170 / 297
人界編
白月の目覚め①:side.翠雨
しおりを挟む
―――白月が目覚めたと報告が入ったのは、人界で白月が倒れてから一月程経った頃だった。
待ちに待ったその報告を聞き、翠雨は居ても立っても居られずに、今の今まで手を付けていた書類をさっさと放棄して立ち上がる。
しかし蝣仁は、そんな翠雨の様子に敢えて気付いていないかのように、翠雨の傍らに山と積まれた紙束にサッと別の紙束を乗せた。
「翠雨様、璃耀様があちらにいらっしゃるのです。こちらを片付けてからになさってください」
蝣仁の声はいつものように無機質なものだ。しかし、一見わかりにくいが、その表情はいつもよりも柔らかく安堵の色が浮かんでいる。
「それ程急ぎの仕事でもなかろう。むしろ、これ以上報告書と向き合っていても、気が急いて頭になど入ってこぬ。適当に判を押しても良いなら、其方が準備を整える間に全てを片付けておくが」
すぐにでも出たい翠雨には、両手で抱えきれぬほどに積まれた山をひとつずつ切り崩していくつもりは最早ない。適当に判を押したとて終わらぬ量の報告書など、いったん全てを手放して一晩二晩寝かせておくに限る。
翠雨は早くせよという空気を全面に押し出して蝣仁に主張すと、出来た側近は、諦めたようにハアと小さく息を吐いた。こうなってはお手上げだと、良くわかっているのだ。
「護衛を集めて参ります。その間、全てでなくても良いので、ゆっくり丁寧に、仕事をなさっていてください。くれぐれも、読み飛ばしなどないように」
時々、書類を読み飛ばして押印していることに気づかれていたらしい。真面目で貴重面、ともすれば神経質とも取れる側近に、翠雨は苦い笑みを浮かべた。
蝣仁は、やると決めたら仕事は早い。
護衛の手配をつけて翠雨を呼びに来たのは、少しでも進めておけと言われた報告書の五枚目に手を伸ばした頃だった。
少数精鋭。空を飛び真っ直ぐに、翠雨達一行は白月のいる温泉地へ向う。
どうにも気が急いてならない。もっと急げと乗っている隼の背を叩いたが、困ったような曖昧な返事が返ってきただけだった。
大して速さが変わらぬので、更にバシバシと叩きまくっていたら、見かねた蝣仁に、
「翠雨様、危険もかえりみずに我儘を仰るなら、今すぐに引き返させます!」
と、隣から叫ばれた。
ようやく温泉地の入口に到着し、素早く自分の側についた蝣仁に文句の一つも言いたくなる。
「あの隼ならばもっと早く到着できただろうに」
翠雨が口を尖らせると、蝣仁は冷たい笑みを浮かべて、
「側近も護衛も置き去りに、でしょうか」
とだけ言った。
首筋が寒くなってふるりと身震いがする。これ以上、怒らせぬのが吉だろう。翠雨はそう思い、口をぎゅっと噤んだ。
中へ入り白月の部屋へ早足で向かう。主上の御座す最上階へ入れるものは限られる。
翠雨が蝣仁と護衛一人を連れて階段を上がると、そこには璃耀が待ち構えていた。後ろには璃耀の部下である浩《こう》と軍団大将である蒼穹が控えている。
「璃耀、白月様は?」
「お目覚めに。今はお部屋で安静になさっています。ただ……」
璃耀は僅かに眉根を寄せる。
「どうも、御記憶を失われているようなのです。完全に、というよりは、記憶が曖昧である、という方が正しいかもしれません」
「……御記憶を……?」
「大きな衝撃によって、一時的にそういった事が起こることが稀にあると紅翅は。蒼穹も、軍団でそういった者を見たことがあるようです。お体に異常は見られません。しばらくは様子見かと」
「……そうか」
心配ではあるが、体に異常がないならば、璃耀の言う通り、様子を見るしか無いのだろう。
「紅翅は?」
「少々、蓮華の園に。すぐに戻ります」
それに翠雨は小さく頷いた。
蓮華の園の元の管理者は紅翅だ。今の管理者よりも蓮華に詳しいのは確かだ。蓮華は外傷には効かぬが体内の不調を整える効果がある。この地の温泉水ほどでは無いが、あって困るものではない。
温泉水の効かぬ不調にも効くかもしれない。
「白月様、翠雨様がいらっしゃいました。お通ししても宜しいでしょうか」
璃耀が内に呼びかけると、ええ、という小さな声が返ってくる。その声が聞こえただけで、翠雨の胸に安堵が広がった。
もう目を覚まさないのでは、そんな不安が心の中にずっと残り続けていた。目を覚ましたと報告を受けても、本当に無事か気が気ではなかった。
