10 / 10
其の十
しおりを挟む
幼い頃に見たあの龍の夢のことを、いつしか聡子は、すっかり忘れていた。
だが、ある日、夫の直垂を仕立てるため取り寄せた、金の箔押しを施した紺地の唐綾を眺めていたその時、急にあの、どこかに落とされていくような感覚が蘇った。
そして、闇の中で目の合った少年の顔が、目の前の重忠そっくりだったことに、気づいてしまったのである。
聡子の生んだ重忠の息子の六郎もまた、日に日に夫と瓜二つの顔になってきている。
(ああ…あそこにあった顔たちは、やはりそういうことだったのだ…)
宗時だけではない。
伊東の祖父も、一万も筥王も、合戦と政争の中で命を落としていた。
いつの間にか、聡子は静かに涙を流していた。
「どうした、どこか痛むのか?」
重忠が、気遣わしげに顔をのぞきこんでいる。
「いいえ、ただ思い出しただけです」
聡子は、前栽の陰で猫と戯れている六郎を眺めながら言葉を続けた。
「私、ずっと以前に、あなたとあの子に会ったことがあるのです」
「何を言っているのだ?」
「…ずっと昔の話…童の頃に見た、戯れのような夢の話ですわ」
たとえあの不思議な夢が、この世での運命(さだめ)を自分に知らせたものであったとしてもと、考える。
(それでも、わたしはこの人とあの子を守るために生きていくのだ)
聡子は、怪訝そうな表情の夫に体を預けて目を閉じた。
嗅ぎ慣れた、沈香に馬と藁の混ざった匂いが鼻をかすめる。
眼裏には、あの夢の中で見た、深い藍と輝く金の色彩が、鮮やかに広がっていた。
元久二(1205)年、六月二十二日。
「異変あり。至急参上されたし」との報を受け、鎌倉に向かっていた畠山重忠は、なぜか謀反の疑いをかけられ、武蔵国の二俣川にて、北条義時を大将軍とする数万騎の大軍と対峙して、討死した。
戦時は、常に五百騎以上は率いていたと言われる「謀反人」重忠の当時の手勢は、わずか百三十余騎。
主従はすぐに合戦がはじまるとは考えていなかったらしく、甲冑すら着けていない状態だったという。
彼が愛してやまなかったという嫡子、六郎重保は、先んじて鎌倉の由比ヶ浜で斬殺されていた。
重忠の妻であった北条時政の娘は、自害したとも、再嫁して夫の名跡を継いだとも言われている。
そもそも名前すら伝えられていない、この運命に翻弄された女人(にょにん)について、正確に記されたものは、ほとんど残っていない。
ただ忘れ去られてしまったのか、それとも秘すべき理由があったのか。
それすら、私たちには知る術もないのである。
この後も北条家は、他の有力な武士たちを次々と粛清し、彼らの血肉を摂り入れるように、大きくなっていった。
そして奇しくも、時政から数えて七代目の子孫に当たる高時の代に至るまで、この国の政を動かす第一の家として、あの三鱗の紋を燦然と輝かせたのである。
だが、ある日、夫の直垂を仕立てるため取り寄せた、金の箔押しを施した紺地の唐綾を眺めていたその時、急にあの、どこかに落とされていくような感覚が蘇った。
そして、闇の中で目の合った少年の顔が、目の前の重忠そっくりだったことに、気づいてしまったのである。
聡子の生んだ重忠の息子の六郎もまた、日に日に夫と瓜二つの顔になってきている。
(ああ…あそこにあった顔たちは、やはりそういうことだったのだ…)
宗時だけではない。
伊東の祖父も、一万も筥王も、合戦と政争の中で命を落としていた。
いつの間にか、聡子は静かに涙を流していた。
「どうした、どこか痛むのか?」
重忠が、気遣わしげに顔をのぞきこんでいる。
「いいえ、ただ思い出しただけです」
聡子は、前栽の陰で猫と戯れている六郎を眺めながら言葉を続けた。
「私、ずっと以前に、あなたとあの子に会ったことがあるのです」
「何を言っているのだ?」
「…ずっと昔の話…童の頃に見た、戯れのような夢の話ですわ」
たとえあの不思議な夢が、この世での運命(さだめ)を自分に知らせたものであったとしてもと、考える。
(それでも、わたしはこの人とあの子を守るために生きていくのだ)
聡子は、怪訝そうな表情の夫に体を預けて目を閉じた。
嗅ぎ慣れた、沈香に馬と藁の混ざった匂いが鼻をかすめる。
眼裏には、あの夢の中で見た、深い藍と輝く金の色彩が、鮮やかに広がっていた。
元久二(1205)年、六月二十二日。
「異変あり。至急参上されたし」との報を受け、鎌倉に向かっていた畠山重忠は、なぜか謀反の疑いをかけられ、武蔵国の二俣川にて、北条義時を大将軍とする数万騎の大軍と対峙して、討死した。
戦時は、常に五百騎以上は率いていたと言われる「謀反人」重忠の当時の手勢は、わずか百三十余騎。
主従はすぐに合戦がはじまるとは考えていなかったらしく、甲冑すら着けていない状態だったという。
彼が愛してやまなかったという嫡子、六郎重保は、先んじて鎌倉の由比ヶ浜で斬殺されていた。
重忠の妻であった北条時政の娘は、自害したとも、再嫁して夫の名跡を継いだとも言われている。
そもそも名前すら伝えられていない、この運命に翻弄された女人(にょにん)について、正確に記されたものは、ほとんど残っていない。
ただ忘れ去られてしまったのか、それとも秘すべき理由があったのか。
それすら、私たちには知る術もないのである。
この後も北条家は、他の有力な武士たちを次々と粛清し、彼らの血肉を摂り入れるように、大きくなっていった。
そして奇しくも、時政から数えて七代目の子孫に当たる高時の代に至るまで、この国の政を動かす第一の家として、あの三鱗の紋を燦然と輝かせたのである。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる