木蓮荘

立夏 よう

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木蓮屋敷2

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その頃のわたしは野崎家がどんな家なのかろくに知りもしなかった。後から知ったのだが野崎家はもともとこの地域の網元から名をなしそのうち海運業にも手を広げたのだそうだ。今の当主はそれらの事業を他家に売り渡し投資家として主に東京を拠点にし相場で大儲けしているらしい。妻は早くに亡くなり、残されたのは一男一女。長男も東京の大学に進学し、屋敷に残されたのは娘一人だった。野崎家の一人娘に皆が傅くこの屋敷に、わたしは奉公することになった。
町の中心部から少し離れた楢の林の麓に野崎家はあった。身がすくむような見たこともないほど立派で広いお屋敷。あの女性に連れられお勝手から屋敷にあがる。学校のような、でもそれよりもっと立派な黒光りする床材が敷き詰められている。ひんやりとした床、天井の高さ、それらの大きな屋敷が醸し出す特別な雰囲気に圧倒され、ますます怯える気持ちが強くなる。今すぐ家に飛んで帰りたい。でもその選択肢はないのだ。お勝手にわたしを置き去りにして誰かを探すような素振りをしながら、ここまでわたしを連れてきたあの女の人は姿をけした。

もどってきたのは別の人だった。その人もまたわたしを頭の先から足の先まで無遠慮にながめた。
「なんだいやけに幼いし随分細いね。こんな子を雇ってどうしろっていうのさ」
悪態をつきながら、わたしにあがるように促し、名を問うた。
「大野いとと申します」
わたしはそう答えるのが精一杯だった。
「いと。とりあえずその格好はどうにもならないから着替えなさい。もっとましな着物を持ってくるからね。この屋敷では人手は足りてるんだよ、なんであんたみたいなのを今時分に雇ったんだか。まあいい。使えと言われたからにはあんたを一人前の女中に育ててやるから。まずは下女の見習いをするんだよ。言われた通りしていれば悪いことにはならないからね」
この人はいい人だ。たきと名乗った女中頭についてわたしはそう思った。思おうとしたというほうが正しいのかもしれない。

その日からわたしは野崎家の女中部屋に寝泊まりし、下女見習いとして働いた。とはいえ、この家に当主の野崎総一朗様が帰宅することは滅多になく東京の大学に進学している長男の勇一郎様も同じく滅多に帰ってこないことから屋敷の仕事はそれほど多くはなかった。たきさんは言われたことにちゃんと従っている限りは穏やかだったがたまに手抜きを見つけると烈火の如く怒り出すのでわたしはさぼらずに誠実に仕事をすることがここでうまくやっていくこつだということを早くにおぼえた。実は、思いの外、野崎家での生活は楽しかったのだ。母はわたしを虐めることを憂さ晴らしとしていた。妹と弟と差をつけることでわたしが悲しむのを見て喜ぶのだ。そしてわたしがそれを見せまいと気にしないふりをするとそのやり口は更にきついものとなり、結局こどものわたしは母の前に頭を垂れるしかなかったのだ。ここではそんなやり方をするものは誰もいない。女中部屋の共同生活も、きよさんの鼾には閉口させられるが家よりもずっと平和そのものだった。故意に自分を傷つけるものがいない暮らしはこれほど穏やかなものだと知り、薮入にも帰らないといってみんなにいぶかしがられた。ここのほうがずっとよかったのだ。ただ、いい事ばかりではないことをすぐに思い知らされることになる。


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