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其の二
しおりを挟む目の前に一筋の閃光が走った。
間髪を入れず、天地を揺るがすような轟音が鳴り響く。
きゃっ、と小さく悲鳴を上げて衝立(ついたて)の陰に転がり込んだのは、夜叉王の三番目と四番目の姉、玉虫と文殊(もんじゅ)だ。
姉妹の中でも格別気の弱い性質(たち)の二人は、家中(かちゅう)の者以外とは話はおろか、姿を見せるのさえ恥ずかしがるような娘たちだった。
「玉虫らが怯えとる。早く格子戸を…小四郎、小弥太と一緒に厩を見てきておくれ」
「えらい嵐になったげな。つい先刻まで風ひとつなかったずらに」
「ちい姫さま、そんな端近におったら、雷に打たれますに。びりびりとござって、息絶えるげな。おそろしや、おそろしや」
姉の定子と下人の小弥太、あぜち夫婦のこんなやりとりと、誰かが簀子縁を行き来する慌しい足音、館中から聞こえてくる次々と格子戸を下ろす音。
その物音たちは、幼い夜叉王の中で旋律となり、いつの間にか自作のこんな歌を口ずさんでいた。
とんとん、ばったん、とんとん、がっしゃん、風神さまがやってきた、雷神さまがやってきた、雨竜さまもやってきた、とんとん、ばったん、とんとん、がっしゃん、格子下ろしてみな隠(かく)ろ…
この韮山館にいる限り、夜叉王は雨も風も雷さえも、少しも怖くない。
父の時政は夜叉王の生まれた頃から大番役で京に上がっており、留守がちで、母親も早くに亡くなっていたが、年の離れた兄や姉に囲まれ、庇護されて育った夜叉王は、怖いものなしの童だ。
「大姉上は?朝から姿が見えないけど…」
夜叉王のすぐ上の姉の文殊が、衝立のかげでぶるぶる震えながらか細い声でつぶやいた。
その問いに答えるものはいなかった。こんなとき、小弥太やあぜちにあれこれと指図をして館内(やかたない)を取り仕切り、怯える妹たちを叱りつけたりなだめたりするのは、長女の政子のはずである。
その政子の姿が朝から見えない。
そればかりではない。
このような嵐の日、納屋や厩の見回りをするのも、まだ童姿の小四郎の役目ではない。
(大兄うえもいない。朝からずっと…)
いつもとは違う館の空気に夜叉王も気づいていた。
地に足のつかないような不思議な気分だった。
幼い夜叉王にほかの姉たちのような不安はなく、むしろ何か楽しいことが始まるような気さえした。
(きっと、なにかすごいことが、起こるに違いない…でもなにかって、なんだろう…)
声にならない問いかけを繰り返しながら、夜叉王は、次から次へと廂を這うようにして伝い落ちる雨だれの行方を、じっと見つめていた。
「ちい姫さまっ。早う奥に入りなされっ」
あぜちに衵(あこめ)の袖を半ば引きずられるようにしながら、夜叉王は、再び激しく轟く雷鳴を聞いた。
やがて雨風はいよいよ強くなり、姉妹の肩寄せ合う一室にも容赦なく吹きつけた。
夜叉王は、隣でおびえる文殊の手を握り、妻戸や半蔀(はじとみ)がきしむ音を聞きながら、いつしか眠りについていた。
長兄の宗時が、全身泥水に浸かったような姿で帰館したのは夜半過ぎである。
汗と雨水が混じりあい、いくつもの筋をなしてつたっているその顔は紅潮し、頬や額には侍烏帽子からほつれでた髪の毛がべったりとはりついていた。
転がるように迎え出た次女の定子とあぜちが抑えた声で何か問いかけた。眠い目をこすりこすり起き出し、足音を忍ばせて姉たちの後ろについていった夜叉王は、
「万事うまく片付いた」「このような嵐になるとは思わなんだから、少々慌てたがな」「あとは父上だけじゃ」「お帰りは明日じゃったな?」
途切れ途切れに兄のこんな言葉を聞いた。
「大兄うえ、姉うえは?」
夜叉王の存在に気づいた三人は、ぎょっとして暗闇に佇む小さな人影に目を凝らした。
「まあ、ほんとに油断のならない姫さんじゃ。姉さま方はおとなしく寝ていなさるに…」
目を丸くしたあぜちが、夜叉王を無理矢理おぶって寝所に戻ろうとするのを、宗時が手で制した。
「夜叉王」
宗時は幼い弟妹に何か言い聞かせるとき、いつもするように、夜叉王の目の高さに自分の目を合わせるようにかがみこんだ。
「政子は理由(わけ)あって、我らとは別の家に住むことになったのだ。わしは今日、あれを新しい家に送り届けてきたのだよ」
「新しいお家って山木さまのところ?姉うえはおよめに行ったの?」
定子とあぜちが戸惑ったように目を伏せた。
夜叉王たちの父時政が京から戻るのとほぼ同時に、伊豆に遣わされた目代(もくだい)の山木兼隆は、姉妹たちの住む韮山館のほど近くにその居を構えていた。
桓武平氏の流れをくむ、とひとことに言っても、都の平家一門と、三浦半島の三浦一党やこの伊豆の伊東一族など、東国の豪族では身分から生活様式までまるで違う。
北条家のように「平直方公から数えて四代」と自称しているものの、その系図はいたって怪しげな代物という「自称桓武平氏」まで加えれば、実に膨大な数になり、その実は計り知れない。
そこのところ、山木兼隆なる人物はれっきとした桓武平氏の血を引く青年武将だ。
その身元は確か、相国入道清盛の覚えもめでたい有望株、目端のきく時政にとっては願ってもない婿がねである。
他家にとられてはたまらないとばかりに、目の色を変え、やっきになってまとめたのだ。
近隣の、政子と同じような年頃の娘たちが十五、六で嫁していく中、やもめ一家の長女の宿命で、若い政子の肩には幼い弟妹たちや使用人たちの食事、着るものの世話から台所の仕切りまで家刀自(いえとじ)の役割が常に重くのしかかり、婚期を完全に逸した姉娘に続いて定子、玉虫までもが後につかえる結果となったことに、大番役での不在が重なったとはいえ、時政は父親としての責任を感じていた。
先妻腹の末の二人の娘、文殊と夜叉王はまだ子供だが、十二三歳での嫁入りも珍しくないのだから、ぼんやりしてはいられない。
なりふり構わず、親類縁者のつてを頼り、山木館の家人までもに頭を下げ、根回しに根回しを重ね、後は輿入れの日取りを決めるばかりとなっていた。
今日はその他に、嫁入り道具、馬や従者の数(といっても、北条家のわずかばかりの家人や馬で足りるわけもなく、政子の亡くなった母の実家伊東家や、近所からかなりの数を借り入れなければならないのは明白だった)、そのほかの細々としたことを取り決めるため、時政は山木家に招かれて留守なのだ。
「未来の舅どのと一献酌み交わしながら」
という兼隆の誘いに嬉々として出かけていった父の姿を思い出し、宗時は少し表情を曇らせた。
「夜叉王、今宵政子が行った場所は、山木殿のお屋敷ではない。お前たちの姉上は、別の家に嫁入りしたのだよ」
「お道具は持っていったの?新しい小袖は?姉うえは、夜叉王にも見せてあげるって言ってたのに…」
約束を破った上に黙って行ってしまうなんて、なんてひどい姉だろうと、たちまちべそをかきはじめた小さな妹を、宗時は慣れた動作でひょいと抱きかかえた。
「政子は、大急ぎで行かなければならなかったのだよ、夜叉王。道具も着物も持っていかなかったから、お前に見せたくても見せられなかったのだ」
夜叉王は黒々と生えそろった艶やかな振り分け髪を傾けて、お道具もお衣装もないお嫁入りなんてあるのかしらん、と兄の顔を無心に見上げた。
「今夜のことは、ここにいる定子とあぜち以外、誰も知らぬ。政子がどこに行ったかも秘密だ。夜叉王、今、見たり聞いたりしたことも秘密だ。この約束、守れるか?」
夜叉王は無言のまま、大きくうなずいた。
常に声を荒げているような父の時政と違い、低く滑らかな声で、あくまでも穏やかな調子を崩さない宗時だったが、そこにはいつも抗いがたい響きがあった。
いつになくはりつめた大人たちの様子はどこか異様で、夜叉王の胸にはぽつりと小さな滴が地面に落ち、じんわりと染みわたっていくように、得体の知れない感情が広がった。
それは決して、胸躍るような楽しさや、未知のものに対する好奇心の疼きを伴うような心地よいものではなく、怖くなった夜叉王は、思わず定子とあぜちの小袖の袂をつかんだ。
「夜叉王、案ずることは何もない。心配せずとも政子にはすぐに会える。今度は、この兄が約束するぞ」
そう言って宗時は、妹の小さな小指に自分の節くれだった指を絡ませた。
兄の真っ黒に日焼けした顔に白い歯が覗いた。
「本当に大丈夫?玉虫や文殊にだって言っちゃ駄目なのよ」
定子に手を引かれて寝所に戻る途中、何度も念を押されるたびに、夜叉王は小さな頭を揺らしながら、いちいち頷いた。
「ちゃんと黙っていられたら、私の紅梅の袿(うちぎ)を夜叉王の袙(あこめ)に仕立て直してあげるわね」
新しい着物は嬉しかったが、夜叉王は、重苦しい何かに支配された体を引きずるように歩いていた。
いつしか嵐は止み、辺りはひんやりと静まり返っていた。
定子と夜叉王は、今年初めて耳にする、虫の音を聞いた。
ギーッ、チッ…チーン…チッ、ギッ…
「あわてんぼうの虫ね。お仲間もまだ出てきてないみたいだし。こんな下手くそじゃ、松虫だか、鈴虫だか分かりゃしないじゃないの」
夏の終わりを告げる早鳴きの一匹の声は、ぎこちなく、寂しげに響き渡っていた。
(こんな虫の声は、きらい)
そんな風に感じたことは、今まで一度もなかったのに、夜叉王は耐え切れず耳を塞いだ。
(一人はいや。ずっとみんな一緒がいい)
文殊たちを起こさないように、そうっと床に戻るのよ、言い聞かせる定子の傍らで、夜叉王は、辺りがほの明るくなったような気がして、ふと空を見上げた。
嵐が通り過ぎた後の静寂、月も、星一つさえ見ることができない、不気味な夜であった。
やがて昇り来る朝日を迎えるかのように、空がわずかながら、ほんのりと乳白色を帯び始めていた。曙と呼ぶのにはまだ早いこの刻(とき)を、人々は暁闇(あかときやみ)と呼ぶ。
寝所に戻った夜叉王は、夜具を頭の上まで引き被り、それから一睡もせず、朝を迎えた。
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