに実の息子とはいえ、あのようにできすぎた堅物が側におっては、やりにくいわい)
 大番役で留守勝ちだった時政に代わって家を守り、弟妹、使用人たちからも慕われ、弓馬をよく嗜み、小男の時政に似ず六尺超える立派な体躯の持ち主の、自慢の嫡男である。
 しかし、あの息子が嫁でも貰ってこの韮山館から出て行ったら、少しはせいせいするのではないか、と考えることが最近多くなっているのも事実である。
 
 数日後、夜叉王たちには叔母に当たる、伊東祐親の娘八重姫との恋愛がもとで、命の危うくなった源頼朝が北条家に転がり込んで来た。
 厄介事に関わりあいたくない時政を説き伏せ、その血筋ばかり高貴な流人を匿うことにしたのは、宗時である。
 この客人が、夜叉王とその家族の運命を大きく変えようとは、まだ誰の知る由もない。
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