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其の三
しおりを挟む「政子はどこじゃっ」
時政のドウマ声が韮山館に響き渡ったのは、夜叉王がまんじりともせず夜を明かした翌日の昼過ぎである。
若い後妻の牧の方を伴って帰館した時政は、昨夜の嵐の被害を案じながらもすこぶる上機嫌だった。
その表情が少し曇ったのは、迎えに出た子供たちの中に政子の姿がないことに気づいたからであるが
「大姫(長女、政子のこと)さまは、昨晩より気分がすぐれず臥せっておられますげな」
というあぜちの言葉を疑いもせず
「そうか、そうか。あの丈夫が取り柄の政子が寝込むとはの。さすがのじゃじゃ馬も、皆の前で嫁入りの話をされるのは、気恥ずかしいのであろう。未通娘(おぼこ)いことじゃ」
見当違いな憶測で頬を緩める父親の姿を見て、まさか「政子は駆け落ちいたしました」と打ち明けるわけにもいかず、宗時、定子、あぜちの三人は当惑ぎみに顔を見合わせるばかりだった。
北条時政は、角ばった赤ら顔に短い手足、その顔立ちも一緒に京に上った従兄弟の時定によれば
「大和の国に、聖武の帝のお后がお建てになった、新薬師寺という寺があっての。そこに忿怒(ふんぬ)のご面相をした十二神将のお仏像があるんだが、その顔がどれもこれも何と時政にそっくりなのよ」
と言うように、常にかっと見開いているような強い双眸、左右に広がった鼻孔、大きすぎる口は異相の武神を思わせるものだ。
貴族風のうりざね顔、細目、鉤鼻とはかけ離れたその容貌は、気性の荒い田舎侍を絵に描いたような面白さがあった。
しかしながら、政子の婿がねに山木兼隆を引いてきた手腕からも分かるように、要領のよい立ち回り上手なところがあり、領地も狭小、家柄もなければ財もない、いわばないない尽くしの子沢山の北条家が、何とか日々の暮らしを立てていけるのはこの父に拠るところが大きい。
当然、愚鈍な男ではない。
宗時たちの不自然な態度にことさら不審を抱かなかったのは、気がかりの種の長女を、名家に嫁がせることができる安堵と誇らしさに、いつもの勘が鈍っていたのだろう。
「そうは言っても、いつまでも隠し通せるわけもあるまいしな。知らせるのが後になればなるほど、父上のお怒りも激しくなろうし…」
「でも兄上。あまりに早く連れ戻されては、駆け落ちの意味がなくなってしまわないかしら」
「連れ戻された上に、無理矢理山木どのに嫁がされるようなことになりましたらば、姫さまがあまりに不憫でございます…」
「例え、連れ戻されたとしても、政子が山木に嫁ぐことはないだろう。こうなった以上、折れなければならぬのは、父上のほうであろうよ」
政子とて、ただ気が強いだけの娘ではない。
こうと決めたら梃子でも動かない強い意志の持ち主でもある。
女子だてらに漢文も読みこなし、一人前の理屈もこねる。いざとなったら、
「夫婦は比翼の鳥、連理の枝と申します。一度嫁ぎましたからには、何があろうと政子は夫となった方の傍から離れません。お父上は政子に二夫に見(まみ)えよ、と申されますか」
と「長恨歌」やら「史記」やら、そこら中の書物から引っ張り出してきた聞きなれない言葉で、父親を理詰めにするのは目に見えている。
頑健な肉体と、世渡り上手を武器に生きてきた田舎侍の時政にとって、それは一番嫌な攻められ方に違いなく、娘かわいさも手伝って、早々に駆け落ち相手との結婚を認めることになるはずだった。
「ただ、ちと相手が面倒ではあるがな…」
そう呟くと宗時は、定子とあぜちに、夕べ政子はそなたたちが、嵐に脅える妹や五郎の世話に追われている間に、姿を消したと、父上に伝えよと言い残して厩の方に歩いていった。
「政子は、そんなに気分が悪いのか」
「(伊豆山)権現の尼君に頂いた薬は、余ってはおらぬのか。明日にでも小四郎に取りに行かせようかの」
昼近くになっても、姿を見せるどころか、気配すら感じられない娘に気をもみ始めた時政を見て、生きた心地がしなかったのはあぜちである。
十歳(とお)そこそこの時分から北条家に仕えて十年余りになるこの純朴な伊豆娘は、真実を知らされたときの時政を想像し、昨夜の嵐などよりよほど恐ろしいに違いないと考えた。
当然ながら、いつもと違うあぜちの様子を、時政は訝しんだ。
目端のきくことで、何とか生き抜いてきた小地主の彼が、いくら浮かれてるとはいえ、使用人に出し抜かれるようなことはない。
そこで、あのドウマ声である。
「わっ…わたくしは、何も知りませんげな…昨日の夜は、ひどい嵐で…文殊さまらが明け方まで、ひどくおびえなすったもんだから…大姫さまがおられんことに気づいたのは、朝、床を上げてからですげな…」
これはいくら何でも無理がある。
宗時さまは、どうしてもう少しましな言い訳を考えておいて下さらなかったのだろうと、この忠実な侍女は、館中が敬服してやまない若さまを、初めて恨めしく思った。
いつものあぜちなら、政子の姿が見えないことに気づくや否や騒ぎ立て、今頃、館の中は上へ下への大騒ぎ。
外では近隣の若い衆をかき集めての山狩りとなっているはずだった。
時政も、すわ、この辺りにも稀に出没する夜盗・山賊の類に拐されたか、と一瞬顔色を失いかけたが、その頭のめぐりはさすがに早く、娘の消えた本当の理由を察するに至った。
「ふしだら娘がっ…あの青瓢箪も青瓢箪じゃっ。伊東の舅どのが、八つ裂きにせねば気が済まぬというのを、おさめてやった命の恩人に、後ろ足で砂をかけおって…今すぐ、二人まとめてたたっ切ってくれるわっ」
刀の柄に手をかけ、足音も荒く簀子縁を行ったり来たりする時政には、娘の相手に心当たりがあったのだ。
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