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其の五
しおりを挟むそれでも、東国の人々は、わずかばかり残った畏敬の念をこめて、彼を佐殿(すけどの)、と呼ぶ。
佐殿という呼称は、伊豆に流される直前に彼が与えられた、従五位下右兵衛権佐という官職に由来するものだが、これは中流貴族の子弟に匹敵するものである。
平治の乱を治めた際、一時は平清盛と肩を並べたかに思われた義朝が、最愛の嫡子のために二条帝にねだった、分不相応な官位で、言うまでもなく、平家によってとうの昔に奪われている。
しかしおそらく、源頼朝がこの先永遠に蛭が小島で罪人として一生を過ごそうとも、東国の武士たちは、頼朝の命が尽きるその日まで、いつか自分たちの運命を托する時が来るかもしれない、この源氏の御曹司を、「佐殿」と呼ぶのをやめないであろう。
そういう律儀なところが、彼らにはあった。
肝心の頼朝と言えば、なにしろ配流の身の上、乳母の比企尼らの仕送りを受けながら、細々と暮らしていた。
彼の肌は、透けるように白い。
目鼻立ちは整っているものの、目も、鼻も、口もすべてが大ぶりで、絵に描けば引き目鉤鼻おちょぼ口が理想とされる、都風の顔立ちとは少し違う。
それでも比企尼あたりが送ってきたであろう、この辺りの地侍では手の出ない、美しい生地で仕立てられた狩衣を身にまとった姿は、確かに貴人の雰囲気がある。
何一つ持たない主人に忠実に仕える、乳姉妹の夫の安達盛長を供に、日がな白馬を駆って狩野川沿いを優雅に逍遥していく様は、今の自分の境遇に、十分満足しているようにさえ見えた。
その、まさに世捨て人が鷹揚として閑居を楽しむ、といった風情に
「佐殿はすっかり平家に飼いならされてしもうた、役立たずよ。年ばかりとってしもうてなあ。哀れよの」
と囁きあうのが常で、ただ漠然と二十年もの月日を過ごし、ついに三十路を越える年になった坂東武者の「旗印」を嘆く声が、伊豆のあちらこちらで聞こえた。
伊東祐親の末娘八重姫が、頼朝と通じて男児をもうけたという話が伝わったのは、そんなときである。
「うぬっ、ただのらりくらりと暮らすだけでは飽き足らず、うちの娘に手をつけおったとは」
祐親の怒りは大変なもので、まず、八重姫と頼朝の仲を取り持ったとされる、八重姫つきの侍女を即刻召しだし、問答無用に斬ったという。
のべつまくなしにドウマ声を張り上げている小地主の時政とは違い、伊東祐親は、大家の当主らしく都風の礼儀作法を重んじ、挙措に気を配る人物であった。
「あの、気取り屋の舅は苦手よ」
と時政がけむたがるその祐親が、普段の気取りを忘れ、狂犬さながらに怒り狂ったのである。
祐親の身になってみれば、伊豆きっての有力者である自分の娘と、源氏の嫡流の遺児が勝手に婚姻していたという、恐ろしい事実を突きつけられたのでは、無理もない。
すわ、伊豆で反乱の兆しありと、明日に、平家方の討伐軍に攻められても文句は言えない事態である。
「お二人の間にはお子様もおりますれば」
とりなす家人がいないでもなかったが、それにかえって逆上した祐親は、千鶴丸と名づけられ、ようやく歩き出そうかというその幼児を、池に沈めて殺すよう命じ、悲しみにくれる八重姫を、江間某という家人に無理矢理嫁がせてしまった。
その上で、頼朝の命を狙ったのである。
「祐親のやつ、ちいとばかりやりすぎではないか」
眉をひそめたのは、源為義、義朝、義平と源家三代と共に戦った、往年の名将、三浦義明である。
相模国三浦半島の雄、三浦氏は、特にその水軍に定評がある。余談ながら、後の源平合戦で、源氏方が本来得意とされていた騎馬戦だけでなく、海上戦にも圧倒的な強さをみせたのには、この三浦氏や下総の千葉氏など海沿いの地域に居住していた坂東武者たちの働きによるところが大きい。
「東えびすは、海に弱い。船戦に持ち込めば、こちらのものよ」
当時、平家方ではこのような甘い見通しが本気でささやかれていた。
日本は島国であるから、当然関東にも海はある。そこに面した地域に住まう武士ならば、大なり小なり必ず水軍を有しているはずである。
「東えびすは海に弱い」というのは何の根拠もない妄言の類に過ぎない。
平清盛という傑出した人物を生み出し、一代で未曾有の富を築き、栄華を極めた平家一門の中で、どれだけの者がそれを鵜呑みにしていたかは定かでないが、この油断が、わずか数年の間で天皇の外戚から、一族滅亡へと転がり落ちた原因のひとつだったことは間違いない。
話を、三浦義明に戻す。
いかにもらしい豪気と、あまたの一族郎党の身を預かる族長に相応しい沈着さを兼ね備えた、好人物である義明は、一族の長として当然のように敬慕を受け、周辺の豪族たちからは「坂東武者の鑑」と一目置かれていた。
その言葉は重い。
加えて義明の次男の嫁は伊東祐親の娘であったから、保身を越えた祐親のやり方に、身内として苦言を呈したとも言える。
他の坂東の有力者たちの反応も、祐親に厳しかった。
「伊豆の伊東も平家の犬に成り下がりおったわい。あのように尾っぽを振りすぎては、そのうち大事な尾が千切れるのではないか」
彼らは、亡き義朝の遺児をいつまでも昔の官位で呼び、心を寄せることで、懸命に仲間意識を保っていた。
当時、武士と呼ばれた地方の豪族の間では、領地争いが多く、仲間意識どころか身内同士でも殺し合う血生臭い話が後を絶たなかった。
土地争いは特別だ。
草深い東国の地に根をおろした開拓民が、自らの土地を守るため、武装したのが、坂東武者と呼ばれる東国武士の始まりである。
土地は、武士の生活の糧であるばかりでなく、土地こそが武士という存在の根幹であり、全てであった。
だから、彼らはなりふりかまわず争った。
逆に言えばそれ以外の争いは、当時の武士たちの好まぬところである。
ましてや都の権力者に脅え、娘と通じた源氏の棟梁を抹殺するなど愚の極みと言っていい。
「北条殿のお人柄を見込んで、お願いしたい。佐殿をしばし匿(かくも)うては下さらぬか」
安達盛長がこう願い出たとき、多少の戸惑いはあったものの、北条親子が断らなかったのは、このような声が、伊豆だけでなく、相模、武蔵、上総、下総、常陸、上野、下野など、東国中に広がっていたためである。
また、既に亡くなっているとはいえ、時政の前妻は祐親の娘である。
孫が大勢いる北条家に頼朝がいる以上、祐親も滅多な手出しはしないだろう。
この事件は一件落着したと、誰もがそう思った。
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