いつもと同じ白月の柔らかな声。それが己の耳に届いただけで、じりじりと燻っていた黒く重いわだかまりがが霧散していくようだった。
戸が璃耀によって開かれると、白月は半分だけ帳《とばり》のあげられた御帳台《みちょうだい》の内で、体を起こして座していた。
「……翠雨?」
白月の高い声がそこから響く。翠雨はピクリと僅かに眉を動かした。
白月に名をそのまま呼ばれることは少ない。公の場でしか『翠雨』とは呼ばれない。記憶が曖昧と聞いたのは確からしい。
翠雨はそれを寂しく思いながら、帳の手前で膝をついた。その場所からなら、先ほどまで見えなかった、白月の口元だけが見える。
顔色は悪くない。むしろ、薄紅に色づくその唇に、翠雨は思わず目を奪われた。薄い着物に白い絹の肌。
愛しい方のそれを、翠雨は頭をゆっくり左右に振って追い出し、頭を下げた。
「御加減は如何でしょうか?」
「大事ありません」
いつもの『大丈夫だよ』という、明るい答えを期待していたのに、返って来たのは涼やかな鈴の音のような声と、どこか他人行儀な返答。顔を上げて帳の向こうをじっと見るが、表情はわからない。
「御記憶が定かでないと伺いましたが、私のことも?」
「ええ。ごめんなさい」
「……では、璃耀のことも?」
翠雨は思わず問いかける。自分の事を忘れられて、璃耀の事は覚えている、などと言われたら、到底許せない。璃耀を。
しかし、白月は首を横に振って否定した。そして、感心したような声を出す。
「貴方は璃耀よりも地位が高いのね」
翠雨はそれに、コクリと頷いた。
「四貴族家の筆頭ですから」
「そう。それなら―――」
白月は帳の向こうでスッと立ち上がる。白の薄い小袖の裾から、細い足が覗き、小さく息を呑む。
「璃耀、人払いを。少し翠雨と話をしたいの。貴方も外に居てくださる?」
そう発せられた口調に違和感を持ちつつ、ドクドクとうるさい鼓動を鎮めようと、再び頭を下げて床を見る。
「どうかそのまま、安静になさっていてください」
「大事無いと申したでしょう。―――璃耀」
「……承知いたしました。戸の前でお待ちします。何かあればお呼びください」
いつもなら白月の側を離れず、翠雨と二人になど絶対にさせないはずの璃耀が、素直に外に出ていくのが引っかかった。
むしろ、安静にせねばならぬと押し留めて、くどくど説教を始めてもおかしくないはずだ。どうにもいつもと態度が異なる。
訝りつつ顔を上げ、パタリと閉まる戸を見ていると、直ぐ側に気配がして翠雨はハッと振り返った。
そこには、白の小袖を着崩し、細い首、鎖骨、さらのその下にある小さな二つの双丘まで、絹のようなその肌を覗かせた白月の姿があった。それが翠雨の直ぐ側にピタリと寄り添うように座り体を寄せると、その太腿までもが露わになる。
体が硬直して動かない。
「……は……白月様……」
引き絞られるような声でそう名を呼ぶと、白の肌に艶やかに浮き上がる濃い桃色の唇が弧を描く。
翠雨は喉が詰まり、それ以上の声を出すことが出来なくなった。
胸元に細く小さな手を置かれると、うるさいくらいに心臓がドクドクと脈打つ。
「ねえ、私の願いを聞いて欲しいの。翠雨」
白月の声が、甘く囁くように響く。
動揺から動けないでいると、白月はそのまま翠雨に体重を預けるようにして、顔をこちらへ寄せた。更に、もう片方の冷たい手が頬に添えられ、温かい吐息が顔にかかる。
そしてそのまま、柔らかな唇で自分の口を塞がれー――
翠雨は突然の出来事への驚きで、ただただ目を見開いた。
塞がれた唇の向こうで、こちらの唇をこじ開けるように相手の舌が動く。舌と舌が絡まり、それとともに、何故か濃い鉄の味が口いっぱいに広がった。口中を満たすそれに、ゴクンと喉が動く。
すると、自分に覆いかぶさっていた白月の顔が満足気な表情を浮かべてスッと離れた。唇からツゥと赤い糸が引き、プツリと切れる。
あまりの事態に動けず、じっと彼女を見ると、今まで見たことのないような妖艶な笑みで微笑まれた。
歓びよりも、動揺の方が大きい。目の前の者は、自分の知る白月とは明らかに違う、そう想った。
「……一体……何を……? どう、なさったのです……?」
戸惑いと共にようやくそう言うと、白月はフッと笑みを消す。そして、何故か不思議そうに首を傾げた。
「……私を欲しくならないの?」
……白月様を……?
そんな訳はない。ずっと焦がれていた。ずっとお側にたいと思っていた。でもそれは、今目の前で妖しげに自分を見つめるこの方ではない。
そう、はっきりと思った。翠雨の求めるあの方は、まるで子どものように何時も自由で奔放で、無邪気で、どこまでも純粋で――
その笑顔を思い出し、翠雨は白月を押して退け、一歩下がって距離をとった。
熱っぽかった頭が一気にスゥッと冷えたような感覚がある。
―――そうだ。違う。
「御冗談を」
短く、しかしはっきりと、翠雨はそう答えた。
目の前の白月は不可解とでも言いたげに眉根を寄せる。それから、彼女の唇が、聞こえるか聞こえないかというくらいに小さな声とともに動いた。
「…………あぁ、そうか……体が…………」
―――体が
そこに続く言葉は一体なにか。小さなそれは、翠雨の中の違和感と疑念を大きくする。
「いつもとご様子が異なるようです。少し、お休みになられた方が宜しいでしょう」
このまま、ここに居るべきではない。姿形は同じでも、目の前の白月は白月ではない。
証拠は無いが、翠雨は確信を持ってそう思った。
璃耀がこれに気づかぬはずがない。
あやつは何を隠している?
とにかく、ここを出て問い詰めねばと立ち上がる。
しかし白月は、それを引き止めるように、翠雨の着物の裾をそっと摘んで引いた。
まるで縋るように瞳を潤ませ、こちらを見上げるその顔は、どう見ても白月の顔では無い。
「翠雨」
そう呼びかける声もまた。
「失礼いたします」
翠雨はピッと袖を引っ張ると、そのままくるりと白月の姿をした何者かに背を向けた。
待ちに待ったその報告を聞き、翠雨は居ても立っても居られずに、今の今まで手を付けていた書類をさっさと放棄して立ち上がる。
しかし蝣仁は、そんな翠雨の様子に敢えて気付いていないかのように、翠雨の傍らに山と積まれた紙束にサッと別の紙束を乗せた。
「翠雨様、璃耀様があちらにいらっしゃるのです。こちらを片付けてからになさってください」
蝣仁の声はいつものように無機質なものだ。しかし、一見わかりにくいが、その表情はいつもよりも柔らかく安堵の色が浮かんでいる。
「それ程急ぎの仕事でもなかろう。むしろ、これ以上報告書と向き合っていても、気が急いて頭になど入ってこぬ。適当に判を押しても良いなら、其方が準備を整える間に全てを片付けておくが」
すぐにでも出たい翠雨には、両手で抱えきれぬほどに積まれた山をひとつずつ切り崩していくつもりは最早ない。適当に判を押したとて終わらぬ量の報告書など、いったん全てを手放して一晩二晩寝かせておくに限る。
翠雨は早くせよという空気を全面に押し出して蝣仁に主張すと、出来た側近は、諦めたようにハアと小さく息を吐いた。こうなってはお手上げだと、良くわかっているのだ。
「護衛を集めて参ります。その間、全てでなくても良いので、ゆっくり丁寧に、仕事をなさっていてください。くれぐれも、読み飛ばしなどないように」
時々、書類を読み飛ばして押印していることに気づかれていたらしい。真面目で貴重面、ともすれば神経質とも取れる側近に、翠雨は苦い笑みを浮かべた。
蝣仁は、やると決めたら仕事は早い。
護衛の手配をつけて翠雨を呼びに来たのは、少しでも進めておけと言われた報告書の五枚目に手を伸ばした頃だった。
少数精鋭。空を飛び真っ直ぐに、翠雨達一行は白月のいる温泉地へ向う。
どうにも気が急いてならない。もっと急げと乗っている隼の背を叩いたが、困ったような曖昧な返事が返ってきただけだった。
大して速さが変わらぬので、更にバシバシと叩きまくっていたら、見かねた蝣仁に、
「翠雨様、危険もかえりみずに我儘を仰るなら、今すぐに引き返させます!」
と、隣から叫ばれた。
ようやく温泉地の入口に到着し、素早く自分の側についた蝣仁に文句の一つも言いたくなる。
「あの隼ならばもっと早く到着できただろうに」
翠雨が口を尖らせると、蝣仁は冷たい笑みを浮かべて、
「側近も護衛も置き去りに、でしょうか」
とだけ言った。
首筋が寒くなってふるりと身震いがする。これ以上、怒らせぬのが吉だろう。翠雨はそう思い、口をぎゅっと噤んだ。
中へ入り白月の部屋へ早足で向かう。主上の御座す最上階へ入れるものは限られる。
翠雨が蝣仁と護衛一人を連れて階段を上がると、そこには璃耀が待ち構えていた。後ろには璃耀の部下である浩《こう》と軍団大将である蒼穹が控えている。
「璃耀、白月様は?」
「お目覚めに。今はお部屋で安静になさっています。ただ……」
璃耀は僅かに眉根を寄せる。
「どうも、御記憶を失われているようなのです。完全に、というよりは、記憶が曖昧である、という方が正しいかもしれません」
「……御記憶を……?」
「大きな衝撃によって、一時的にそういった事が起こることが稀にあると紅翅は。蒼穹も、軍団でそういった者を見たことがあるようです。お体に異常は見られません。しばらくは様子見かと」
「……そうか」
心配ではあるが、体に異常がないならば、璃耀の言う通り、様子を見るしか無いのだろう。
「紅翅は?」
「少々、蓮華の園に。すぐに戻ります」
それに翠雨は小さく頷いた。
蓮華の園の元の管理者は紅翅だ。今の管理者よりも蓮華に詳しいのは確かだ。蓮華は外傷には効かぬが体内の不調を整える効果がある。この地の温泉水ほどでは無いが、あって困るものではない。
温泉水の効かぬ不調にも効くかもしれない。
「白月様、翠雨様がいらっしゃいました。お通ししても宜しいでしょうか」
璃耀が内に呼びかけると、ええ、という小さな声が返ってくる。その声が聞こえただけで、翠雨の胸に安堵が広がった。
もう目を覚まさないのでは、そんな不安が心の中にずっと残り続けていた。目を覚ましたと報告を受けても、本当に無事か気が気ではなかった。
いつもと同じ白月の柔らかな声。それが己の耳に届いただけで、じりじりと燻っていた黒く重いわだかまりがが霧散していくようだった。
戸が璃耀によって開かれると、白月は半分だけ帳《とばり》のあげられた御帳台《みちょうだい》の内で、体を起こして座していた。
「……翠雨?」
白月の高い声がそこから響く。翠雨はピクリと僅かに眉を動かした。
白月に名をそのまま呼ばれることは少ない。公の場でしか『翠雨』とは呼ばれない。記憶が曖昧と聞いたのは確からしい。
翠雨はそれを寂しく思いながら、帳の手前で膝をついた。その場所からなら、先ほどまで見えなかった、白月の口元だけが見える。
顔色は悪くない。むしろ、薄紅に色づくその唇に、翠雨は思わず目を奪われた。薄い着物に白い絹の肌。
愛しい方のそれを、翠雨は頭をゆっくり左右に振って追い出し、頭を下げた。
「御加減は如何でしょうか?」
「大事ありません」
いつもの『大丈夫だよ』という、明るい答えを期待していたのに、返って来たのは涼やかな鈴の音のような声と、どこか他人行儀な返答。顔を上げて帳の向こうをじっと見るが、表情はわからない。
「御記憶が定かでないと伺いましたが、私のことも?」
「ええ。ごめんなさい」
「……では、璃耀のことも?」
翠雨は思わず問いかける。自分の事を忘れられて、璃耀の事は覚えている、などと言われたら、到底許せない。璃耀を。
しかし、白月は首を横に振って否定した。そして、感心したような声を出す。
「貴方は璃耀よりも地位が高いのね」
翠雨はそれに、コクリと頷いた。
「四貴族家の筆頭ですから」
「そう。それなら―――」
白月は帳の向こうでスッと立ち上がる。白の薄い小袖の裾から、細い足が覗き、小さく息を呑む。
「璃耀、人払いを。少し翠雨と話をしたいの。貴方も外に居てくださる?」
そう発せられた口調に違和感を持ちつつ、ドクドクとうるさい鼓動を鎮めようと、再び頭を下げて床を見る。
「どうかそのまま、安静になさっていてください」
「大事無いと申したでしょう。―――璃耀」
「……承知いたしました。戸の前でお待ちします。何かあればお呼びください」
いつもなら白月の側を離れず、翠雨と二人になど絶対にさせないはずの璃耀が、素直に外に出ていくのが引っかかった。
むしろ、安静にせねばならぬと押し留めて、くどくど説教を始めてもおかしくないはずだ。どうにもいつもと態度が異なる。
訝りつつ顔を上げ、パタリと閉まる戸を見ていると、直ぐ側に気配がして翠雨はハッと振り返った。
そこには、白の小袖を着崩し、細い首、鎖骨、さらのその下にある小さな二つの双丘まで、絹のようなその肌を覗かせた白月の姿があった。それが翠雨の直ぐ側にピタリと寄り添うように座り体を寄せると、その太腿までもが露わになる。
体が硬直して動かない。
「……は……白月様……」
引き絞られるような声でそう名を呼ぶと、白の肌に艶やかに浮き上がる濃い桃色の唇が弧を描く。
翠雨は喉が詰まり、それ以上の声を出すことが出来なくなった。
胸元に細く小さな手を置かれると、うるさいくらいに心臓がドクドクと脈打つ。
「ねえ、私の願いを聞いて欲しいの。翠雨」
白月の声が、甘く囁くように響く。
動揺から動けないでいると、白月はそのまま翠雨に体重を預けるようにして、顔をこちらへ寄せた。更に、もう片方の冷たい手が頬に添えられ、温かい吐息が顔にかかる。
そしてそのまま、柔らかな唇で自分の口を塞がれー――
翠雨は突然の出来事への驚きで、ただただ目を見開いた。
塞がれた唇の向こうで、こちらの唇をこじ開けるように相手の舌が動く。舌と舌が絡まり、それとともに、何故か濃い鉄の味が口いっぱいに広がった。口中を満たすそれに、ゴクンと喉が動く。
すると、自分に覆いかぶさっていた白月の顔が満足気な表情を浮かべてスッと離れた。唇からツゥと赤い糸が引き、プツリと切れる。
あまりの事態に動けず、じっと彼女を見ると、今まで見たことのないような妖艶な笑みで微笑まれた。
歓びよりも、動揺の方が大きい。目の前の者は、自分の知る白月とは明らかに違う、そう想った。
「……一体……何を……? どう、なさったのです……?」
戸惑いと共にようやくそう言うと、白月はフッと笑みを消す。そして、何故か不思議そうに首を傾げた。
「……私を欲しくならないの?」
……白月様を……?
そんな訳はない。ずっと焦がれていた。ずっとお側にたいと思っていた。でもそれは、今目の前で妖しげに自分を見つめるこの方ではない。
そう、はっきりと思った。翠雨の求めるあの方は、まるで子どものように何時も自由で奔放で、無邪気で、どこまでも純粋で――
その笑顔を思い出し、翠雨は白月を押して退け、一歩下がって距離をとった。
熱っぽかった頭が一気にスゥッと冷えたような感覚がある。
―――そうだ。違う。
「御冗談を」
短く、しかしはっきりと、翠雨はそう答えた。
目の前の白月は不可解とでも言いたげに眉根を寄せる。それから、彼女の唇が、聞こえるか聞こえないかというくらいに小さな声とともに動いた。
「…………あぁ、そうか……体が…………」
―――体が
そこに続く言葉は一体なにか。小さなそれは、翠雨の中の違和感と疑念を大きくする。
「いつもとご様子が異なるようです。少し、お休みになられた方が宜しいでしょう」
このまま、ここに居るべきではない。姿形は同じでも、目の前の白月は白月ではない。
証拠は無いが、翠雨は確信を持ってそう思った。
璃耀がこれに気づかぬはずがない。
あやつは何を隠している?
とにかく、ここを出て問い詰めねばと立ち上がる。
しかし白月は、それを引き止めるように、翠雨の着物の裾をそっと摘んで引いた。
まるで縋るように瞳を潤ませ、こちらを見上げるその顔は、どう見ても白月の顔では無い。
「翠雨」
そう呼びかける声もまた。
「失礼いたします」
翠雨はピッと袖を引っ張ると、そのままくるりと白月の姿をした何者かに背を向けた。
0
あなたにおすすめの小説
神木さんちのお兄ちゃん!
雪桜 あやめ
キャラ文芸
✨ キャラ文芸ランキング週間・月間1位&累計250万pt突破、ありがとうございます!
神木家の双子の妹弟・華と蓮には"絶世の美男子"と言われるほどの金髪碧眼な『兄』がいる。
美人でカッコよくて、その上優しいお兄ちゃんは、常にみんなの人気者!
だけど、そんな兄には、何故か彼女がいなかった。
幼い頃に母を亡くし、いつも母親代わりだったお兄ちゃん。もしかして、お兄ちゃんが彼女が作らないのは自分達のせい?!
そう思った華と蓮は、兄のためにも自立することを決意する。
だけど、このお兄ちゃん。実は、家族しか愛せない超拗らせた兄だった!
これは、モテまくってるくせに家族しか愛せない美人すぎるお兄ちゃんと、兄離れしたいけど、なかなか出来ない双子の妹弟が繰り広げる、甘くて優しくて、ちょっぴり切ない愛と絆のハートフルラブ(家族愛)コメディ。
果たして、家族しか愛せないお兄ちゃんに、恋人ができる日はくるのか?
これは、美人すぎるお兄ちゃんがいる神木一家の、波乱万丈な日々を綴った物語である。
***
イラストは、全て自作です。
カクヨムにて、先行連載中。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
マンションのオーナーは十六歳の不思議な青年 〜マンションの特別室は何故か女性で埋まってしまう〜
美鈴
ファンタジー
ホットランキング上位ありがとうございます😊
ストーカーの被害に遭うアイドル歌羽根天音。彼女は警察に真っ先に相談する事にしたのだが…結果を言えば解決には至っていない。途方にくれる天音。久しぶりに会った親友の美樹子に「──なんかあった?」と、聞かれてその件を伝える事に…。すると彼女から「なんでもっと早く言ってくれなかったの!?」と、そんな言葉とともに彼女は誰かに電話を掛け始め…
※カクヨム様にも投稿しています
※イラストはAIイラストを使用しています
学園のアイドルに、俺の部屋のギャル地縛霊がちょっかいを出すから話がややこしくなる。
たかなしポン太
青春
【第1回ノベルピアWEB小説コンテスト中間選考通過作品】
『み、見えるの?』
「見えるかと言われると……ギリ見えない……」
『ふぇっ? ちょっ、ちょっと! どこ見てんのよ!』
◆◆◆
仏教系学園の高校に通う霊能者、尚也。
劣悪な環境での寮生活を1年間終えたあと、2年生から念願のアパート暮らしを始めることになった。
ところが入居予定のアパートの部屋に行ってみると……そこにはセーラー服を着たギャル地縛霊、りんが住み着いていた。
後悔の念が強すぎて、この世に魂が残ってしまったりん。
尚也はそんなりんを無事に成仏させるため、りんと共同生活をすることを決意する。
また新学期の学校では、尚也は学園のアイドルこと花宮琴葉と同じクラスで席も近くなった。
尚也は1年生の時、たまたま琴葉が困っていた時に助けてあげたことがあるのだが……
霊能者の尚也、ギャル地縛霊のりん、学園のアイドル琴葉。
3人とその仲間たちが繰り広げる、ちょっと不思議な日常。
愉快で甘くて、ちょっと切ない、ライトファンタジーなラブコメディー!
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
異世界で農業を -異世界編-
半道海豚
SF
地球温暖化が進んだ近未来のお話しです。世界は食糧難に陥っていますが、日本はどうにか食糧の確保に成功しています。しかし、その裏で、食糧マフィアが暗躍。誰もが食費の高騰に悩み、危機に陥っています。
そんな世界で自給自足で乗り越えようとした男性がいました。彼は農地を作るため、祖先が残した管理されていない荒れた山に戻ります。そして、異世界への通路を発見するのです。異常気象の元世界ではなく、気候が安定した異世界での農業に活路を見出そうとしますが、異世界は理不尽な封建制社会でした。
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる