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8 義務の色
しおりを挟む(レイ様、今夜もうなされていらっしゃるわ……)
ずっとその逞しい腕に守られるように包まれて、眠っていたベッドの上。
エルシャはレイナートの苦しそうな呻き声に浅い眠りから覚めると、彼の腕からそっと抜け出し、今度は華奢な腕で静かに夫の頭を抱き寄せる。
「……すまな……、ベル……」
時折眠りの中で彼が口にするのは、亡くなった妻の名前……。
(私では、あなたを支えることはできませんか? レイナート様……)
エルシャはどうしようもないやるせなさを胸に、彼の髪に口づけを落とすとそっと瞼を閉じたのだった。
◇◇◇
あの悪夢からもうすぐひと月が過ぎようとしていた。
息子たちだけに下された厳しい処分。レイナートと王の侍従長を務めるコルトン侯爵は、そのことに耐えきれずそれぞれに職を辞そうとしたが、アロンザはそれを許さなかった。
「……それではそなたたちが、余を国王の座から下ろしてくれるか?」
苦しげに笑うアロンザを前にして、臣下たる彼らは二の句を継げなくなってしまったのだ。
(俺はただ、楽になろうとしていただけか……。今為すべきは、近衛の団長として陛下をお支えすることだ……)
そうしてレイナートは、これまで以上に自分を多忙にした。
団長としての仕事はもちろんだが、今回の事件でワーリン伯爵家だけが直面した問題がある。伯爵家の当主として、彼は早急にその問題を解決する必要に迫られていて、忙しさの理由を作るのには十分だったのだ。
そう、すでに王家では第二王子の立太子が行われ、コルトン侯爵家も次男を跡継ぎとする手続きを済ませている。
だが一人息子だったリカードを失ったワーリン家は、縁戚から養子を迎えるか、新たに子を儲けなければならなかった。
「俺とエルシャの間に子ができれば、それが一番なんだろうが……」
養子に迎えるに相応しい男子がいないかとすぐに調べさせたレイナートだったが、これから迎えるには年齢が上過ぎる者や、年齢的に相応しい者がいても、その家族に野心が見え隠れする家柄であったりして、なかなか候補は絞れなかったのだ。
自身もまだ十分に子を為せる年齢だとは思う。愛しい妻もまだ年若く、子を授かれる可能性は十分にある。
(だがこれ以上、俺の過ちに巻き込むなど……)
我が子を守れなかったその悔恨は、レイナートの心に深く根を張り、未来へ踏み出すことに恐怖を与え続けていた。
事件が起こってからずっと、苦しさを隠しきれない情けない自分を、エルシャは陰日向に支えてくれている。
彼女だけが、今、レイナートの全てだった。そしてそうなってしまっている今の自分を、彼自身が……彼一人だけが許せずにいたのだった。
心が弱くなっているとき、人は得てして暗い暗い闇の中で無意味な感情の中を堂々巡りしてしまうのだろう……。
やがて毎晩、彼は必然のように悔恨を繰り返す夢を見ては、その内容を覚えているわけでもなく、ただ息苦しさだけを胸に朝を迎えるようになる。
そんな日々がひと月も続いた、ある夜──。
とうとう痺れを切らしたのは、エルシャのほうだった。
その日、先に寝仕度を整えたレイナートはベッドに入るでもなく、ぼんやりとその足元に置かれたオットマンに腰かけていた。
寝室に入りそんな夫の姿を見たエルシャは、小さく嘆息すると清楚なナイトドレスの胸元をキュッと握りしめる。
(このままじゃダメよ……。こんなのリカードくんが望むはずがないわ。彼は前を向いて、笑って旅立ったんだもの……! 私も役目を果たさなきゃ!)
「エルシャ? すまない、気づかなかったよ……。さて、休もうか……?」
「…………」
「ん? どうかしたかい?」
「……レイナート様は……レイナート様は、いつまでそうしているおつもりですか?」
「っ、エル……」
未だに見つめ合うことにすら恥じらいを見せることがあるエルシャが、真っ直ぐに視線を重ねその瑠璃色を向けていた。
彼女が口にした言葉には、不思議と彼を詰る色は乗っていない。そのことが逆にレイナートの背中を粟立たせ、焦りを生んでいた。
「レイナート様は、今のお姿をリカードくんに見せられますか?」
「……っ……そう、だな……。そのとおりだ……」
そう言って自嘲気味に力なく笑った彼を見た途端、エルシャはたまらずつかつかと夫へ歩み寄り、彼の前で初めて声を荒げる。
「ほら、そういうところです!」
「エ、エルシャ……?」
「そうやって、勝手に壁を作ってしまわれる! ……レイ様はご自分で気づいていらっしゃいますか? いつも寝言でべルティーナ様のお名前を呼ばれていることを」
「なっ……いや、俺は……。そうか、すまない。君がいるのに、前妻の名を口にするなど……」
レイナートは知らぬうちにエルシャを傷つけていたのだと、すぐに謝罪を口にした。
しかしその言葉は、さらにエルシャの表情を悲しげに歪めさせてしまう。
もどかしそうに強く首を横に振る彼女。彼はそんな妻の様子に、なんとか彼女をなだめようと立ち上がった。
エルシャを抱きしめようと伸ばされた腕。だがその腕は、彼女に届くことなく行き場を失くす。
(どうして俺は、こんなにも傷つけてしまう……?)
結婚して三年──。
エルシャがレイナートの腕を拒むことなど一度もなかった。だからこそ彼はこれが答えなのだろうと、その先を考えようともせず下を向く。
しかし彼女はそれを許さなかった。両手で彼の頬を包みグッと上向かせると、エルシャは必死に声を絞り出していく。
「……違う……違うの……! 私が、悲しいのは……」
「……違う……?」
困惑するレイナートに向け何度も頷くと、エルシャはまとまらない想いを紡いでいった。
「たとえ歳が近くても、一年ほどしか一緒に暮らしていなくても……彼は、リカードは私にとっても大切な息子です……! なのにどうして? あなたはべルティーナ様と二人だけで悲しもうとするの?」
「エ……ルシャ……」
「跡継ぎのことだってそうです。私はレイナート・ワーリンの妻です! 伯爵夫人として義務を果たす覚悟はできています! どうして役目を果たせと言ってくださらないのですか!? 私はこんなに……こんなにあなたを愛しているのに!」
「──っ!」
その刹那。今度こそ確かに、愛しさという熱を持ってレイナートの腕がエルシャを抱き寄せる。
「すまない。すまなかった、エルシャ! 愛してる。俺も、妻として、一人の女性として、もうずっと前からエルシャを愛おしく思うのを止められなかった……!」
薄く少し乾いた唇が、透き通る頬を伝う雫を拭い、瞼に、こめかみに、柔らかく熱を残していった。
伯爵夫妻として、義務と責任を負う二人。その義務はたった今、間違いなく色を変えたのだ。
「エルシャ。夫婦になろう。俺にエルシャの全てを愛させてくれ」
「はい……! レイナート様……!」
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