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木蓮屋敷3
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あの若い女の人は、この屋敷の一人娘、綾さまの家庭教師だった。わたしはここに来てひと月近くになるけど未だ綾さまの姿は見ていない。綾さまは身体が弱く日の光を浴びると熱が出るのだそうで、だから学校にも通わず家庭教師の先生が学問を見ているということでほとんど自室に閉じこもっておられるそうだ。
その家庭教師の先生が、表を掃いていたわたしのところに近づいてきて言った。
「あなた、学びたいという気持ちはあるかしら?」
わたしは尋常小学校を出てからは高等小学校にあがれるわけもなく、学ぶこととは無縁だった。わたしは果たしては学びたいのだろうか。ここはなんと答えるのが正しいのだろう。戸惑うばかりだった。
彼女は続けていった。
「綾さまと一緒に学業に励む気はないかしら。ずっと一人で学んできていてすこし身が入っていないこともあって、学友ができれば変化になっていいんじゃないかと思って。」
何か提案されたとき、わたしは否定する立場にはないとわかっていた。でもさすがにこれは恐れ多いことではないか。
「わたしなど、尋常小学校で読み書きを習った程度でもっと上の学問など滅相もないことで。」
もちろんこの話は断れる話ではないのだ。そもそもここにわたしが買われたのもおそらくこのためなのだから。
「そんなことはいいのよ。あなたに教えることも一つの学びなのだから。いいわね?明日のお昼から始めましょう。たきさんには私から言っておくから」
彼女はそう言って動揺しているわたしをまた置き去りにした。掃いていた庭にはいつのまにか枯れ葉が舞い落ちていた。わたしはただ無心に掃くことにした。考えることが怖かったからだ。
昼に言われた通り、いつもは掃除するだけの北側の座敷で待っていたら、先生が現れた。
「いつもは綾さまのお部屋でお勉強するのだけど試しに今日はここを使ってみましょう。誰にも立ち入らないように言いつけてあるから気兼ねはいらないわ」
その時、奥側のふすまが開き、少女が入ってきた。綾さまだ。
最初に目に飛び込んできたのはその髪型だった。おかっぱ。長めの前髪に切りそろえてある。わたしと同じくらいの年齢なのに日本髪に結わずにおろしている子は見かけないけどお金持ちの家のお嬢様にはよくある髪型なのかもしれない。きれいな着物、白い肌、折れそうなくらい細い指先…。じろじろ見るのは失礼なのだけど目が離せない。そんなわたしを見とがめるように先生が言った。
「さ、ふたりとも座りなさい。今日はなにから始めましょうか」
「先生、この子がいと?」
「そうですよ。ちゃんとお話したでしょう。綾さまが怠けるからわたしが呼んだのですよ」
綾さまはわたしのほうに向き直ってにこりと笑った。人にこんな風に微笑まれたことは初めてだった。
「いと、一緒にお勉強しようね」
お勉強といっても随分変わった勉強だった。わたしは尋常小学校までしか修めてないから高等学校やそれより上の学校ではどのようなものを学ぶのか知らないだけかもしれないけど、修身のようなものはまるでやらず、とにかく本を読んだ。先生もその間ただ読むのだ。そして読んだあとそれぞれ思うことを言う。といっても話すのは綾さまと先生だけだったが。先生は山口先生と言うのだが、なんでも東京の女学校を立派な成績で出たばかりだという。綾さまは今までいろんな教師を招いても馴染まなかったので何人も教師が変わったらしいのだが、この山口先生とはうまがあったのか招かれて一年続いているのは初めてなんだとたきさんから後で聞いた。わたしは読むことも遅かったし感じたことを自由に話せと言われても最初はそんなことをしたことがなかったのでどう言えばいいのか皆目検討がつかなかった。それでもその授業に慣れてくると少しずつ、拙いなりに感じたことを言えるようになった。ただ、先生も綾さまにはなまりがなくて自分のなまりが恥ずかしくてたまらなかった。
この昼の学業の時間は楽しかったのだ。問題はその後だった。ある日、綾さまに言われた。
「いと。いとは夜は何をしているの?」
「夜ですか?夜は水場のお仕事が済んだら朝の支度の準備だけしたらおしまいです。」
「そう。なら、今日、そのお仕事が終わったら綾のお部屋にお出で?」
「いえいえ、滅相もないことで。ご遠慮させてください」
「駄目駄目。綾に遠慮禁止でしょう?来てね。待ってるから」
綾さまはわたしが嫌と言えない質と立場なことをよくご存知だった。この日からわたしはしてはならないことに足を踏み入れていくことになる。
その家庭教師の先生が、表を掃いていたわたしのところに近づいてきて言った。
「あなた、学びたいという気持ちはあるかしら?」
わたしは尋常小学校を出てからは高等小学校にあがれるわけもなく、学ぶこととは無縁だった。わたしは果たしては学びたいのだろうか。ここはなんと答えるのが正しいのだろう。戸惑うばかりだった。
彼女は続けていった。
「綾さまと一緒に学業に励む気はないかしら。ずっと一人で学んできていてすこし身が入っていないこともあって、学友ができれば変化になっていいんじゃないかと思って。」
何か提案されたとき、わたしは否定する立場にはないとわかっていた。でもさすがにこれは恐れ多いことではないか。
「わたしなど、尋常小学校で読み書きを習った程度でもっと上の学問など滅相もないことで。」
もちろんこの話は断れる話ではないのだ。そもそもここにわたしが買われたのもおそらくこのためなのだから。
「そんなことはいいのよ。あなたに教えることも一つの学びなのだから。いいわね?明日のお昼から始めましょう。たきさんには私から言っておくから」
彼女はそう言って動揺しているわたしをまた置き去りにした。掃いていた庭にはいつのまにか枯れ葉が舞い落ちていた。わたしはただ無心に掃くことにした。考えることが怖かったからだ。
昼に言われた通り、いつもは掃除するだけの北側の座敷で待っていたら、先生が現れた。
「いつもは綾さまのお部屋でお勉強するのだけど試しに今日はここを使ってみましょう。誰にも立ち入らないように言いつけてあるから気兼ねはいらないわ」
その時、奥側のふすまが開き、少女が入ってきた。綾さまだ。
最初に目に飛び込んできたのはその髪型だった。おかっぱ。長めの前髪に切りそろえてある。わたしと同じくらいの年齢なのに日本髪に結わずにおろしている子は見かけないけどお金持ちの家のお嬢様にはよくある髪型なのかもしれない。きれいな着物、白い肌、折れそうなくらい細い指先…。じろじろ見るのは失礼なのだけど目が離せない。そんなわたしを見とがめるように先生が言った。
「さ、ふたりとも座りなさい。今日はなにから始めましょうか」
「先生、この子がいと?」
「そうですよ。ちゃんとお話したでしょう。綾さまが怠けるからわたしが呼んだのですよ」
綾さまはわたしのほうに向き直ってにこりと笑った。人にこんな風に微笑まれたことは初めてだった。
「いと、一緒にお勉強しようね」
お勉強といっても随分変わった勉強だった。わたしは尋常小学校までしか修めてないから高等学校やそれより上の学校ではどのようなものを学ぶのか知らないだけかもしれないけど、修身のようなものはまるでやらず、とにかく本を読んだ。先生もその間ただ読むのだ。そして読んだあとそれぞれ思うことを言う。といっても話すのは綾さまと先生だけだったが。先生は山口先生と言うのだが、なんでも東京の女学校を立派な成績で出たばかりだという。綾さまは今までいろんな教師を招いても馴染まなかったので何人も教師が変わったらしいのだが、この山口先生とはうまがあったのか招かれて一年続いているのは初めてなんだとたきさんから後で聞いた。わたしは読むことも遅かったし感じたことを自由に話せと言われても最初はそんなことをしたことがなかったのでどう言えばいいのか皆目検討がつかなかった。それでもその授業に慣れてくると少しずつ、拙いなりに感じたことを言えるようになった。ただ、先生も綾さまにはなまりがなくて自分のなまりが恥ずかしくてたまらなかった。
この昼の学業の時間は楽しかったのだ。問題はその後だった。ある日、綾さまに言われた。
「いと。いとは夜は何をしているの?」
「夜ですか?夜は水場のお仕事が済んだら朝の支度の準備だけしたらおしまいです。」
「そう。なら、今日、そのお仕事が終わったら綾のお部屋にお出で?」
「いえいえ、滅相もないことで。ご遠慮させてください」
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